第13話
ふわふわと、夢のような心地がする。
とても温かくて、柔らかくて、いい匂いもしていた。極上のベッドで横になっているみたいな、けだるい幸福感に包まれている。
うっすらと瞼を持ち上げると、ぼんやりとした視界は白く、何かが一定のリズムでゆっくりと上下に動いていた。
自分はその何かの上にもたれるようにして横たわり、揺られているようである。いったい何だろうと思うものの、考えるのも億劫になってしまい、「まあいいか」ともう一度幸福な微睡みのなかに落ちてしまおうと目を閉じた。
「起きろ」
「きゃっ!?」
もたれていた何かが不意に盛り上がり、景色がぐるりと回って横倒しに倒れる。が、倒れた先は固い土の地面ではなく、毛の長い柔らかな絨毯だった。
「オレはオマエの寝床ではないぞ」
「ルーさま」
絨毯の上に転がり落ちた冬の姫はその声を聞き、はっと顔を上げて白い狼の姿を見た。
ぱちぱちと薪が弾ける暖炉がすぐそばにあり、暖かな空気に満たされている。ここはどこだろうと、きょろきょろと姫は首を巡らせるうちに、少しずつ記憶を取り戻してきた。
「そうですわ。わたくし……また、倒れてしまいましたのね」
白い狼と黒い狼の決闘が終わり、緊張の糸が切れた姫は気を失ってしまっていたのだった。目の前の彼に抱きつき、優しく受け入れてもらえたところまでは思い出せたが、それからどうなったのかがまるで記憶にない。
「都合のよい解釈が混じっているようだが、まあいい。そうだ。オマエは倒れ、ここまで運ばれたのだ」
「そういうことよ」
「え……? あ、エステルお姉様!」
「オレっちもいるっすよー」
聞こえた声に姫が向き直ると、部屋のドアの内側には、短い黄金色の髪を軽くかき上げて、にっこりと爽やかな笑みを浮かべた夏の姫が立っていた。彼女の肩には茶色の毛玉の姿も見られる。
「お取り込み中のところ悪いけれど、邪魔するわね」
白いシャツの上にベストを着て、ズボンに長靴と姫らしからぬ格好ではあるが、ぴりっと背筋を伸ばして歩む姿は凜々しく彼女らしい。冬の姫は慌てて立ち上がって、貴婦人の礼をしようとした。
「あ……」
と、そこで冬の姫は自分の服が変わっていることに気がつく。塔を出る際に拝借した侍女の簡素な服ではなく、淡い空色のドレスが着せられているのだった。
「あとで髪も整えましょうね。大変だったのよ。『神聖な塔に、そんなに汚れた姿で足を踏み入れるなんてとんでもない』ってお姉様が言うんだもの。あなたはあなたで、ルーさまから離れようとしないんだから」
くすくすと押し殺したように笑う夏の姫を、冬の姫はしばし呆然と見つめていた。そして、改めて自分の身体をぺたぺたと触ってみて、すっかり洗い清められていることを知るのだった。
「お姉様。では、ここは塔なのですね?」
妹の問いに、夏の姫は頷く。窓からは、しんしんと降り続ける雪に染め上げられた高い山々と、広がる森林が一望できる。このような高い場所を、冬の姫は他に知らなかった。
「ルーさまも、お湯加減はいかがでしたか? 傷に障らなければよかったのですが」
「問題ない……だが、二度とゴメンだ」
ぐるる、と夏の姫の言葉に白い狼はうんざりとした様子でうなる。そして、冬の姫は彼を振り返り、妙につやつやとしている彼の毛並みに目を見張った。夢心地の中、感じたいい匂いの正体を知り、途端に冬の姫の頬にも笑みが浮かぶ。
「ルーさま、素敵です」
「……ふん、自分のにおいが消えて落ち着かん」
「ダンナも素直じゃないっすねぇ。お二人とも、並ぶと絵になるっすよ」
「うるさい。それよりも、夏の姫。話があるのではないのか」
「あら、いけない。そうでしたわ」
