第11話
ルーとロー、二つの群れの筆頭たる二頭の決闘が始まってしまった。
逃げられぬように黒い狼の群れに囲まれてしまっている冬の姫は、どうしようもなくその戦いの行方を見守ることしかできずにいた。
白と黒、どちらの群れも今は決着を見届けようとしている。誰も手出しをしようとはしない、これは二頭だけの決闘なのだった。
だが、それは表面上だけのことでしかない。
黒い巨体を躍らせるローが、常にルーへと攻撃をしかけている。ルーはそれを避けるばかりで、自分から攻めに転じようとはしていなかった。
ルーは何も言わず、姫の方を見ようともしていなかった。しかし、姫はそれが彼なりの優しさであることを理解していた。
彼はいつだって姫に多くのことを語らない。それでも、彼はそばにいてくれた。
「どうした! ニンゲンをタテにとられただけで何もできなくなるとは、やはりオマエは腰抜けだな!」
ローに侮蔑を浴びせられてなお、ルーは牙をむいて威嚇するだけで手を出そうとしない。同時にわき起こる黒い狼たちの囃したてるような吠え声に、姫は耳をふさぎたくなる。
自分の存在がルーの足かせになっているのは、もはや明白だ。
(どうすればいいの……!?)
一番望ましいのは、黒い狼たちが自分に手出しできない状況をつくることだ。しかし、小娘の足では狼の追跡を逃れることなどできるわけもない。狼たちを退ける武力など考えるまでもないことだ。
姫は必死に思いを巡らせた。絶望に目と耳をふさぐ前に、彼を救う手立てをなんとしても見つけるのだ。
「…………姫さま、姫さま」
「――っ?」
「しっ、気づかないふりをしていてくだせえ」
と。姫は不意に服の襟首あたりで何かがもぞもぞと動く気配を感じた。思わず視線を下げようとしたが、小さく制する声がする。
その一瞬のやりとりの中で、姫はちょこんと顔を出す茶色い毛玉を視界の端にとらえたのだった。
「ネズミさん……!?」
「狼たちはダンナたちの戦いに夢中っす。気づかれないように、小声で話しやしょう」
「わたくしの服に隠れていたのですか? どうして……」
「言ったでしょ。オレっちは恩を返すネズミっすよ。まあ、実際はあのローってヤツに襲われたとき、咄嗟に隠れられる場所が姫さまの服の中しかなかったからなんっすけどね」
照れくさそうにネズミは声を潜めて笑った。思いがけずに表れた小さな友人の存在に、姫は少しだけ救われた気持ちになったが、それも束の間。このようなところまでついてこさせてしまった彼に対して、激しい後悔の念に襲われた。
「ごめんなさい。あなたまで、巻き込んでしまって……」
「いいっすよ。それより、ここを乗り切る名案があるんっすけど、聞きたくないっすか?」
ネズミの提案に、姫は耳を疑った。彼の声は真剣であり、冗談を言いたいわけではないらしい。
「そんなことができるの?」
「思いつきっすけどね。その前に姫さま、あの魔法の杖はいまも持ってやすね?」
「火をともす杖のこと? ええ、塔から持ち出してしまいましたから、返すために……」
樫の木の杖ならば、腰に巻いたベルトに挿んでいる。ネズミは「なら」と頷き、姫に言った。
「時間もありやせんから手短に。こうなっちまった以上、オレっちと姫さまは一蓮托生っす。オレっちの命は姫さまに預けやすので、姫さまもどうか、命を懸けてくだせえよ」
「……わかりました。教えてください、ネズミさん。わたくしにできることなら、何でもします」
姫は一も二もなく、藁にも縋る思いでネズミのその案を頼りにすることを選ぶ。ネズミもこの狼に取り囲まれているこの状況に震えはしていたが、覚悟を決め顔つきで話し始めた。
*
凶悪なローの爪と牙の攻撃を受け続けて、ルーの白い全身にはところどころ血が滲み始めていた。
同じくらいの体格に、同じくらいの力。二頭の実力は拮抗しているはずだったが、ローに手を出すことができない今のルーにとって、状況は最悪といえた。
