第10話
村を襲った狼の群れのボスであるローの目的は、最初から冬の姫だった。
群れの大半には食料庫を襲わせ、人々の注意を向けさせる。当然、人々も狼たちに食料が狙われることを警戒していたため、そこが争いによる混乱の中心となるのは必然だった。
そうして、姫のにおいを覚えていた配下の二頭の鼻を使い、まんまとローは姫の居場所をかぎつけて彼女をさらうことに成功したのであった。
山奥にある彼らの縄張りへと夜通しつれられた姫は、暗い巣穴の奥へと放り込まれていた。巣穴の前には何十頭もの黒い狼たちが見張りにおり、ボスの帰りに喜びの声をあげているようだった。
「わたくしを、どうするつもりなのですか!?」
じめじめとした土の上に倒れ込んだ姫が、自分を乱暴に咥えてここまで運んできた巨大な黒い狼――ローを強くにらむ。そんな姫の虚勢を見透かすようにローは彼女を嘲笑い、見下していた。
「オマエはルーのお気に入りだ。アイツはまだオレと決闘をするつもりのようだからな。利用してやるのだ」
オマエを食い殺すのはその後だと、ローは鋭い牙と濡れた赤い舌をちらつかせる。
姫は真っ青となり、恐怖に震えていた。その様子に気分をよくしたのか、ローはさらに言葉を続けた。
「アイツは狼の面汚しだ。群れは食わねば生きてはいけない。それなのに、アイツはニンゲンの味方をしようとする。だから、オレ様が群れの行動を正してやったのだ! ニンゲンなど恐れる必要はない! これからはニンゲンもオレ様たちの獲物となるのだ! 決闘に負けたアイツが、群れの行動に口出しすることはできない!」
ボスの叫びに賛同するように、巣穴の外からは他の狼たちの遠吠えが幾重にも鳴り響く。姫は絶望的な気分となりながら、巣穴全体を揺らすかのようなその喚声を聴いていた。
「だが、情けをかけて生かしてやったにも関わらず、まだルーはオレ様にたてつこうとしている。今度こそ、息の根を止めてやらねばならないのだ。アイツさえ始末してしまえば、オレ様に逆らえるモノはいなくなる」
「狼さんと……ルーさまと戦うのですか。ですが、わたくしに利用価値などないでしょう。あの方は、わたくしを置いて去ったのですから」
ローの企ては決闘のさいに人質にとって優位に立つことだと姫は考えた。そして、それは無理なことだろうとも思った。
捨てるのも自由と彼は言い、その言葉通り自分は捨てられた身なのだから、人質の価値などあるわけもない。
そうでなければ、ならないのだ。
「わたくしを人質にすることなど諦めて、早く食べてしまいなさい。それとも、たかが小娘一人食べることもできないのですか。臆病もの――!」
すべてを言い切る前に、姫は巨体に押し倒されて背中を地面に強く打ちつけられた。目と鼻の間には、見開かれた金色の瞳がある。
「オレ様を侮辱するな。今すぐに食わなくても、痛めつけることくらいはできるんだぞ」
「……ッ」
感情が痛みに塗りつぶされそうになるが、姫は唇を噛みしめてこぼれ落ちそうになる涙を必死で堪えた。
「ふん、冬の姫とはいっても、小娘には違いな。その口ぶりでは、オマエは自分の利用価値をわかっていないようだ。ルーは教えなかったのか? アイツが、狼たちをまとめるのにふさわしくない理由を」
「理由……? ルーさまは、人と争うことを望んでいなかったからでしょう」
「ああ、そうだ。だが、それだけではない。アイツがニンゲンに肩入れするには、もう一つ理由がある」
ローは獰猛に口をめくり上げて牙をむき出しにする。喉の奥からくぐもったうなり声を聞いて、彼が笑っているのだと姫は気づいた。
「く……ははッ! 笑える話だぞ。聞きたいか? それこそ、アイツが腰抜けと言われるにふさわしい理由だ!」
この黒い狼が何を言わんとしているのか、姫にはさっぱり分からなかったが、彼は愉快極まりないといったふうである。
ただ、その哄笑が自分に向けられているのだということは、突き刺さるような敵意からも明らかだった。
凶悪な牙を間近で見せられて、姫はきつく目を閉じて顔を背けようとする。そうして、本当にこのまま噛みつかれるかもしれないと、覚悟を決めかけたときだった。
「――……。来たか。ルーめ!」
不意にローがピンと耳を立て、姫から気をそらして振り返ったのである。重圧から解放された姫は前のめりに起き上がり、そっと耳を澄ました。