それ以上触れられたくないことなのか、狼はネズミひとにらみして話の矛先を夏の姫へと向ける。すると、夏の姫は口元に手を添えて優雅に笑い、すっと片手を持ち上げて人差し指を天井に向けるのだった。
「あなたが目を覚ましたら、屋上へ連れて行くように言われていたのよ。お姉様が待っているわ」
*
冬の姫は夏の姫に先導されて、塔の屋上へと続く螺旋階段を上った。夏の姫に一緒に来るように言われた狼も、渋々ながら窮屈そうに冬の姫の後をついて歩いている。ネズミも彼女の肩に居座ったままついてきていた。
その途中で、屋上から微かに漏れる歌声を、冬の姫は耳にしていた。屋上へと出る扉を開放すると、その美しい歌声はいよいよ大きくきこえだし、心に深く染み込むように響くのであった。
「――……よく戻りましたね。イヴェルノ」
穏やかであるが、張りのある芯の通った声で、屋上の縁で歌っていたその女性が振り返る。
薄紅色の豊かな髪は綺麗に結い上げられて、女性らしい丸みをおびた身体を萌黄色のドレスで包むその人は、端麗な顔立ちの上にゆるやかな微笑を咲かせた。
「プリマお姉様……。ご迷惑をおかけ致しまたこと、まことに申し訳ありませんでした。ただいま、戻りました」
四姉妹の長女である春の姫君へと、冬の姫は一歩前に進み出て深々と頭を下げる。春の姫もまた、淑やかな所作で妹の前に立つと、そっとその肩へと触れるのだった。
「お顔を上げなさい。此度の仕儀については、あなたも思うところはあるでしょうが、まずは成すべきことを行いましょう」
春の姫は言うと、己の頭に戴いていた氷の冠を手に取り、冬の姫へと受け渡そうとする。冬の姫はおずおずと顔を上げて、いまだ姉の手にあるその冠を、神妙な顔で見つめた。
「どうしました? さあ、冬の終わりを告げるのです」
冠を受け取ろうとしない冬の姫に、春の姫が促す。だが、冬の姫は逡巡の末に、手を伸ばさぬまま口を開いた。
「お姉様……この冬を最後に、わたくしは冬の姫を辞めることはできないでしょうか?」
冬の姫のその言葉を受けた春の姫の紅色の瞳が、すっと厳しく細められる。息をのむ緊張感が漂う中、春の姫は一度差し出した冠を下げ、真意を問うように冬の姫の瞳をのぞき込んだ。
「話してみなさい」
「……はい。身勝手な行動で、わたくしは多くの人たちに迷惑をかけました。それは、今回だけのことではありません。狼たちが飢えて村を襲ったのも、わたくしが冬を厳しくしてしまったことが原因なのです。今、冬を終わらせることに否やはありません。ですが、また次の冬が廻るとき、同じことが起こるでしょう。わたくしは、もう冬を担う自信がありません。ですからどうか……冬をなくしてください」
すべての責任は自分にあるのだと、冬の姫は春の姫に願った。しかし、春の姫は毅然とした態度で首を横に振り、じっと冬の姫を見返して言うのだった。
「それは、なりません」
「どうしてですか? 冬がなくなれば、動物たちが飢えることだってないでしょう。冬は望まれない季節なのです。なくなったとしても、誰も困りません」
「では訊きますが、イヴェルノ。冬の何が望まれていないというのですか?」
「え……」
「いいから、言ってごらんなさいな」
せっつくように言われて、冬の姫は内心焦りながら、冬が望まれない理由を思い浮かべようとした。その様子を、春の姫は物静かな微笑をもって見守っている。
「冬は寒いです。誰も外に出たがらない、過ごしにくい季節です」
「他には?」
「作物も育ちにくいです。長く続けば、人々も、動物たちも飢えてしまいます」
「他には?」
「春の花も、夏の緑も、秋に色づく木々のような美しい景色は、冬にはありません」
「他には?」
「…………」
「もうありませんか? 理由としては、いささか弱いようですね」
「あの……お姉様、わたくしは真面目に……」
