第17話
今宵の紺碧の空にはくっきりと満月が浮かび上がっており、空気が澄んでいる。
冬の姫は白い息を弾ませながら、雪解けに湿る王宮の庭を駆けていた。
姫が自室を飛び出したときには、城内は奇妙な騒々しさで満ちており、変装のかいもあって外へ抜け出すことはそう難しいことではなかった。
ときおり聞こえる兵士や召使いたちの声からは、「ネズミが食糧を荒らした」だの、「野犬が迷い込んだ」だの、「猫が迷子になった」だの、何やら色んな情報が飛び交っているようだった。たぶん、秋の姫の仕業なのだろう。彼らが実に困惑した顔で右往左往している様子がうかがえた。
「ああ、あの姫さまに連れられて、ちょこちょことね……かじらせてもらったっすよ」
とはネズミの言だ。その上、情報の出所である秋の姫自身は、冬の姫の自室で雲隠れしているため、どれが本当のことなのか、はたまたすべてがデタラメなのかも判断がつかないのである。
いずれにしてもすぐにばれる嘘には違いないが、時間を稼ぐには十分なのであった。
「姫さま、このまままっすぐ行けばすぐっすよ」
ぼんやりとした月明かりをたよりにして、冬の姫は一心に進む。そして、城壁近くの片隅にぽつんと佇む粗末なテントの黒い影を見つけたのだった。
野営でもするかのように張られたテントではあるが、灯りもなければ見張りも立っていない。果たして彼が逃げる心配などないからなのか、怖がられているのか。そのテントは彼の姿を隠すことと、風よけくらいの意味しかないのだろう。
姫は足音を忍ばせながらテントに近づき、入口をめくりあげて中を覗き込む。すると、闇の中には大きな格子状の檻が鎮座しており、そこに浮かぶ金色の光が彼女を見つめていた。
その一対の視線を感じて、姫は安堵する。近づく足音と匂いに、彼はとっくに気づいていたに違いなかった。
「……何をしにきた」
姫は檻の前で足を止め、囚われた白い狼と見つめ合う。先に口を開いたのは、彼の方だった。
「あなたと、お話がしたかったのです」
するりと頭巾を解いて、姫は微かに差し込む月明かりのもとに素顔をさらす。そして、もう一歩近づいて檻の格子に手を触れた。しんと指先に、鋼鉄の冷たさを感じる。
「もっと、よくお顔を見せてくださいませんか?」
狼は檻の奥で伏せており、薄暗い影になっていた。姫の呼びかけに狼はゆっくりと四肢を立ち上げると、彼女を見下ろせるほど間近まで悠然と歩んできた。
その姿が、明日に命を散らそうという者のものとは、とても思えない。近づいた彼と視線を交わらせた姫は、もう何を言えばいいのか分からなくなっていた。
「姫さま、鍵っすよ、鍵。早いとこダンナを出しちまいましょう」
じれったい様子で、ネズミが姫の頭の上から身を乗り出して言った。姫もそのことを思い出し、秋の姫から預かった檻の鍵をスカートのポケットから取り出す。
「オマエもきていたか……。余計なことをするな」
「姫さまだけじゃなくて悪かったっすね。しかしダンナ、今のセリフはどういうこってすかい」
姫の頭から飛び降りたネズミは、格子の隙間から檻の中へと走り、狼の目の前で憤慨してみせた。
「姫さまの気持ちも考えないで、余計なことをしてるのはどっちなんっすか? そんなの、分からないダンナじゃないっしょ!?」
「……黙れ。王はもうオレと約束を交わした。オマエに口出しされるいわれはない」
「黙ってられないからきたんじゃないっすか!」
「ネズミさん。いいのです。ありがとう……」
「姫さま……」
「お願いです」
狼の脅しに屈することなく、彼を挑発をするようにネズミは喚いた。しかし、狼がそんなことで自分の決めたことを覆すとは姫も思っていない。それもう、彼の目を見れば分かることだった。
姫に優しく微笑みかけられてしまっては、ネズミも何も言えなかった。彼はしょんぼりと肩を落として姫の足下へと戻ると、悔しそうに彼女を見上げた。
「オレっちは外を見張ってるっす。姫さま、頼みやしたよ」
