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エミリ、というらしい女性は、市警が到着する前に慌ただしく去って行った。
というのも、彼女を襲っていたのは彼女の夫その人で、エミリは暴力的な夫から逃げようとしていたところだったのだ。
「これから娘と、海市を離れるつもりですが、落ち着いたらお礼がしたいのでこれを……」
そう言って彼女は連絡先を渡してきた。
「でも、逃げなくても市警にまかせておけば、あの人は捕まるでしょう」
僕は海のほうを振り返って言った。
元夫は溺れそうになりながら、海面を漂っている。銀鎖でつないでいるので、流されることはないと思う。
もちろん陸に上がってくることもない。口汚く「エミリは俺の女だ! 娘を返せ!」と腕を振り回しては、オルドルに沈められているのだ。
妻と娘を返してほしければ、最低でも暴力をふるうのをやめなくてはならない、という単純な事実すら理解できない、僕には馬鹿にみえる。
「いえ……じつは、あの人の親戚が市警に勤めているのです。とても信用できません」
「あ、そう……」
「それに……」
彼女は頬を赤らめた。なんでも、エミリにはすでに新たな恋人がいて、その人と新天地に飛び立つ予定なのだという。
よく観察すると、元夫がなんだか汚らしくてみすぼらしいジャンパーを着ているのに対して、エミリとその娘は仕立てのいい、おそろいのワンピースや高級そうなバッグを手にしていて、いかにも羽振りがよさそうだった。
すくなくとも彼女は現状に満足しているようだったし、遠くへと行ってしまえば、そうそう簡単に追っては来れないだろう。
僕はふたりを見送り、男を市警に引き渡すと、束の間のヒーロー気分を味わった。
「とんだことに巻き込まれてしまいましたね……すみません、私が誘わなかったらこんなことにはならなかったのですが」
ミクリは申し訳なさそうな顔をしていたが、その気の使い方は不要だ。
「巻き込まれ方でいくと、これまでのに比べたら、蚊に刺されたようなもんだよ。それよりも、僕はこれからアマレの所在地を調べてみようと思う。僕の下宿しているところに、昔、黒曜家で家庭教師をしていた人がいるんだ」
「三大貴族のですか。それは、有力な情報が得られそうですね」
「駄目だったら、天藍にでも……」
言いかけて、口を噤んだ。
「あ、いや、なんでもない。何かわかったら、連絡するよ。これからちょっと野暮用があるから」
ミクリは一瞬、不用意に途切れた言葉の続きを探すような表情だったが、察しがよい彼女のことだ。何も訊ねずに、そこで別れた。
もしも訊ねられていたら、なんて答えただろう。
なんにせよ、天藍は今回、頼れない。
*
向かったのは聴通りというところだ。
かつて魔術師たちのために呪具や魔術書を調達し、売りつけていた商人たちが軒を連ねていた由緒ある場所である。
魔術が禁止になり、高級ブティックが立ち並ぶ商店街へと姿を変えたが、いまも営業を許された店舗がいくつかある。ウィクトル商会もそのひとつで、歴史ある店構えが通りの真ん中に鎮座している。
幻術を解いて回転扉を入る。店構えに反して、内部は新しい。
磨き抜かれた黒い床が鏡みたいだ。三方にカウンターがあり、商談をする客がそこそこいた。
どこかから古いもののにおいがする。
ひくひく、すんすん、という音が耳元でする。オルドルが鼻を鳴らす音だ。
『ふん……つまらない店だネ。で、どうするツモリなの~?』
「わかんないけど、なんとかするしかないだろ」
内ポケットから、手紙を取り出した。
ウィクトル商会から――三大魔女リリアンから届いた手紙だ。
僕はここに書かれた見覚えのない内容について、彼女に問いたださなくてはいけないのだ。
