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第5話

「お母さま。狼が歌っているわ」


 白いもやのかかったような情景――姫は、夢を見ていた。

 塔の外から聞こえる遠吠えに、夢の中の子どもは目を輝かせている。

 今の自分よりも、いくらか幼い声。透き通った大きな瞳が、そっと包むようにして背を抱いてくれている母を振り返った。


「そうね。きっと、お嫁さんを探しているんじゃないかしら?」

「お嫁さん?」

「ええ、そうよ」


 母は、優しい声音で娘の言葉に頷いていた。


「狼はね、冬に子どもを産むための準備をするのよ」

「ふぅん、そうなの? 冬は寒いのに、大変ね。もっと、春とか、秋とか、暖かい季節にすればいいのに」

「ふふ、そうね。でも、狼たちにも事情があるのよ。冬には冬を必要とするものたちがいるの。私たちは、それを、きちんと見ようとしなければいけないのよ」


 だから、さあ、歌の続きをうたいましょう。

 母の声に促されて、幼子は母とともに冬の歌を紡ぐ。狼の遠吠えも、それにつられるようにして高く空へと響くのだった。





「……ぅ……ん」


 じんじんと、身体が火照っている。姫はとても懐かしい夢を見た気がしたけれど、その記憶は霧のようにかすみ、すぐに捕まえられなくなってしまっていた。

 だるくて、指一本も動かす気にもなれない。

 このまま溶けて消えてなくなってしまうのではないかと思うほどの熱にこらえきれずに、姫は熱い吐息をこぼした。


「目が覚めたか」


 どこか遠くから不機嫌そうなうなり声が聞こえた気がして、姫はとろとろとまぶたを上げる。

 視界は白く、何かふわふわとした暖かなものに包まれているようだった。


「狼さん……」


 遠くと思った声は、そんなことはなかった。姫はごく近くで、自分を見つめる金色の瞳を見つけた。

 呼びかけようとして出した声は驚くほどにしゃがれており、姫は一言発するだけでものどに痛みを感じた。

 狼の湿った鼻が目の前にあり。そこへ手を伸ばそうとするのだが、身じろぎばかりでうまくいかない。


「無理をするな……と言いたいところだが、一つだけ頼まれてくれ」


 狼は目線を横に向けて言った。姫も首を動かしてそちらを見ると、雪をかぶった枯れ木の山があった。狼はぐいと近くに置いてあった樫の木の杖を咥えて、姫の前に突き出す。

 そこで、ようやく姫は自分が丸くなった狼に包まれるようにして寝かされている状況に気づくこととなった。なだらかな傾斜に、丁度彼が収まる程度に掘られた洞穴ほらあなの中で、守られるようにしていたのである。


「あの……」

「どうした。オレでは火をつけることができん。暖がとれない状態のまま、オマエを置いて行くわけにもいかん」


 さっさとしろと、狼は顔を突き出し、目で訴えている。軽いはずの杖は鉄でできたみたいに重く感じたが、どうにかこうにか姫は杖を受け取り、枯れ木に火をともすことに成功した。


「やれやれ。どうやら、オマエは()()とやらをひいたそうだが……自覚はあるか?」


 火が十分に燃えて暖まってきたところで、狼は一息ついて姫に訊ねる。そう言われてみて、姫はようやく自分の症状に納得した。


「ごめんなさい……。そのようですね」

「それで、なぜあんな無茶をした?」

「無茶?」

「川でおぼれかけたのが原因なのだろう。大人しくオレを待てなかったのか」

「それは……」


 厳しく問い詰められて、姫は追求から逃れるように彼の腹に顔をうずめる。そして、消え入りそうな声で、その理由を口にした。


「怖かったのです……」

「……なんだと?」

「狼さんが、いつまでも帰ってこないからです……置いて行かれたのかと思って……怖かったのです……」


 あのときの心細さを思い出して、不意に胸が詰まる。彼を責めるように言うのはお門違いだと分かってはいたが、姫は狼のぬくもった腹に顔を押し当てたまま、はらはらと涙を落としていた。


