23 きずあと
幽閉のスケラトスはその名の通り、どんな場所にでも《閉じられた空間》を出現させる能力を持つ。その狡猾さの犠牲となった兄は、密室の中であるはずもない魔物を、《恐怖の具現》を誕生させる。
ルビアの場合、それは父ヘデラだった。
魔術によって魔人となったヘデラが持つ鞭は、なぜなのかどうしてなのか何がなんだかわからないが、ぶち当てた人間や《魔術》に対して《支配》の力を発揮する。
最低最悪のコンボを決めれば、連続自殺事件の完成だ。
青海文書で密室を作りだし、そしてヘデラの鞭で《死ね》と命じるだけで人間は容易く死ぬ。
自ら喉を切り裂き、抵抗しようもなく首を絞めて自死する。
ルビアはそうしてたくさんの人を殺した。
彼女は暴力に脅える少女だった……だから、彼女が青海文書の読み手になれたことそれ自体に疑問はない。
そして、人の心が時として相反する二つの面を同時に持つことも、想像の範囲内だ。
痛めつけられたルビアの心は幸福な人々を羨みむ悪魔にもなった。
だから、鍵の杖はふたつあったんだ。
最後の一瞬、ルビアの精神には確かにスケラトスの人格が宿っていた。
それは彼女自身が気を失っていたせいかもしれないし、代償の支払いを終えて物語の登場人物と《ひとつになった》せいなのかもしれない。
だが、ルビアがそこまで物語に自身を捧げたというのに、スケラトスたちはルビアを救うことはなかった。
『それが、このボクと木端魔術師の差ってもんだヨ』
こいつの物言いには死者への感情は一切含まれてない。
でも正しい。物語の魔術師の能力には個人差がある。
ふたりには死者の魂を呼び戻し、傷ついた肉体を回復させる術までは備わっていなかったのだ。
だから、こんな救いのない結末しか迎えられなかった。
遺体が市警の手によって運ばれていく。
それを眺めているのは、僕とイブキ、そして白影の騎士の三人だ。
「よく来たな。しかも滅茶苦茶速かったな」
「姫殿下の護衛で近くまで来ていた」
天藍はイブキのカフスを没収し丹念に情報の痕跡を消していた。
マージョリーが、ほんの一瞬、僕の体をコントロールして送ったあの写真だ。
よほど気に食わなかったのだろう。本当は竜鱗魔術で文字通り飛んできたに違いない。
「事情など知りたくもないが、どうせまたお前がらみだろう。鏡をみてみろ。よけいなことに首を突っ込んで後悔している、と書いてある」
もしも、ここに僕が来なかったら。
何かが少しでも違っていたら、彼女は死ななかっただろうか?
確かに、少しでもそう考えなかったかと言われれば嘘になる。
シキミやクヨウに、自分の運命をゆだねてしまえばよかったのだと。
「……殴られている間はね、自分が世界中で一番不幸なんだって気がするんだ」
僕は自然と、そう言葉にしていた。
天藍は端末から顔を上げた。
「自分はなんてかわいそうな奴なんだ、どうして誰からも愛されないんだろうって、それだけを考えていて、やがて何も感じなくなるくらい、世界で一番不幸な自分が当たり前になる」
僕はルビアのことを救いたかった。
長い間ずっと誰もいない部屋の中で、震えていただろう、祈っていただろうかわいそうな女の子を助けたかった。
ほからならない僕自身が彼女と同じだった。かつて、僕がここにいない間、僕も母親に暴力を振るわれていたからだ。
でもだからこそ《それはできない》んだということも知っていた。
「街を歩くと他人が羨ましくて仕方がなくなるんだ。そこらじゅうに当たり前にある幸せがどうして自分には与えられなかったんだろう。これだけ不幸なら――他人の幸せを少しくらい掠め取ってもいいんじゃないか? そう考えている自分に何度もぞっとした」
醜い考えを取り繕って、嘘で塗り固めても、けして嫉妬と羨望はなくならない。
「自分で自分をかわいそうだと思ってる間は、誰も自分自身を救えないんだよ。たとえ神様でも……」
心のどこかで自分は何もできない無力な子どもだと呪いをかけてしまうと、助けようとしてくれている優しい人のことさえ見えなくなる。
翡翠女王国に来て天藍アオイに出会わなければ、僕もいつまでもそのことに気がつかないままだっただろう。
「後悔してるとしたら、君の手を汚させたことのほうだよ」
天藍アオイはなにを考えているのかわからない顔でフン、と鼻を鳴らした。
「竜鱗騎士団に逮捕権はないが、市民を守護する義務があり常時帯剣が許されている」
「そういうことじゃないってば」
「ではどういうことだ」