「動きが鈍っているな、ルー。まだ足の傷が治りきっていないのか!」
そこに拍車をかけるのが、前回の決闘のさいに負った左後ろ足の怪我である。痛みなど取るに足らないが、ローの攻撃を避ける動きはわずかに鈍っていた。
本来であれば、完全に傷を癒すにはもうしばらくの時間が必要だった。しかし、黒い狼たちに冬の姫が目をつけられてしまったがため、そうも言っていられなくなったのだ。
そして、彼の懸念は現実のものとなった。吹雪の中でも少女の匂いは嗅ぎ分けることができており、それだけで事態を把握するのは十分だった。
確かに別れたはずなのに、自らの意思ではないにしても、またも自分の前に現れるのかと彼はほとほと参っていた。
「ここまでされてもまだ反撃の一つもしないとはな! やはりオマエは、ボスにはふさわしくないようだ! 足のことにしてもそうだ。ニンゲンに傷つけられてなお、ニンゲンが大事か!」
「ほざけ。あのとき、決闘を前にしてオレの群れにニンゲンが現れたのがオマエの差し金だったことはもう分かっている」
「は、何のことだか!」
ローがルーに覆い被さり、ルーの首根っこに牙を立てようとする。しかし、ルーも黙ってやられるわけもなく、二頭は雪上を転がるようにして攻防を繰り広げた。
「オマエはオレの群れの仲間をそそのかし、ニンゲンの村を襲わせたのだ!」
そこで初めて、金色の瞳を見開かせたルーがローへと牙をむく。ローは素早く飛び退き、怒りのうなり声を響かせるルーをにらみつけると、そんな彼を嘲笑するのだった。
「オレ様は狼の正しい在り方を説いてやったまでだ。結果、ニンゲンがそいつらを追ってオマエの群れに報復をしたのは不幸なことだったがな。しかし、足もろくに使えん状態で勝負の場に出てくるとは、見上げたものだったぞ。哀れを通り越して滑稽だった!」
「……オマエほどの力があれば、勝負を汚さずとも十分に戦えたはずだ」
「は! 馬鹿を言え。すべては勝つためだ! オマエの言っていることは、群れに飢えて死ねと言っているのと同じことだと何故分からん!」
血走った瞳を怒りに燃え上がらせて、ローが鼻に皺を寄せて黒い毛並みを逆立たせる。
「ニンゲンと争う!? 望むところではないか! 飢えて死ぬくらいなら、オレ様は戦って死ぬことを選ぶ……! それを間違いとは言わせんぞ! 力を持ちながら何もしようとしないのなら、オマエは去るべきなのだ!」
「何とでも言え。オレはオレの意思を曲げるつもりはない。獲物がとれなくとも、魚であれ、野草であれ、春を迎えるまで食いつなぐ手段はあるはずだ。ニンゲンを襲い、オレたちと争う理由を与える必要はない」
「それが、限界だと言っているのだッ!」
「――……ッ」
嵐のように突進するローを避けようとするルーだったが、度重なる攻防の末に、とうとう彼の足が一瞬止まった。その隙をローが見逃すはずもなく再び雪上に両者は転がり、ローがルーを組み伏せる。
「は……! ここまでしてもろくな抵抗もしないとは、それほどあの小娘だ大事か! だが、覚えておけよ。オマエを噛み殺した次は、あの娘の番だ! 運がよければオレ様の腹の中ででもいっしょになれるかもな!」
「キサマ!」
「群れの上位として、つがいもつくらず、子もなそうとしない。オマエが上に居座り続けても何一つ群れのためにはならん! 何の責任も果たさぬオマエはここで死ね!」
ローがルーの息の根を止めようと、今度こそ喉元に食らいつこうとする。
まさに、その寸前であった。
「――狼たちよ、聞きなさい!」
凜と、張り詰めた声にローの牙が止まる。にわかに決闘の場がざわめき、やがて波が引くように静まり返った。
「ちっ! あの小娘……!」
「わたくしは冬の姫! この冬を司る季節の担い手です!」
ローが忌々しげに唸りをあげて視線をそらしたその隙に、ルーが拘束から素早く抜け出す。
そして、白い髪を風にあおられながら頭上に高く消えない炎を掲げて呼びかける冬の姫の姿を、ようやく視界に映したのだった。