そして、その遠吠えを聞いたのだった。
「……どうやら、仲間を集めたようだな。まだアイツに従う群れもいたか」
忌々しそうにルーはうなる。薄暗い巣穴の中で裂ける彼の凶暴な笑みを、姫は見ていた。
「オマエも来い」
「あなたに……命令される筋合いはありません」
「なら、引きずっていくまでだ。自分の足で歩くか選べ!」
「っ、わかりました……」
せめて自分を助けてくれたあの白い狼には、まだ無事である姿を見せるべきだと思い、姫はローの後について巣穴を出る。
その途端に、姫は横殴りの雪にさらされ、ぶつかり合う狼たちの遠吠えに全身を揺るがされた。
一つ、二つ、三つ――数えきれぬほどの勇ましい重奏が、吹雪の中を行進している。その中には、間違いなく彼の声も混じっている。
それらに対抗するように、ローの群れの狼たちも負けまいと猛々しく吠え続けている。姫を配下に見張らせて巣穴の前に立たせると、ロー自身も群れの先頭へと躍り出て、凄まじい声で吠え始めた。
やがて、森の中からその白い一団は姿を現す。ローの群れにも引けをとらない、何十頭もの白い狼たち。
黒い狼たちと対峙するその先頭に立つ、美しくも雄々しい姿を見つけた姫は、不覚にも涙しそうになったのだった。
(狼さん……ルーさま)
群れの上位に立つものにふさわしい威厳ある声で吠え、白い狼――ルーは同じく黒い群れの陣頭で己を迎えるローを見据えた。
「ロー。決着をつけにきたぞ」
「ふん、ふざけたことを! ルー! オマエはオレ様に負けた! 負け犬が、ボスであるオレ様にもう一度戦いを挑もうというのか!? 決着などつける必要はない! なぜなら、既に勝敗は決しているからだ!」
ローの群れの狼たちが、彼の言葉に賛同するよう吠え立てる。ルーは静かにローの言葉を受け、その声が鎮まるまで待ってから口を開いた。
「勝敗はついた、か。ああ、確かにオマエの言うとおりだ。だが、オレは納得していない」
「オマエの納得など知ったことか。一度決した勝負をもう一度しようというのだ。どうしてもというのなら、それ相応のものを賭けろ!」
「……いいだろう。では、こういうのはどうだ? オレはオマエに敗れはしたが、まだオレの声に応じてくれた仲間たちがこれだけいる」
ルーは一度振り返り、後ろに控える群れを見渡す。その視線に応じて、彼の背中を後押しするように群れの狼たちが吠えた
「群れの意思は、上位に委ねられるのが習わしだ。オレがオマエに負けることがあれば、この群れはオマエの意思に従うことを約束しよう」
「服従するというのか? それは群れの総意か?」
「ああ。仮にオレが決闘で命を落とすことになろうとも、二番手には意思を伝えている。問題はない」
「……そうか。それを聞いて安心したぞ!」
「だが、オマエが負けた場合は、オレたちの群れに従え。ニンゲンを襲うことは、もうやめろ」
そこだけは譲るつもりはないと、ルーの金色の瞳が強い光を宿す。ローもまた血走った瞳をぎゅっと細め、口もとを凄絶に歪めて互いの群れに聞こえるように宣誓した。
「いいだろう! 負けた方の群れは、勝った方に従う! 決闘の方法は!?」
「無駄な血が流れることは望まない。前回と同じ、一対一だ。命尽きるか、その前に降参するかだ」
「ハハ! ああ、いいぞ! これでようやく、心置きなくオマエに額の傷の礼ができるというものだ!」
ここまでの言葉をルーから引き出したことで、ローは満足したようだった。負けることなど微塵も思わせない強さと傲慢さを滲ませる笑みは、彼が確かに群れの上位に立つ存在であることを知らしめている。
「さて、ところでルーよ。気になることがあるんじゃないのか?」
「…………」
と、そこで高圧的に牙をむきながら、ローが訊ねた。ルーは眉間に皺を深く刻み何も答えはしなかったが、大きく口元をめくり上げ、ローを威嚇している。
「強がるな。あの小娘が見えているだろう。オマエも知っての通り、群れは飢えている。今はオレ様が辛抱するように言っているが、一声上げればどうなるか分かるな」
「キサマは……また、決闘を汚す気か」
「オレは何も言わん。オマエ次第だ。さあ! 決着をつけてやるぞッ!」
ローの吠え猛る声が天高く轟き、決闘の開始が告げられる。吹き荒ぶ嵐の中、二頭の狼は雌雄を決するべく激突した。