ぶっきらぼうな口調ながら、銀に鋭い瞳はイブキの端末でも僕でもなく自らの剣を見つめていた。
この騎士はルビアのことを何一つ知らない。
でもだからこそ、こいつにとっては竜も人も同じだ。
刃の前に立てば敵となり、共に戦う者は戦友だ。
ルビアも最後は、ヘデラに虐げられる少女ではなく竜となったのだ。
だから、僕は彼を呼んだ。多少の自己満足のために。
「市警とのやり取りは終わらせておいたよ。正当防衛だったという証言が認められ、君たちに対するこれ以上の事情聴取はないはずだ」
そう穏やかな声で告げられ、ようやくシキミの存在を思い出した。
彼は疲れ切った表情だ。精神力だけでなんとか立っている、という感じ。
短時間とはいえ誘拐・拉致されて、人質にまでなったのだから当然ではある。
「君たちは命の恩人だ。本当に感謝する」
「その、ルビアは……?」
シキミは首を横に振る。
「遺体を確認した」
この国の医療技術がいかに優れていようと、禁術にでも手をつけない限り、蘇生の望みはない。
そういうことだった。
「そして所定の手続きを済ませたあと、亡骸は市警を通じて、実父である使徒ヘデラに引き渡される。彼が望めば、だが」
「………なんで」
冷静に考えれば、なんで、もクソもありはしない。
ヘデラとルビアは親子なのだ。遺体を渡さない、などということはできない。
ルビアはたくさんの人を傷つけた犯人だが、それでも最後の最後にその原因を作った父の元に帰ることになるなんてあまりにもひどい。
「これだけの事件が起きたのに、使徒ヘデラはお咎めなし? 市警が遺体の傷をみれば虐待の事実が明るみに出るんじゃないのか?」
「そのことなのだが……。ルビアの体に残っているはずの、傷が消えていた……」
鞭を受けたとみられる体中の傷は、服からのぞく足や腕にも及んでいたが、シキミが確認したところその全てが消えていたという。
まさか。
『……それが彼女の《代償》みたいだネ』
ある者は肉体を、体の自由を、視力を捧げなければ使えない青海文書の力。
代償は人の体に負担を強いるものだと思っていたけれど、そんなのもあるなんて。
「正式な医療記録が残っていない以上、教団は虐待の事実を認めないだろう」
ヘデラが虐待をしていたことは信者たちも知っているはずだが、信心深い彼らが証言するはずもない。八方塞がり、という状況だった。
「しかし一連の事件の犯人がルビアであるとわかれば、ヘデラも社会的制裁を受けざるを得まい」
シキミはそう言いながら、苦しそうによろめく。
僕は慌ててその体を支えた。
「大丈夫ですか、怪我は?」
「いや、大したことはない。疲労のせいだと思う」
「事務所まで送ります。ええと、イブキ――は、天藍に送ってもらって。明日、また学院で会おう」
別れを告げると、イブキは不満げな顔つきになる。
「なんで自分が班長に送ってもらわないといけないんです?」
「君はどうか知らないけど、天藍は君に用事があるらしいよ」
まさか、先程から天藍が密やかに放っていた殺気に気がつかないとは愚かだなあ。
事件に巻き込んだことに責任は感じるが、でも写真を売り捌いたことじたいは彼女の落ち度だ。
彼女の悲鳴を聞きつつ、僕はシキミさんと事件現場を離れた。
市警の封鎖を抜けて、停めてある車のところまで行く。
さっきは気がつかなかったが、車の中には似つかわしくない毛布が落ちていた。
シキミが待ち合わせに現れず、事務所に鍵もかけずに飛び出したその理由そのものだ。
「シキミさん……あなたは本当に彼女を助けようとしてたんですね。ルビアを取り巻いていた世界は残酷だったけど、貴方のように本当に優しい人間もいたんだ」
「優しくなどない」
シキミの表情は辛そうだった。
少女を助けられなかったことが悔しいのだろう、と判断する。
「……運転できますか?」
「ああ、なんとか。最後の力で、君を送って行こう」
「いや、それは流石に。僕はどうとでも……」
「そうさせてくれるかな、何しろ君は命の恩人なんだから。頼むよ」
いつもよりぎこちない笑みで頼まれ、僕は応じる。
断る言葉も、慰める言葉もあまり多く持っていない。それよりは唯々諾々と従うほうが楽だ。
シキミは運転席側のドアを開け、僕は後部座席の扉に手を伸ばした。
背を向け、腰をかがめて。無防備だった。
そしてまさかこんなことが起きっこない、と考えていた。
「ルビアをここに連れてきたのは、助けようとしていたのではない。彼女が事件の犯人だと知っていたからだ」
――その一言を聞くまでは。