「……それは、まだオレに食われたいと思っているからか?」

「え……?」

「孤独に死ぬのと、食われて死ぬのも結果に差はあるまい。言ったはずだ。オレを巻き込むなと」


 狼は体温とは裏腹に、冷め切った声で姫に言った。姫はまるで突き放されたような気分になったが、それは今まで通りの狼の態度に違いなかったのだった。


「では……なぜ……」


 戻ってきたのかと、口に出しかけた言葉を姫は続けることができなかった。怪我をしているとはいっても、狼がその気になれば姫を置き去りにすることくらい何でもないはずなのに。


「お~い! ダンナぁ! 言われた通り、ちょいとそこら辺で食えそうなもんを見てきやしたぜ!」


 と、湿っぽくなりかけた空気を吹き飛ばすようなやかましい声が、今度は本当に遠くから聞こえてきた。姫は顔をそちらに向け、狼も耳を立てる。

 とてとてとこちらへ近づく、茶色い毛玉が真っ白な雪の上で目立っている。それは、姫が逃がしたはずの山ネズミだった。


「あ、お嬢さん。目が覚めたんっすね。でも、無理しちゃダメっすよ。ニンゲンの身体のことはよく分かんないけど、カゼひいたら寝とけば治るってのは知ってるっす!」

「あなた、どうして……?」

「オレっちは恩を返すネズミっすから」


 目を丸くする姫を前にして、ネズミは得意げに胸を張って見せた。


「ニンゲンと狼がいっしょにいるってのも妙だなと思って引き返して様子を見ていたら、お嬢さんが倒れてるじゃないっすか。こりゃ一大事だと矢もたてもたまらずにっすね――」

「おい、少し黙れ」


 狼がぎろりとにらむと、お喋りなネズミは「うひゃっ」と身をすくませた。


「いいから、オマエが見つけた場所に案内しろ」

「ああ、そのことなんですがね、ダンナ。ちょいと提案なんですが、よろしいっすか?」

「……何だ。くだらないことだったら、噛みつくぞ」

「め、滅相もねえっすよ。いやね、ダンナがこしらえたその巣穴にケチをつけるつもりはこれっぽっちもねえんですが、実はこんなところよりも風をしのげる場所をオレっちは知ってましてですね。ええ、そっちの方へお嬢さんを移動させた方が、身体にもいいんじゃねえかと、そう思う次第でして。へへ、オレっちが冬眠し損ねてるのも、そこの居心地が思いの外いいからでしてね」

「ご託はいい。要点を言え……」

「す、すいやせん。えーと、つまり、ニンゲンが暮らしてた村っすね。今は誰も住んでないっすけど、建物とかはそのまんま残ってんすよ。森の中より、ずっと良さそうじゃないっすか?」

「そんな場所が……あるの?」

「おっと、お嬢さんは興味がおありっすね。どうしやす、ダンナ? そこまで遠くないっすから、すぐにでも案内できやすぜ」


 ネズミの提案に狼はしばし目を伏せて悩んだが、決意したように姫を見る。その視線からわずな配慮はいりょを感じて、姫は恥ずかしくも少し嬉しく思うのだった。


「動いてもつらくはないか?」

「わたくしなら、平気です。自分で招いたことですから……」

「そうか。ならば、行ってみるとするか」

「よっし、そうこなくっちゃ!」


 狼が姫を背中に乗せると、ネズミも勢い込んで彼の足下から頭へとちょこまかと上り始める。狼は不愉快そうにネズミを振り解こうとしかけたが、姫のこともあるので寸前で思いとどまった。


「なぜオマエまで乗る」

「まあまあ、オレっちの足に合わせてちゃ遅くなるっしょ。けちくさいこと言わないで、さあさあ、行きやしょう!」

「ふふ……」

「…………笑うな。寝ていろ」


 狼とネズミが言い合う不思議な光景に姫が思わず笑みをこぼす。狼は、さらに不機嫌な声となり、ぶすりとした顔でうなるのだった。

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