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第3話

 姫は目を閉じて、食べられるときをじっと待った。しかし、いつまでたっても噛みつかれる気配も、痛みも感じない。

 不思議に思ってそっと目を開けると、苦しげに顔をゆがめた狼が、雪の中に顔をうずめるようにして伏せていたのだった。


「どうしたのです? 具合が悪いのですか……?」


 驚いた姫は狼のもとに駆け寄り、さらに「まあ」と叫んだ。

 吹雪のせいで分からなかったが、狼は全身傷だらけだったのだ。

 牙を突き立てられたようなあともあれば、爪で引き裂かれたような痕もある。白い毛並みもところどころ血で赤黒く汚れており、思わず目を覆いたくなるほどだった。

 中でも特に目立つのが、左がわの後ろ足の付け根に深く突き立った一本の太い矢だった。狼がゆっくりと歩いていたように見えたのは、実はその速さでしか歩くことができなかったからなのである。


「かわいそうに……すぐに抜いてさしあげます」


 女王は生々しい傷に胸が押しつぶされそうになったが、細い腕に力をこめて、一生けんめいに矢を抜こうとした。途中、手は寒さのあまりにかじかんで何度も滑り、狼は矢を引っ張られるたびに毛を逆立たせたが、何も言わなかった。


「もう少し……! やった、抜けましたよ!」


 そして、とうとう矢は狼の後ろ足から抜けた。勢いあまって姫は雪の上に尻もちをついたが、その顔には達成感からか久しぶりの笑みが浮かべられていた。


「気がすんだか。なら、さっさと去れ」


 しかし、姫とは反対に狼はつまらなさそうに言うと、のっそりと立ち上がる。そして、再びのしのしと歩き出すのだった。


「お待ちになってください。食べてはくれないのですか?」


 姫はもう一度狼の前に回り込んで両手を広げる。狼は鼻の頭にしわを寄せて、とてもうんざりとした顔をした。


「変わったヤツだ。しかし、オマエのようなやせっぽっちのニンゲンを食べても腹の足しにはならないだろう」

「そんな……」


 まともに取り合ってもらえずに姫が泣きそうな顔になる。すると、狼は心の底から面倒そうに姫に顔を近づけて、すんすんと鼻を鳴らした。


「…………まあ、いいだろう。非常食にはなるかもしれないな」

「え? それは、食べてくださるということかしら?」

「さあな……少し、大人しくしていろ」

「きゃっ!?」


 狼は言うと、牙を立てぬように姫の胴体を口に挟み、ぽいと背中に放り投げた。ふさふさの毛の中に埋もれた姫は、這うように顔を出し、歩き出す狼へと訊ねる。


「狼さん、どこへ行くのですか?」

「獲物をとりにいく」

「だったら、わたくしを……」

「オマエはいらない。大人しくしていろと言ったはずだ」


 うなり声を上げられて、姫も返す言葉がなかった。すぐには食べる気がないのであれば、目的は果たせなくなる。それは困ることだった。

 なんとかして、この狼に自分を食べてもらい、早く冬を終わらせなくてはならない。姫が頭を悩ませている間にも、狼は吹雪の中をどんどん進んで行った。いつしか山中の森は夜の闇に沈んでいたが、狼の足に迷いはなかった。


「降りろ」


 やがて、狼が歩みを止めて、ぶっきらぼうに言った。吹雪はようやく勢いに衰える気配を見せ始め、空には雲の隙間からぼんやりと丸い月の輪郭が見えるまでになっている。

 狼の背中から降りた姫は、風の音以外に、さらさらと水の流れる音を耳にした。


「川……? ここで何がとれるのです?」

「ふん。このような足では、ろくに狩りもできないからな」


 そっけなく狼は姫をその場に置き去りにして、しんと冷えた空気が漂う小川の方へと向かった。姫も、狼のあとを追う。

 雪解け水の流れる小川は穏やかで、淡い月の光を映し出して青白くきらめいていた。

 狼は後ろ足をひきずりながら、小川へと足を浸していく。そして、ある地点まで進むと立ち止まり、じっと狙いを定めて静かに水面を見つめ始めた。

 その鋭い目つきと、ぴりっと肌に伝わる緊張感に、姫は両手を口にあてて息をのむ。

 血に汚れていても、白い狼の姿は雄々しくも美しかった。


 姫が狼に見とれていた次の瞬間、狼は一気に動いた。顔を水中に突っ込ませ、バシャッと水しぶきを上げて咥えられたものが宙へと放り投げられる。

 きらきらとしずくを月明かりに反射させながら、魚が二匹、姫の足下へと落ちてきた。


「逃がすなよ」


 狼に言われて、姫は慌てて地面を跳ねる魚を両手で押さえようとした。しかし、魚は両手にあまるほど大きい上に、ぬるぬるとしていてつかみにくい。それが二匹もいては手の付けようもなかった。