そう言うが早いか、ふたりの会話の邪魔にならぬよう、ネズミはテントの外へと駆けて行く。姫は心の中でネズミに礼を言い、改めて狼と向き合うのだった。
「お聞かせください。あなたがその身を犠牲にしようとするわけを。でなければ、わたくしは納得できません」
「……」
「黙られるのですか? あなたは、いつもそうなのですね」
姫は哀しげに目を伏せて、格子を握る。しかし、それも少しの間だけのことだった。あくまで沈黙を貫こうとする狼に対して、姫は決然と顔を上げたのである。
「いいですわ。それでしたら、わたくしにも考えがあります」
これから自分が口にする言葉を思い、狼の瞳を強く見据える。狼も姫から不穏な気配を感じ取ったのか、ぴくりと耳をそばだてた。
「あなたがお話になってくださらないのでしたら、わたくしは冬の担い手を辞めます」
「何だと……」
「わたくしを勝手に助けた気にならないでくださいませ。納得できぬまま、このままあなたを失えば、わたくしは次の冬を歌えない。結局、同じことを繰り返すだけです」
「オマエは、王が与えてくれた機会をムダにするというのか」
「あなたが納得のいく理由をお与えくださらないのでしたら、それも致し方のないことでしょう?」
たとえ次に冬を廻らせる機会が与えられたとしても、失敗するとわかりきっているなら無意味でしかない。狼が己の命を代償にしようとしていることは、それこそ無駄なのだと姫は言い切ったのだった。
賢明な彼ならば、こう言えば折れてくれると姫は確信していた。もちろん、担い手を辞めるという気持ちに嘘はない。だから、いくら怖い目でにらまれようとも動じなかった。
「……バカげている。一時の感情で、大切なものを台無しにする気なのか」
姫にとって、冬とは母との思い出の詰まった大切な季節。
それを思い出すことができて、好きだとやっと言えることができたのに、今度は自らそれを捨て去るというのかと、狼は問う。
「それでもです。お母様との思い出と同じくらいに、あなたと過ごした冬も、わたくしにとっては大切なのです」
姫は狼に儚げに微笑む。そして、静かにその思いを語り始めた。
「……お母様は、あの塔で病に伏せられておりました。冬のことです。もういつ、そのときを迎えられるとも知れぬ容態でした。本来であれば、わたくしは正しく冬を引き継がねばならなかった。ですが、そのときのわたくしは悲しむばかりで、お母様の代わりに冬を紡ぐことができなかったのです」
あの日のことは、今でも夢に見る。病床の母に、自分は何もできなかった。
「その結果、山は恐ろしい吹雪に包まれました。そう……誰も塔に近づけないほどに……。だから、家族で母を看取ることができたのは、わたくしだけ」
その凄まじい吹雪の中を、それでも王と姉たちは塔に辿り着いた。
しかし、そのときにはもう遅かった。
母を喪い、泣きじゃくる姫を王は叱責した。そして、姉たちの力を借りてようよう荒れ狂う冬を鎮めることができたのである。
「わたくしは、それから冬を嫌いになりました。恐れたのです。お父様も、お姉様も、わたくしを責めているように思えてならなくなりました。冬が好きだったことも忘れて、もうずっと忌み嫌うようになったのです」
だが、それはすべて心の弱さが見せた幻想にすぎないのだ。
王が担い手の役を解こうとされたことも、娘の身を案じた結果、それが最善と判断されただけのことではないか。姉の姫たちだって、確かに自分を愛してくれている。
目を閉じ、耳をふさいで、何もかもを拒絶して、逃げ続けていた弱い自分が、腫れ物のように扱わせていただけだ。
「見るべきものを見ようとしなければ、何も見えはしない。当たり前の教えを、わたくしは忘れていたのです。もう、わたくしは間違えたくない。ルーさま、あなたを見失いたくは……ありません」
檻に押し付けるようにして、痛いくらいに身を乗り出す。弱い自分とここで決別するように、見下ろす狼へと姫は言うのだった。
「愛しておりますわ。どうか、あなたを好きなままでいさせてください。あなたを愛するわたくしのままで、冬を紡がせてくださいませ」