すなわち、僕が商会から何かを買って、数億円の借金があるとかいう、まったく身に覚えのない事柄についてだ。
身に覚えのない殺人、ときて、さらに身に覚えのない借金が続け様にやってくるとは……。
この手紙に比べれば、路上で起きた殺人未遂などまだかわいらしいものだ。
「あの、すみません。こちらにリリアンという方はいらっしゃいますか」
適当に、手が空いていそうな店員に話しかける。
店員は僕の格好と手紙の内容矯めつ眇めつし、素っ気なく「あちらの昇降機で最上階に上がってください」と言った。
フロアの隅に、朽ちかけた檻みたいなものがある。
てっきり、荷物の運搬用かと思っていた。ギシギシいうそれに乗り込んで、最上階のボタンを押す。
着いた階は闇に閉ざされていた。
勇気を出して一歩踏み出すと、長い廊下に明かりがともっていき、真ん中あたりで途切れた。
そこの扉を開けろ、という、意志表示に思える。
扉の向こには案外と普通のオフィスがあった。近代的なものと、古いものが入りまじっていて、ソファの向こうには暖炉があり、火が入っていた。
「誰も……いない」
きょろきょろしていると、笑い声が聞こえる。
でも、人影はない。
「こっちに来て」
声と一緒に暖炉の火が揺れる。
『気が乗らないナ……』
「仕方がないだろう、こんな大金、とてもじゃないけど返せないし、そもそも身に覚えがない」
『いかにも罠ってカンジでしょ』
誰もいない部屋をぐるりと一周し、火に手をかざした。
あたたかいが、熱い、というほどではない。にせものの火だ。
僕は意を決して、その火をくぐった。
熱さはないはずなのに、目を瞑ってしまう。再び開いたとき、僕の手足は茂る若草を踏んでいた。
目の前には小さな野生の草花が咲きそろう庭と空と、見知らぬ家があった。
家の前に木製のブランコがあり、リリアンが腰かけていた。
「来ると思ってた」
「これも、魔術でできているの?」
「商会が所有する魔道具の力です」
「さっそく、話があるんだけど」
僕が手紙を差し出すよりはやく、彼女は銀色の小箱をとりだし、蓋を開けた。
薄水色の絹にそっと寝かされていたのは、真っ黒い……。
「うっ……」
思わず、半歩下がってしまった。
そこにあるのは、角だ。
色は黒。
付け根は太く、らせんの刻み模様をつけながら、尖った先端に向けて伸びていく。
その表面は滑らかなガラスに似た光沢をまとっている。なのに、その下で、何かが確かに蠢いている。みみずのようにのたうち回って這いまわる、汚らしい何かだ。
「それは、何……?」
「こちらが、黒一角獣の角――の、複製です。これは魔道具というよりも、呪いの産物といったほうがいい」
『…………絶対に近寄ってはいけないヨ。惨たらしく死にたくなければネ』
しかし近寄るまでもなく、リリヤンの手の中で、角は罅が入りもろい土塊になって崩れていった。
「この世の悪しきものを集めるって、どういうこと?」
「言葉通りの意味ですよ。コレは、憎悪や怒り、不安や悲しみをもたらす運命を引き寄せては絡め取り、結晶化する稀少鉱物なのです」
「はあ……」
「要するに、悪運を招き入れてため込むタンクのようなものです。しかも、満タンになることがありませんから、不出来なものは、この模倣品のように崩れ去ってしまう」
「ええと、そんなものをため込んで何をするんだ?」
「それは性質ですから、それをどう利用するかの問題です。強いて言えば、持ち主を不幸にします。永遠に」
「そんなものを、僕が購入したっていうのか? こんなバカみたいな値段で?」
彼女は手紙を一瞥する。ものすごく冷たい、というか、無感動な瞳で。
「ウィクトル商会が扱うもののなかでも、特別な魔道具は、売却という概念がありません。あくまでも貸与です。購入した者が亡くなれば、その子か、ほかの相応しい人物が所有します。いずれにしろ、代金を商会に支払わねばなりません。そういう契約です」
