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第18話

 人が狼を愛するなど、馬鹿げている。そう笑われてもおかしくはない。

 だが、冬の姫は自分の言葉に一片たりとも後悔を抱きはしなかった。何一つ、この気持ちに恥じることなどないのだと、狼の瞳をまっすぐに見つめていた。

 そして、狼も姫の言葉を決して笑いはしなかった。その代わりに、姫を見下ろす冴えた夜の青さを映す彼の金の瞳には、理解を超えたものを見るような、明らかな戸惑いの色が浮かんでいた。


「それは、求婚のつもりか?」


 問われた姫が、目を見開く。彼女自身、そんなことを訊かれるとは思っていなかったに違いない。狼はそこで緊迫した空気を解くように、口端から微かに笑みのような息を漏らすのだった。


「まったく……あれだけ大泣きをしていた娘が、よくぞここまで成長したものだ」


 そして、狼は足を折り曲げてその場に伏せた。逆に姫を見上げる形となった彼は、彼女に「座れ」と指示する。


「答えになるかは分からないが、オマエがそれで満足するというのなら、話をしてやる」


 告白の返事にしてはほど遠かったが、彼に心境の変化をもたらすことができたと知った姫は、大人しく両膝をついて彼と目線を合わせた。なけなしの勇気は、無駄にはなからなかったと、今は信じたかった。


「山に響き渡る女王の歌声を、オレはよく覚えている」


 そして、格子越しに姫を見つめた狼は、思い起こすように遠い声で語り出した。


「狼の中には、毎朝塔からきこえる彼女の歌声に合わせて遠吠えを返すものも多くいた。オレも……そうだった」

「お母様を、ご存知だったのですか?」

「会ったことはないが、その存在は知っていた。彼女とともに歌う、幼いものの声もな」


 狼の瞳が、ふと穏やかに緩む。姫は彼が誰のことを言っているのかを知り、はっと息をのんだ。


「では、わたくしのことも……?」

「ああ。オマエのことは、最初から知っていた。オマエが話した女王が亡くなった日のことも覚えているよ。まるで赤子が行き場をなくして泣きわめくような、吹雪に見舞われた日だったな……」


 当時は狼もまだ若く、親が群れの上位にいたときの話である。狼の脳裡には、そのときの情景がありありと思い描かれていた。

 巣穴の暗闇の中、群れの他の狼たちと身を寄せ合い、凍える吹雪がやむのをじっと待つだけの夜。

 そして悪夢のような夜が明け、澄み渡る晴天の空へと奏でられる姫たちの哀悼あいとうの歌を聴くのだった。


「あの塔で何が起きたのかは、じきに山の動物たちも知ることになった。その日から、二度と女王の歌声がきこえることはなく、幼きものの声しかきかれなくなったからだ」


 女王はもういない。代わりにその娘たちが季節を歌うようになった。

 代替わりした当初の娘たちの歌はまだ拙いところはあったが、立派に女王の代わりとなり、彼女たちなりの季節を紡ぎ上げようという気構えはうかがえるものだった。

 しかし、その中でも冬は、そうではなかった。いつまでも冬からは哀しみの色が消えることはなく、いつしか山の狼たちも冬には歌わなくなったのである。


「……でも、ルーさま。あなたは違ったのですね?」


 姫は空色の瞳を潤ませて、語る狼の瞳をのぞき込む。

 気づいたのは、塔の屋上で冬の終わりを歌う自分の後ろで、歌に添うようにして鳴いてくれた彼の声を聞いたとき。


「あなたは、ずっと、わたくしを見守ってくださっていたのですね……」

「……オマエの歌声が、あまりにも寂しそうだったからだ。自分のことながら、ままならないものだな」


 狼はそれを認めるような言葉も言わなかったし、頷きもせずに彼女から姫からを背ける。しかし、姫は彼の心に確かに触れたのだと思えたのだった。


「オマエを襲った黒い狼……ローがいたが、アイツがオレを追い落とそうとしたのにはわけがある」

「え?」


 そこで、唐突に変わる話に姫は狼の横顔をまじまじと見つめる。だが、怪訝に首を傾げる彼女を無視するように、狼は話し続けた。


「狼の群れの最上位には、つがいをつくり、子をなす役割がある。いわば群れが一つの家族のようなものなのだ。オレはいずれ、親の群れを引き継ぐことを期待されていた。オレ自身も、そのようになるのだとも思っていたし、その力も認められていた」

