第2話
そして、あくる日の夜明け前。
とうとう姫は、こっそりと塔を抜け出すために動き出した。
長かった白い髪も、ハサミでばっさりと肩まで切り落とし、ドレスも侍女の服を拝借して質素なものに着替えた。頭巾をかぶって髪を隠せば、一目では姫と分からない。
荷物は、いくらかの干し肉と果物をつめた革袋と、樫の木の杖。
この杖は、一振りすればその先端に火をともすことのできる魔法の杖である。雪の降り続ける山はまだ暗い。明かりの代わりだ。
もう一つの使い方として、山中の獣よけにも使えるが、塔の外に出る目的を考えれば、その出番はないだろう。
「……勝手をして、ごめんなさいね」
氷の冠と置き手紙をテーブルに残した姫は、早速杖の先端に火をともし、足音を立てぬよう塔の入口へと長く暗い螺旋階段を降りた。
塔の中には見張りの兵士たちもいたが、この時間は皆寝静まっていることを姫は知っていた。
冬の山は天然の要塞となるため、近づけるものもおらず守る意味合いがほとんどない。他の季節ならばいざしらず、冬の間この塔で過ごしたがる兵士も少ないのだった。
おかげで、兵士たちの目をかいくぐることは容易かった。
ただ、本音を言えば姫は少しだけがっかりしていた。これでは変装までした意味がまるでなく、こうも気に留められないとは、やはり自分の存在などその程度のものなのだと、改めて思い知らされて悲しくなったのだった。
しかし、これで決心もついた。
重たい入り口の門を押し開けた瞬間、襲い来るあまりの風の冷たさに姫は目を閉じる。頭巾が飛ばされないように手で押さえて、塔の中の者たちに気づかれないように足早に外へと出て、風に押されるように門を閉じた。
「……っ」
ほうっ、と息を吐いて門に背をもたれさせ、姫は改めて目の前の景色に息をのんだ。
誰も足をつけていていない雪原が眼下に広がっていた。朝を待つ薄暗い空からは、ちらちらと雪が静かに落ちている。
塔の頂上から遠く見ていた景色が、今は少しだけ近かった。
氷像のように立ち並ぶ枯れ木から、姫は墓場を連想して身震いする。けれど、すぐに震えを押さえ込むように服の胸元を握りしめて、一度だけ塔を振り返った。
「さようなら」
姫は雪原へと足を踏み出す。その目的は、狼を探すことだった。
昨夜思っていたことを実行するためだ。狼に食べられて、この世から消えてなくなってしまえばいい。そうすれば、永遠に冬が訪れることはなくなるだろう。
塔の部屋からでも遠吠えは毎日のように聞こえていた。狼が、どこかにいることは間違いない。
塔の中の皆に気づかれる前に、なるべく遠くへと行かなければならない。姫は柔らかな雪に足を取られながらも、懸命に足を前に動かし続けたのだった。
――だが、山中を三日三晩さまよい歩いても、狼の姿を見つけることはできなかった。
魔法の杖があるため寒さに凍えることはなかったけれど、持ってきていた食料も底をついてしまい、お腹の方が限界だった。慣れない雪の上を歩き続けて疲労もたまるばかりである。
そして、四日目の日も暮れようかという頃、いつしか雪はごうごうと吹雪に変わり、目の前も真っ白になっていた。枯れ木の森をさまよう姫は、もはや自分がどこをどう歩いて来たのかもわからず、途方に暮れていた。
「狼さん! いたら返事をしてくださいな! どうぞ、わたくしをお食べになって!」
このままでは、狼に食べられる前に飢えと疲れで死んでしまう。そうなってしまっては、狼のお腹を満たすことすらできず、最後まで自分は誰の何の役にも立てないままだ。
とても惨めな思いで胸が満たされて、張り裂けそうだった。息も、涙も凍って固まってしまいそうなほど、雪は激しさを増していく。
(そうか……嫌われもののわたくしなんか、狼さんだって食べたくないのね……)
姫は自分の浅はかさを呪いながら、いよいよ両膝をつき雪の上に倒れてしまった。目の前がぼやけて、暗くなる――そのときだった。
突然に、姫の体は巨大な黒い影に覆われていた。もうろうとした意識の中、かすんだ瞳をかろうじて持ち上げた姫は、次の瞬間かっと目を見開かせた。
それは、姫の身体よりも遥かに大きな白い狼だった。その狼は姫の存在に目を留めず、ゆっくりとした足取りで雪の森を進んで行くようだった。
「お、狼さん! 待って!」
自分の倍以上もある大きさだ。この狼ならば、人一人だってゆうゆうと食べてしまえるに違いない。
姫は動かなくなった足に最後の鞭を打ち、叫んだ。雪に足を取られてつまづきそうになりながら、狼の後ろ姿を必死で追いかける。
「待って! 待ってください!」
どうにか姫は狼の前に回り込むと、両手を広げて道をふさいだ。狼も、眼前に現れた姫にようやく気付き、ピタリとその足を止めた。
「邪魔だ、娘。食われたくなければ、そこをどけ」
鋭い牙をむき出しにして、狼は低く恐ろしいうなり声を上げた。月のような金色の両目は吊り上がり、ギラギラと怒りに燃えているようだった。
そのあまりの恐ろしさに姫の心はぎゅっと握りつぶされてしまいそうになる。けれど、姫は一歩も動かなかった。
この機会を逃してしまっては、全てが水の泡だ。何としてでも食べられなければと、狼の金色の瞳を真正面から見つめ返して言うのだった。
「いいえ、どきません。どうぞ、狼さん。わたくしを食べてくださいな」