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 キャシー捜査官は人間よりはるかに強靱で、竜鱗騎士みたいに負傷を自然に治癒させることができた。

 だがマツヨイは閉じた瞳を開くことはなかった。

 刺し貫かれた傷は黒ずみ、ひび割れのように広がっていく。

 それが全身に達したとき、彼女の体は、鏡が砕ける音を立てて崩れた。

 崩れたのだ。

 ぼろぼろの、黒い破片になって。


 アマレは《ファウストの鏡》を懐から出し、床に叩きつける。

 激しい音響を立てて、それは壊れてしまった。


「ずっと、ずっとわかっていたことだった。母さんは僕を愛さない。絶対に……何があっても……コチョウの息子であるこの僕を愛したりなんかしない……」


 何よりも残酷なことが、この一瞬で起きた。

 誰かが手を伸ばさなければ、本当に大事なことが指先が滑り落ちてしまうだろう。

 でも、どんな声をかければいい?

 魔法でも救えないのに。


「聞いて。君を受け入れてくれる人たちが必ずいる。それは君の母親ではないけど、君がほしがってたものに手が届く瞬間が必ずあるって、僕はそう信じてるよ」


 だから、差し出した手を、救おうとする手を拒まないでほしい。

 彼は僕を見た。その、悩ましげな紫の瞳で。

 口元は歪んでいる。嘲笑に似ている。


「やはり変な人だ。こうなることが、貴方の望みだったくせに」

「……僕の? 僕の望み? 何の話だ」


 アマレが抱いていた《歪み》は、確かに受け入れられない。

 でも、僕は善悪を決める立場にも、裁く立場にも立っていない。

 彼の境遇を想えば、無理もないことだったと理解している。


「もしかして気がついていないのかな。それとも……彼女は、このことを知らせていないのかな。そうだとしたら間抜けすぎるね」

「待って、だから、それはどういう意味なの」

「マージョリー・マガツ――すべては、彼女の《願い通り》だってこと。全天の魔女が描いたシナリオ……その筋書きに星条アマレは必要ない」

「どうしてここで、君が、その名前を出す……!?」


 さあね、とアマレは苦痛を刻んだ表情で告げた。

 あくまでも、彼は現実から距離を置き、そこで起きていることを直視しないつもりなのだ。彼を徹底的に傷つけ、何もかもを奪い去った現実を……。

 偽物の母親さえも自分を拒み、この世界に彼を繋ぎ止めるものは完全になくなってしまった。


「この先に、星条アマレは必要ない。さよなら、マスター・ヒナガ。僕はあなたが言うようには生きられない」


 滑り落ちる。


 どんなにしっかりと閉じていても、水を掌で掬いきれないように、こぼれ落ちていってしまう。アマレを、繋ぎ止めることが、僕にはできない。

 そして。

 そして、それは一瞬だった。


「やめるんだ、アマレ! 《昔々、ここは偉大な魔法の国!》」


 強制発動したオルドルの魔術によって、茨が鞭のようにしなり、壁面の鏡を粉砕する。

 しかし、飛び散った鏡の破片がアマレを捉えた瞬間。


 鏡のなかのアマレの姿が、かき消える。


 そして、現実にも同じことが起きた。

 消えた。

 音もなく、気配もさせず、何も残さないで。

 僕が伸ばした手は、何もない空間を引っかいただけで、オルドルに食われて血を流した。


「なんで……!」

『アマレは消失した。あくまでも《消失》だ。鏡の中から自分を消し去り、現実の星条アマレも消えたんだ。厳密な《死》ではないが……。この現実のどこにも存在もしていなイものになった』

「そうじゃない、そうじゃないんだ……!」


 オルドルの解説がなくても、少年が何を選んだのかは明らかだった。


 人が……。

 人が一番孤独な夜、眠りにつく前に願うことは。


 どこか遠いところに行きたい。

 何ひとつ残さずに消えてしまいたい、だ……。


 アマレは願いを叶えた。一瞬で。

 そのことを信じたくなかっただけなんだ。

 

 事態はまだ続いていた。


「マスター・ヒナガ……!」


 イチゲが恐れを含んだ声音で、呼ぶ。

 首を飛ばされた魔人は、天井からの明かりの下、まだ生きていた。

 地面に着いた膝を立てて起き上がり転がった首を持ち上げた。

 黒々とした髪を掴み、何もない首のあたりにゆっくりとおろしていく。

 異常な事態を前にヒギリは身動きできないでいる。

 どうしたらいいか、その判断を他人にゆだねている風でもある。

 でも僕も、どうしたらいいかなんて、全くわからない。

 ただその困惑はイチゲたちとは少しだけ違っていた。


 魔人の切り飛ばされた頭には、闇がかかっていなかった。

 腕を落とされたとき、その部分が人のものに戻ったのと同じ理屈だ。

 だから、そこには、尖晶クガイの頭があるはずだ。

 マツヨイの兄が。

 コチョウと同じ、先代翡翠女王の騎士の、その顔が。


「…………………父さん」


 その一言が、他ならない、僕の……《自分自身の口から》漏れた言葉だとは、とてもではないが信じられなかった。


 ほんの一瞬見ただけだ。

 他人の空似かもしれない。

 何かの間違いなのかも。


 でも、心臓の鼓動が早鐘のように打ち、止まない。


 魔人はその間に、天上に空いた穴に向かって跳躍する。

 困惑する僕のことも、消えてしまったアマレのことも気にもかけず。

 僕らを置き去りにして、行ってしまった。

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