「えーともしかしてだけど、僕に請求されたこの法外な値段は……」
「そう、所有権の移譲のための代金です」
所有者が即座に決まらないとき、品物は商会に戻される。
「実をいうと、この黒一角獣の角の《本物》は、長い間行方不明でした。最後に確認されたのが、もう退官した学院の教官、マスター・ロカイに譲り渡されたときです」
けれど、ロカイのもとから、この角は盗み出されてなくなってしまった。
「僕が犯人だとでも言うつもりか」
「そこが複雑なのです。盗難の犯人は、わかっています。当時、魔術学院に在籍していた二人の生徒、星条コチョウと尖晶クガイの二名が盗み出したのです」
コチョウ。
その名前が、ここで出て来るとは思わなかった。
動揺を隠しながら、会話を続ける。
「えと、じゃあ、そのふたりのどっちかが持ってるわけだろ」
「いえ、彼らも角を持ってはいないのです。コチョウ氏が不幸に見えます?」
残念ながら、全く、見えない。
身分にも、容姿にも恵まれて、おまけに事業は大成功だ。少しでも不運だったら、あれほどの、誰もが羨む栄光を手にすることはできなかったはずだ。
「そして、尖晶クガイ様は行方不明なのです」
「ホラ、いまの持ち主はどう考えても、そっちのセンショウなんとかって人だろう」
リリヤンは溜息を吐いた。
なんだその態度は。バカは僕の方だ、と言われているみたいだ。
「商会も、当初はそう考えていました。――貴方が現れるまでは」
「どういうこと?」
「貴方は、不幸を招き寄せやすい。びっくりするような事件や事故が、身の周りに頻発するでしょう。銀華竜やキヤラのこともそう。それが、この角の効果と酷似している」
残念ながら、身に覚えがないこともなかった。
星条アマレに関わったがために、帰りがけに騒動に巻き込まれた。その前に、いつもはいないはずのコチョウが在宅しているという不幸もあった。
それに。
ルビアの死に関わった、その事件のことを僕はまっさきに思い出していた。
「……確かに否定できないけど、それはもともとの運の悪さだ」
「ほんとうにそうかしら」
リリヤンはじっと、冷たい、水晶のように透明な眼差しでこちらを見つめてくる。
「商会は、訴訟を起こすつもりでいます」
「ええっ!」
「何が真実なのか、裁判で明らかにするつもりなのです」
また、という言葉を、すんでのところで飲み込む。
マージョリー殺害の疑惑をかけられ、逮捕された不幸については聞かれたわけではないので黙っておいたほうがいい。
「裁判は困るけど。君は、どう思ってるの?」
「わたし……ですか?」
いかにも才媛というふうな、彼女の瞳が少し見開かれる。
「さっきから聞いてると、商会は商会はって、主語が自分ではないからさ」
「わたしはあくまでも、商会の収蔵庫の管理人ですから。管理人は商会の決定に従い、貴方から品物を回収しなければなりません」
三大魔女とはいえ、あくまでも、彼女は商会の所属員として僕に手紙を出したようだ。彼女と争っても、商会が意見を変えないかぎり、意味はない。
「改めて言うけど、僕は持ってないよ。この《角》を見たのははじめてだ。そういうものがあるっていうことも、今このときまで知らなかった。事情は話せないけど、絶対に知らないんだ」
愚かでも、そう主張するしかない。
それが真実だ。僕は、藍銅からやってきた魔術学院の教師ではない。
魔法のない、日本からやってきた異世界人だ。翡翠女王国人である星条たちが盗み出した角に触れる機会はなかったはずだ。
それを説明できないのが残念だけど。
しかし彼女はおずおずと、こう切り出した。
「……星条コチョウと尖晶クガイは、異世界の扉を開けたのです。《角》にこめられた負の力を使って」




