第4話
「狼さん。いったい、いつになったら、わたくしを食べてくださるの?」
「言ったはずだ。貧相な肉付きのニンゲンを食べるつもりはない。食って欲しければ肉をつけろ」
それから一週間ほど、狼は傷ついた身体を癒すためか、小川の近くの森から動こうとはしなかった。姫も狼に付き合う形で、彼が獲った魚で飢えをしのいでいるのだが、依然として狼に食べられたい姫にとって、それは望む形ではなかった。
「そんなことを言われましても、お魚ばかりではお肉などつきようもありませんわ。諦めになってはいかが?」
狼と過ごす間に、いつしか姫は狼が自分を決して食べようとしないことに腹を立てていた。言葉づかいもところどころに棘をふくませるようになっており、それを聞く狼も呆れ果てた顔をしているのだった。
「オマエの方こそ、いい加減に諦めて去れ。そうまでして食われたい理由はなんだ?」
そんな一人と一頭の、ある日の夜。
いつもは姫の言葉を知らん顔で聞き流すばかりの狼だったのだが、しつこく食い下がる姫に初めて訊ねた。
ちらちらと粉雪が舞う中、魚を焼いた焚火が、二人の影を木の幹に濃く映し出している。
狼の伏せていた金色の瞳が持ち上げられて、焚火を挟んで膝を抱える姫の顔をとらえた。炎に照らされて輝く瞳は思慮深く、吸い込まれてしまいそうだった。
「……わたくしは、嫌われものですから。いなくなってしまった方がよいのです。だから……」
「だから、せめて食われてオレの腹を満たそうというのか。バカにしているとしか思えんな」
姫の言葉を先回りして、狼は鼻を鳴らす。不愉快そうに牙をちらつかせてうなる彼の瞳の輝きが、鋭くなった。
「このようななりになったとて、食うものを選ぶ権利くらいはある。そして、食べもしないものを殺す趣味もない」
「狼さん……」
「死にたければ、潔く野垂れ死ね。オレを巻き込むな」
口を閉ざした狼は前足に顔を乗せて伏せてしまい、それ以上姫と目を合わせようともしなかった。姫は彼を説得するための言葉も思いつけず、向けられた嫌悪感にますます膝を抱えてしまうばかり。
嫌われることには慣れている。けれど、狼の眼差しは心に深く突き刺さっていた。
そうして今日もまた狼に食べられないまま、姫は命をつないで眠りにつくのだった。
その翌朝。
寝惚け眼をこすりながら地面に横たえていた体を起き上がらせた姫は、すぐに異変に気がついた。
狼の姿が、どこにも見当たらなかったのである。
「狼さん?」
焚火には雪がかけられて消されていた。頭上をさえぎる木々の枝の隙間からは、薄い雲に覆われた寒々しい青空が見える。
あたりを見回すと、真新しく積もった雪の上に狼の足跡を見つけた。その行き先は、いつも彼が魚を獲って来てくれる小川の方へと続いているようだった。
狼は姫が目覚めるのを待ってから、彼女を連れて小川へと魚を獲りに行く。これまでの朝は、それが習慣だった。そうして、彼は朝食だと言って、餌でも与えるように姫の前に魚を放り投げるのである。
この日に限って、狼は先に行ってしまったのだろうか。姫はいぶかしげに思いながらも、まだ出会って数日なのだから、そういう日もあるだろうと思って狼の帰りを待つことにした。
けれど、太陽が真上を過ぎても狼は戻らなかった。
流石に不安に駆られた姫は、狼を探すべきか迷った。
もしかすると、自分は置いて行かれたのではないか。いや、そもそも自分が勝手に彼につきまとっていただけのこと。何故彼が戻って来ると、のんきにも信じることができたというのか。
「狼さん! どこへ行ったの!?」
いてもたってもいられなくなった姫は、目を皿のようにして狼の足跡を追い始めた。足跡は予想した通り小川へと続いていたのだが、そこでぱったりと途切れてしまっていた。
引き返したような跡もなく、姫はどうしてよいか分からずにしばし川辺に立ち尽くしていた。
そして、小川の水面を見つめていたところ、一つの可能性を思いつく。
もしかすると、彼はこの小川を渡って向こう岸に行ったのではないだろうか。
小川の流れは穏やかで、深さもせいぜい姫の膝くらいまでしかない。彼ならば問題なく渡ることができるだろう。
こちらに足跡が続いていない以上、向こう岸を探してみる他ない。そう思った姫は、ためらうことなく靴を脱いで両手に持ち、小川へと足を踏み入れた。
水底の石ころが足の裏にあたって痛かったが、凍るような冷たさにすぐに足の感覚はなくなった。とにかく早く向こう岸に渡るため、歯を食いしばって前へと進む。
