第6話
山ネズミの案内でたどり着いた村は、山の麓に近い場所にあった。
「どうやら、本当にニンゲンはいないようだな」
もとは森を切り拓いた中につくられた、ごく少数のレンガ造りの家屋が並ぶ寒村のようだった。鼻をきかせて先に村の様子に目を光らせていた狼は、納得したふうにうなる。
「言ったじゃないっすか。ウソじゃないっすよ」
頭の上で響くネズミの声には答えずに、狼は慎重に村の中に立ち入った。彼の背に負ぶさりながら、姫も熱っぽい頭で周りを見ようとする。
すると、開けた場所に出たせいか。山奥の方へと目を向けた先に、遠目に高くそびえる塔が見えるのだった。
「……ネズミさん。あなたは、ここに人が住んでいた頃からいたのですか?」
「んー、ちょくちょくおジャマしてたって感じっすかね。腹が減ったら、ちょいとつまませてもらうくらいのことで」
「なぜ村から人がいなくなったのかは、ご存知なの?」
「さて……そいつは分かんないっすね。もう少し、暮らしやすい場所に移動したとかじゃないっすか?」
「あまり頭を働かせようとするな。大人しくしていろ」
「あ……はい……」
狼に釘を刺されて、姫はぽすりと狼の背に火照った身体を預けた。冬毛の彼の背は温かく、注意深い足取りから生まれるかすかな揺れが心地よかった。
村を一周したのち、狼はネズミが居座っていたという一軒家に足を踏み入れた。少しほこりっぽくはなっていたが、ベッドと暖炉もある。狼は古ぼけたベッドの前にまで行くと、姫に降りるように言い、姫も素直に従った。屋外にある薪置き場には幸いにも薪がまだあり、暖炉に火をつけることもできたため、寒さをしのぐには十分と思われた。
「なかなかなもんでしょ?」
「オレには狭すぎるようだがな」
ネズミには広すぎるが、特に身体の大きな狼にとっては入り口をくぐるのも大変なようだった。そして、ようやく人心地ついたところで、仕切り直すようにネズミが言う。
「それじゃダンナ。寝床は確保できたようですし、食い物を集めにいきますかい?」
「食べ物が、あるのですか?」
ベッドに腰掛けた姫が首を傾げる。そういえば、ネズミが洞穴に来たときにそんなことを言っていた気もするが、話がこの村のことにそれていたのだった。
「野草とか、木の実とかっすねぇ。聞けば魚ばっかり食べてたそうじゃないっすか。数は少ないかもっすけど、ないよりはマシっしょ」
「仕方ない、つきあってやる。待てるな?」
「……狼さん」
「ふん、いちいちそんな顔をするな。何のためにオマエをここまで連れてきたと思っている」
不安そうに見つめる姫に対して、狼は七面倒くさそうに鼻から息を吐き出した。
「必ず戻る。まったく……村にニンゲンがいれば、さっさとオマエを放っておけたものを」
ふい、と顔を背けるように踵を返して、狼は姫が何か言う前にとっとと家を出て行ってしまった。
ぽつんと取り残されてしまった姫は、彼に包まれていたときの温もりが消えぬうちに、生乾きとなっていた衣服を脱いで煌々と燃える暖炉の前に干そうとした。頭巾も取り払い、白い髪の素顔を炎の熱にさらす。
やせ細った腕で、すっかりへこんでしまったお腹をさする。本当に、こんなみすぼらしい身体では食べられる価値もないと姫は目を伏せて、何かから逃げるようにベッドへ向かうのだった。
そうして、薄い毛布に包まり横になる。確かに温かくはあったが、狼の冬毛の方が寝心地はよかったと、姫はほんの少しだけ寂しく思うのだった。
*
「お母様。しっかりなさってください」
塔の室内で病に伏せる母のベッドにすがりつき、幼子が涙ぐみながら母の顔をのぞき込もうとしている。
また、夢だと姫は思った。それも、決して見たくはない、別れの時の夢である。