「あ……そうですわ。群れはどうなさるおつもりなのです。せっかく、あなたは決闘に勝ってその地位を取り戻されたのに……!」


 群れを率いるはずの彼が命を散らせば、もとのもくあみではないのか。そう思った姫だったが、狼は「問題はない」と静かに彼女の懸念を否定した。


「オレにも兄弟はいる。あとのことは託してきた。ローほどの狼が今後あらわれぬ限り、人と争わぬという山の狼全体としての方針が揺らぐことはないだろう」


 後にうれうことがないよう、狼はもうすべての事を片付けてきた。そして今、最後の役目を果たそうとしているのである。


「群れの地位に興味などない。戻れば群れはオレを頭に置こうとするだろうが、どのみち、オレは群れを率いるにはふさわしくはない。ローの言うことは、その点だけは正しいのだよ」

「どうしてなのですか……? あなたは他のどの狼よりもお強く、聡明な方のはず。なぜ、そのようなことを仰るのです」


 彼以上に群れの先頭に立つに相応しい狼はいない。少なくとも姫はそう信じられるのだが、彼はそうは思っていない。その理由が、姫にはまったく理解できなかった。


「簡単なことだ。群れの上位は、つがいをつくらねばならないと言ったが、オレにそんな気はないのだ」


 そんな姫に、狼がふと自嘲するように答えをよこす。


「これほど群れを率いるにふさわしくない理由はなかろう」


 雄と雌がつがいとなり、子をつくらねば群れは存続できない。つまり、彼が群れの上位に居座ることは、そのまま次代も生まれないということに繋がる。そういうことのようだった。


「オレでは群れを導くものとしての責任を果たすことはできない。だから、これでよかったのだ」


 つがいをつくらずして群れは成り立たない。たとえ力はあったとしても、彼が上にいればそれだけで群れの中に争いの火種を抱えることになる。彼が群れから身を引くには、今が最善の頃合いだったのだ。


「……でも、ルーさまがつがいを持たない理由は、なんなのですか?」


 姫が問う。つがいを持たぬものは群れの上位にふさわしくない。それは理解できた。

 しかし、逆を言えばそれだけだ。彼が群れの定めに従い他の狼の雌と添い遂げて子をなしさえすれば、彼を否定できるものはいないということになるのではないのか。


「理由か……」


 狼はじろりとにらむように姫を横目で見て、すぐに逸らす。


「ふん。正確には、そうだな。狼の雌のつがいを持つ気にはなれなくなったからだ」


 そして、姫を見ぬまま、彼はつくづくどうしようもなさそうに、どこか投げやりな口調で言い始めたのである。


「最初は、とても無邪気そうな歌声だと思う程度のことだった」


 その歌声は、母とともに季節を紡ぐことの喜びに満ちあふれており、気持ちのよいものだった。


「いったい、どのような娘が歌っているのかと気にはなっていた」


 だが、代替わりとともに歌声は、悲哀の色しか含まぬものに変わり果ててしまった。


「それがどれほど口惜しかったことか。オマエには分からないだろう」


 その哀しき歌がきこえる朝は、決まって遠吠えを返していた。その習慣を笑うものもいたが、どれほどのこともない。あのとき聴いた少女の歌声を、彼は諦めきることができなかったのだ。


「そして、今回の冬だ。決闘に敗れ、山をさまようオレの耳に歌がきこえなくなったのは」


 とうとう娘は歌うことすら諦めてしまったのか。彼は悲嘆に暮れる。

 一人の少女が彼の前に現れたのは、そんなときだったのだ。


「声をきけば、オマエが()()なのだということは、すぐに分かった」


 少女は自分を食べろと狼に懇願する。しかし、彼にとって、そのような願いは冗談にもなりはしなかった。


「とんだ甘ったれがいたものだと、いかる気も失せたがな」


 とはいえ、捨て置くこともできそうになかったのは今の状況が物語っている。冬の担い手である以前に、狼にとって少女はそれだけ価値のある存在だったのだ。


「オマエと過ごす時間は、悪くはなかった」


 狼は向き直り、射貫くように金の瞳で姫を見る。ここまで語られて気づかぬほど、姫も愚鈍ぐどんではない。姫の瞳に映る彼の姿は歪み、もうまともに見ることができなくなっていた。


「オマエと出会い、オレはこの気持ちにけじめをつけることができた。つがいにするのならば、オマエのようなニンゲンが良いと……ずっと、そう思っていたのだとな」

「本当に……? それが、あなたの本心なのですか?」


 狼は首を伸ばして格子の間から鼻先を突き出し、言葉を求めて問う姫の頬を拭うようにする。その行為に嘘はなく、触れ合うほど近くで姫と狼の視線が交わった。


「二度は言わん。姫よ。ニンゲンを愛する愚かな狼を、オマエは笑うか?」

「――……笑うわけ、ありませんわ!」


 感極まった姫が、抱きしめるようにして彼の鼻先に触れる。短い時間でしかなかったが、このとき、ふたりは初めて互いの偽らざる気持ちを確かめ合ったのだった。

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