「やれやれ、使えないやつだ」


 おろおろとしている姫の前に戻って来た狼は、無造作に魚に牙を突き立て、順に息の根を止める。姫は固まり、魚が動かなくなるまでの様子を、目をむいて見ていた。


「自分の分くらいは、ちゃんと運べよ」


 狼は一匹を咥えて、もう一匹を地面に放置したまま森の中へと戻って行った。姫は自分の分と言われたその魚と狼の後ろ姿との間で顔をきょろきょろとさせたが、置いて行かれるわけにはいかないため、両手に魚を抱えて追いかける他なかった。


「狼さん。わたくしは、あなたに食べられたいのです。施しを受けるわけにはいきません」


 適当な木の下に横たわった狼は、姫を無視して魚にかじりついていた。自分の抱えている魚から漂う生臭さに顔をしかめながら、姫はなおも言いつのる。


「だいたい、わたくしは人間ですのよ。生では魚は食べられませんわ」

「知ったことか。オレに食われたいのなら、その貧相な身体に肉をつけろ」


 姫は唖然あぜんとした。ずっと食べていなかったため、確かにずいぶんとやつれてしまってはいたが、その言い方は酷い。

 もっとも、狼に言葉を選べと言うのも無理な話ではあるのだろうけれど。

 ここには屋根も暖炉もない。人間が暮らすにはあまりに過酷な世界である。その領域に踏み込んだのは他ならぬ姫なのだ。


「……わかりました。わたくしがちゃんと食べてもとの体型に戻れば、あなたはわたくしを食べてくださるのね?」


 狼は黙々と魚をかじり続けて答えなかったが、姫は決意する。彼女は抱えていた魚を地面に降ろすと、まわりに落ちている枯れ枝や、雪に埋もれている落ち葉を集め出したのだった。


「何をする気だ……?」

「こうするのです」


 十分に枝と落ち葉が集まったところで、姫はふところから魔法の杖を取り出し、一振りする。ボッと杖の先からは赤い炎の光が生まれて、枝に燃え移った。

 狼は耳と毛をピンと逆立てて、とても驚いた顔をした。姫は少し得意げな顔をして狼を横目に見ると、手頃な長さの枝を突き刺した魚を炎のそばへと置いて焼き始めるのだった。


「物語で、こんな風にして魚を焼く場面を読んだことがありましてよ」

「火か……ニンゲンは、みなそのような方法で火を起こすのか?」

「あら、火が怖いのですか?」

「それは、オレたちにはないものだ。未知のものに近づくほど、おろかなことはない」

「そうですか。でも、安心してくださいな。これは魔法の杖ですから、みなが持っているわけではありません」

「ほう。では、オマエが特別なのか?」

「それは……」


 姫は焚火を見つめながら、口を閉ざした。ふいに込み上げる息苦しさに胸がつまり、膝を抱えてうずくまる。


「なんだ。気にさわることでも言ったか?」

「そうではありません。ねえ、狼さん。あなたは、冬が好きですか?」


 つい口走ってしまったその質問が、姫は自分でも意外だった。

 狼は魚の血で汚れた口元をぺろりとなめて、いぶかしそうに姫を見つめている。


「オレにとって、冬は乗り越えるべき厳しい季節だ。好きも嫌いもあるまい」

「そうですか……」


 いったい何を期待しているのか。姫は恥ずかしくなって狼から目をそらした。狼はもう食べ終えてしまったのか、くつろいだ様子で伏せている。


「オレは寝る。あとは好きにするがいい」

「ええ、そうします」


 身を丸めて尻尾も折りたたんだ狼は、目を閉じて傷ついた身体を休めようとしていた。もう火はちっとも気にならないのか、木の幹には狼の大きな影が映し出されている。


「オマエは、冬が嫌いなのだな……」

「え?」


 ほとんど聞き取れないほどの狼の呟きに、姫が振り返る。しかし、もう狼は姫のことなど露ほど気にもかけておらず、知らん顔で寝息を立て始めていたのだった。


「……ええ。そうですとも。わたくしは、冬が嫌いです」


 魚は生焼けでとても食べられたものではなかったが、ほんの少しだけ姫のお腹は満たされたのだった。

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