「あなた以外の姫には、すでに別れと歌は引き継ぎました。あなたが、最後です。イヴェルノ」
病床にあっても、母は微笑を崩さなかった。それどころか幼い娘を心配そうに見つめて、頬に優しく手を触れて目尻にたまった涙を指先で拭うのだった。
「よくお聞きなさい。別れを悲しんではいけません」
もうすぐ命が絶えるものとは思えない、優しくも芯の通った声である。毅然とした母の声に、幼い姫の涙はいっとき止まった。
「花は咲き、種を遺して枯れます。親は子を産み、子は親から離れるもの。生きとし生けるものには、いずれ終わりと別れがくるのです」
姫は、母が悲しいことを語っているのだと思った。しかし、母の笑みはいつだって慈愛に富んでいる。
「これは悲しいことではありません。季節が移ろうように、終わりは新たな始まりなのです。あなたは、これから先も多くのものたちと出逢い、別れを繰り返すことになるでしょう」
悲しいことではない。姫にはその言葉だけは信じられなかった。他の言葉ならどんなことでも信じられる。しかし、母と別れることは、悲しいに決まっている。
黙って首を横に振る娘を、母は胸に抱き寄せる。安らげる香りと温もりのはずなのに、どうしようもなく涙は止まらないのだ。
「出逢い、ともに過ごせるときをこそ喜べるような人になりなさい。そして別れのときは、今までの喜びを胸に秘め、新たな出逢いの喜びを探しなさい。あなたたちには、そんな歌をうたって欲しいのです。いいですね――?」
*
「ぉ母様……」
「オレはオマエの親ではない」
「……え?」
姫の意識は悲しみの淵から引きずり上げられるように、現実に戻ってきていた。
暖まった室内の中、冷えた空気をまとった狼が、姫をのぞき込んでいる。彼と目があった姫は、ぱっと飛び起きた。
「もう、戻ってきたのですか?」
「とっくに日は暮れている。雪も強まってきた」
「さ、寒いっす~~……」
狼の頭からは姿なきネズミの声がする。どうやら狼の毛の中で震えているらしい。ガタガタと家屋の窓と風が揺する音も聞こえ、そちらへ顔を向けると狼の言う通り外は薄暗い闇に沈んでいた。
「…………おい」
「は、はい」
低く呼びかけられて、姫は前に向き直った。何故かは分からないが、眉間にしわを寄せた狼から、まじまじと見つめられている。知らぬうちに彼の機嫌を損ねるようなことをしたのだろうかと姫が不安に思っていると、やや呆れた声で彼は言った。
「どうでもいいが、さっさと服を着たらどうだ」
「あ……ご、ごめんなさいっ」
服を乾かすために裸となっていたことを思い出して、姫は慌てて毛布で身を包んだ。狼はもはやどうでもいいと言わんばかりにその場に伏せて、姫が着替え終わるまで待つ体勢をとっている。
「その調子ならば、さほど大事にはならんか」
「そ、そんな……ひどいです。裸を見られたのですよ。大事ですっ」
「体調の話だ」
「ぁ……うぅ、もう! わざと仰ってませんか、狼さん!」
「どうだかな……くく」
真っ赤になって怒る姫だったが、狼は素知らぬ顔をするばかりだった。もう少し紳士であってもらいたいと姫は涙ぐむのであったが、そもそも求めるべき相手を間違っているのだろう。
「しかし、ニンゲンの裸なんぞに興味は欠片もないが……」
「まだ言いますか」
「オマエの顔を、まともに見たのは初めてだ」
「――っ」
不意に真剣な眼差しとなる狼に、姫は息をのんで咄嗟に自分の白い髪に手を触れた。裸であるということは当然、素顔もさらしたままだったのである。
「ずいぶんと、珍しい風貌をしているようだな。冬の姫よ」
見開かれた薄水色の透き通った姫の瞳には、皮肉に口端をつり上げている白い狼の姿が映っている。冬の姫と、彼は姫のことを、確かにそう呼んだのだった。