だが、無理矢理に一歩踏み出したのがいけなかった。不意に身体が前のめりになったかと思うと、姫は顔から小川の中に沈んでしまったのである。
目の前が一瞬で真っ暗になって、全身が身を切るような冷たさに襲われる。必死で何かを掴むようにもがき、顔を水面から上げてどうにか這いずるようにして対岸に膝をついたときには、もう息も絶え絶えで震えが止まらなかった。
「何をしている」
そして、激しく咳き込み飲みかけた水を吐き出していると、姫は頭上から無骨な声を聞いた。
「おおかみ、さん……」
白い毛並みに粉雪をまぶした狼が、姫の目の前に佇んでいた。ずぶ濡れになった彼女を、どこか冷ややかな目で見下ろしている。
「水浴びというわけではなさそうだな」
もごもごとオオカミの声はくぐもっているように聞こえた。不思議に思って姫が彼の顔を見上げると、彼は口に何かを咥えており、きちんと口を開けて声を出せていないようなのだった。
「ダンナ! ダンナ! やめえくだせえ! オレっちを食っても腹の足しになんざなりませんって!」
そして、彼に咥えられたその何かは、何らかの生き物のようだった。小柄な茶色い毛玉のような身体には細長い尻尾がついており、じたばたと短い四本の足をばたつかせてキーキーと甲高い声で喚き散らしている。
「狼さん……その子は」
狼の姿を見たことの安心感も相まって、自分がずぶ濡れであることを一時忘れて、姫は目を点にしていた。すると、狼は姫が状況を理解する前に「そら」と、あごをくいと上向けて、その生き物を彼女に向けて放り投げた。
「うひいい!」
「きゃっ」
とっさに姫は両手を受け皿にして、その茶色い毛玉を受け止めた。ひっくり返った毛玉はちょこまかとした動きで起き上がり、全身をぶるりと震わせる。
「だ、大丈夫ですか?」
「あいたた、ええ、こいつはどうも……って! ひえ! ニンゲン!?」
毛玉の正体は、山ネズミだった。自分よりも遥かに大きな姫の顔を見て飛び上がったネズミは一目散に逃げだそうとするのだったが、振り返った先には狼が牙をむき出しにした顔を突き出して、退路をふさぐ。
「逃げようとは考えるな。そのときは噛みついてやるからな」
「ひいいい!」
狼の金の瞳にらまれて、ネズミはぴょんぴょんと跳ねるようにして姫の腕を伝い、一気に頭の上まで駆け上がった。
「狼さん。可哀想ではありませんか。この子が何をしたというのです」
「……足の怪我も少しは癒えたからな。狩りの練習にと思ったが、思いの外時間をくった。そいつはオマエにやる」
「え……それは」
「魚だけでは肉がつかないのだろう」
「…………」
姫は反応に困った。確かに言ったには言ったが、このような事態はまるで想定していなかった。
「うああ、もうダメだぁ。うぅ、こんなことだったら、大人しく冬眠しときゃあよかったんだぁ……」
頭を抱えてぷるぷると震えるネズミは、見るからに哀れみを誘った。姫は少し考えた後、ネズミを優しく両手に捕まえると、自分の鼻先に近づけて目を合わせた。
「大丈夫ですよ、ネズミさん。わたくしは、あなたを食べたりはしません」
「ひいいい……え? 食べない?」
潤ませた目をちらっと姫に向けて、ネズミは首をかしげた。姫はできる限り怖がらせないように微笑んで、頷いてみせる。
「おい、オマエ。せっかくの獲物を逃がす気か」
「でも、狼さん。さっき、わたくしにくださると言ってくださいましたよね。なら、この子をどうしようと、わたくしの自由ではなくて?」
「む……」
狼は目を見開いて姫をにらみつけたが、姫は微笑んだままネズミを乗せた両手を地面に下ろした。
「さあ、お行きなさいな。もう捕まってはいけませんよ」
「あ、ありがとうございます。お嬢さん。このご恩は忘れませんぜ!」
物珍しそうに姫の顔を見上げたネズミはぴょこりと頭を下げると、たっと小さな身体を走らせて森の中へと去って行った。狼は忌々しそうにうなりながら捕まえたはずの獲物を最後までにらんでいたが、やがて諦めたように深く吐息した。
「惜しいことを。オマエが食わなくても、いずれ他のヤツに食われるかもしれないのだぞ」
「だとしても、わたくしは食べたくありませんでした。それよりも……戻って来てくださって、よかった……」
姫は思い出したようにずぶ濡れの身体を抱きしめた。悪寒が自分の意思とは関係なく全身を震えさせて、寒いはずなのに奥はとてつもなく熱く感じる。
とても立ってはいられずに、姫は狼の身体にもたれるように倒れ込んでいた。戸惑ったような狼の声が耳元で聞こえていたが、もう姫には理解する力はなく、ぐるぐると回る世界の中に意識は落ちていくのだった。