ふぅと息を吐いて、春の姫は花のような笑みを咲かせる。冬の姫はまともに取り合ってもらえていないような気がして食い下がろうとするのだったが、不意に頭を柔らかな手が触れ、髪を梳くように撫でられたのだった。
「わかっていますとも。あなたがどれだけ悩み、塔を抜け出すに至ったのかは、理解しているつもりです」
言葉を詰まらせる冬の姫を春の姫は優しく見つめ、諭すように語りかける。
「ですが、あなたはもう少し広い目で世界を見るべきですね。冬に咲く花も、みのる果実もあります。天敵がいない冬だからこそ、安心して子を育てることのできる動物だっているのですよ。それに、ご覧なさい」
春の姫は妹を撫でていた手をかざすようにして、周囲に連なる白銀の山々振り仰いだ。
「この景色を寒々しく暗いものだと思う者もいるでしょう。ですが、私は強く厳しくも壮麗な美しさを感じます。あなたは、どちらですか?」
どこまでも広がるこの白いだけの世界を、確かに美しいのだと春の姫は言う。そして、いまいちど、冠を冬の姫に差し出した。
「いずれにせよ、嫌いだとか、望まれていないなどという感覚は、その程度のものなのですよ。あなたが気にするほどのことではありません。あなたが、お母様から受け継いだ冬を、どうしたいのか。今はそれだけをお考えなさい」
「お母様から……」
塔から抜け出して外で過ごす間に、ときおり夢を見ていたことを冬の姫は思い出す。
母とともに歌い、過ごしたこの季節を自分がどう思っていたのか。
冬には冬を必要とするものたちがいる。それを、見ようとしなければいけない。
そうしなければ、見えているものさえも、見えなくなる。
何も見ようとしなくなっていたのは、いったいいつからだったのか。
きっと、母を亡くして、二人で見ていた景色を一人で見るようになってから、きっと何も見えなくなっていたのだろう。
「これからも冬を続けて、いいのでしょうか……」
ぽろりと目尻から零れそうになるものを拭い去り、冬の姫は差し出された冠へと手を伸ばす。そうして、受け取った氷の冠を頭に載せた。
「難しく考える必要はないわよ、イヴ」
春の姫と入れ替わるようにして、冬の姫が屋上の縁へと立つ。そこへ、夏の姫が明るく声をかけた。
「冬が寒いっていうのなら、夏だって暑くて嫌だっていう人だって一杯いるわ。でも、そんなのどうしようもないじゃない? どうしようもないことをねじ曲げてまで嫌われたくないなんて、私は思わないわ。もっと好かれる努力はしたいけれど、嫌われないための努力なんてのはしたくない。私の場合は、まあ、そんな感じね」
肩を竦めてからっと笑って見せる夏の姫に、冬の姫は思わず吹き出してしまった。おかげで、ほんの少し心が軽くなる。
「……ありがとう、エステルお姉様。お城に戻ったら、ゆっくりお話させてくださいな」
見守ってくれる皆に笑いかけて、冬の姫は眼下の冬景色へと向き合った。
およそひと月ぶりとなり、不安はあったがこれも自分のまいた種。逃げずに終わらせるのだと、深く冷えた空気を吸い込んで、季節に終わりを告げるべく姫は歌い始めた。
――オォーー……ン。
(……っ!)
その最中、冬の姫は背後で高らかに響く狼の声をきいた。春の姫と夏の姫、ネズミも驚いた様子で狼を見るのだが、狼はそんな注目を気にせず、冬の姫の歌声に合わせるように吠えている。
その彼の遠吠えに、冬の姫の中で、懐かしい記憶が呼び起こされていた。
――お母様、狼が歌っているわ。
(あぁ……)
冬の姫は歌うことをやめまいと、狼に背を向けたまま、彼に負けぬように歌声をあげ続けた。ふたりの声は重なり合い、白銀の世界へとこだまする。
見上げる白く覆われた空の向こう側が、眩しい光を孕んでいる。雲はその身の最後の一欠片までを、余さず落とそうとしていた。




