第174話 こんな話をしに来たんでしたけ?
トワは櫛を左手に持ちながら徒人の髪を持ち上げ、ハサミを髪に入れる。チョッキンチョッキンと言う音と共に切られた髪が落ちていく。
「トワ、ヘマったら言ってくれ」
「大丈夫大丈夫だよ。徒人。ちゃんとやってるから。あ、ちょっとブレた」
トワが生きた心地のしない一言を告げる。
「ま、マジで?」
「徒人、気が散るから黙ってて」
虚ろ目のトワが鏡に映る。妙に気合が入っていた。ある意味、今まで戦ってきたどの敵よりも怖い。蛇に睨まれた蛙の気持ちが分かる。丸坊主にしなくて良いことを祈りたい。
鏡を覗いてみるとトワは無言で徒人の髪を切っている。一応、長さを見ると無茶苦茶に切っている訳ではないのは分かるのだが真剣過ぎて目が怖い。
一心不乱にトワが髪の毛を切っている。少しずつ切ってるのはありがたいのだがやはり不安は拭えない。
「トワ、普通に担当の人にやってもらった方が安全だと思うんだ」
「人間の散髪の担当の人なんか居ません。気が散るから黙ってて集中させて欲しいんです! あっ!?」
トワが怒り気味に叫んだ瞬間、右耳から液体と妙な熱さが発生した。徒人は丸坊主よりも自分の耳があるかどうかを心配すべきじゃないかと思い直した。ただし、正面の大きな鏡で確かめるとそれは既に手遅れだった事に気が付いた。
「あ、今すぐに舐めますから」
そんな一言を発してトワは徒人の右耳を口に含んだ。生暖かい感触と血を吸われる感覚と痛みが走る。さすがに耳がなくなりそうな時にこんな甘噛みは嬉しくない。
「トワ、普通に回復魔法を使って治して欲しいんだけど」
トワは何かを唸っているがよく分からない。血を止めなきゃとか言ってる気がするけど回復魔法を使えばすぐなのに。
「自分で回復魔法を使うから口を離して」
更にトワが何かを呻いている。痛いし、早く自分で治すか。徒人がそう思って回復魔法を唱えようとした。
「深遠なる闇の下僕たるトワ・ノールオセアンが命じる。傷付き倒れたこの者に安息たる闇の祝福を! 《ヒール!》」
先にトワに唱えられてしまった。それに対応して徒人の右耳は治った。それは別に構わないのだが鏡に映るトワは涙目だった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。耳を切るつもりはなかったんです。わたしはあんまり器用ではないので切らないように注意していたのですが……」
ならまず何故髪を切ろうと思った&耳を舐めたとツッコミを入れたくはなるが話が悪化するだけなので止めておく。
「取り敢えず、血は止まってる?」
「止まってます。止まってます。やっぱり髪を切るの止めておきますから」
徒人の正面に回ったトワが頭を下げる。ただし、ハサミを持ったままなので危険極まりない。ハサミを振り回さないでくれ。地味に剣を振り回されたりするよりも怖い。切れ方が想像できるからだろうか。ふと気がついてよく見たら彼女の持っているハサミは散髪用ではなく裁ちバサミみたいに切れそうだ。
「ちょっと待って。こんな状態でやっぱり止めますじゃ困るよ。落ち着いてゆっくりでいいから慎重に」
「ありがとう。徒人。じゃあ、続きを始めますね」
すっかり機嫌を治したトワが今度は前後左右に動いて徒人の髪を切り始める。先程までの危ない手つきとは違い、覚束ないながらもゆっくりだが安全確実に髪を短く揃えていく。トワは本人が思ってるほど不器用ではないのかもしれない。
切り終えた後に二つ折りの鏡を持って後頭部を見せてくれた。当然、正面にある鏡と組み合わせないと見えないけど。
「出来ましたよ。あ、頭を洗うのはこっちの椅子ですから」
洗面のあると言うか、洗面の前に椅子を置いたとしか考えられない場所へとトワが走って行って手招きした。いつもの格好に徒人の髪の毛が多数くっついている。
「別の服にしたら良かったのに。切った筈の髪の毛が服に付いてるよ」
徒人は立ち上がって恐る恐るその椅子に移動する。でも冷蔵庫がないラティウム帝國よりも進んでるから上水道くらい完備してて当然なのかもしれない。
「へ、平気ですよ。全然平気です」
ちょっと嬉しそうなトワなのだがちょっと変な笑みだった。ちょっと涎持たれてるしウヘヘへと言った感じか。こんな状態を可愛く感じる自分が悲しい。
「ほら、むしろ徒人の髪の毛をくっつけて幸せかなって」
嬉しいような引くような気分だが徒人はわざわざ機嫌を損ねたくないので黙って椅子に座っている。
そんな事を考えてる間にトワはハサミと櫛を洗面台に置いてポットみたいなものを持ってきた。あと桶を持ってきて蛇口を捻って水を出していた。
「洗面に徒人、顔を下げて」
今度は水責めになるかもしれないと思いつつ、理髪店でよくやるように上半身を洗面台の上に乗り出す。トワが丁寧に水を掛けていく。服には掛かってないので器用なのか不器用なのか分からなくなる。
「じゃあ、頭用の石鹸つけますね」
そのポットからオレンジ色を手に取る。それを両手でこすり泡立ててから徒人の頭に塗っていく。徒人の頭はあっという間に泡に包まれる。
「痒い所ないですか?」
「トワ、これらは一体どこで覚えたの?」
疑問に思って聞いてみたら藪蛇だったのかトワの目が一瞬で虚ろ目に変わる。
「徒人、そんな事はどうでもいいの。痒い所ない?」
なんか絶対に聞かれたくないのか絶対に思い出したくない反応だった。地雷を踏んでしまった。話題を変えなければ。
「ひ、左耳の上辺りがか、痒いかな。あと右の頭頂部」
「こことここだね。ひょひょひょひょひょ」
変な奇声を上げながらトワがリクエストに答えて指の腹で痒い所を掻いてくれた。
「ついでに頭頂部の前の方も。あといつ指輪の能力を強化したの?」
「ここらへん? えーとあれは徒人と和解してすぐかな。アニエスから報告書を見て徒人が危ないかなとか思って」
更にトワは痒い所を的確に掻いていく。大体しか言ってないのに的確なのがちょっと怖い。
「確かに。北の魔王とか黄道十二宮の勇者の襲撃とかあったからな」
「うん。うん。それに悪い虫が付いたらいけないじゃない。何かいけなかった?」
トワの手が止まる。悪い虫の辺りに力が込められているのを考えるとそれが主目標だった気がする。
「それでここの指輪は痒い所が分かったりしないよね?」
またトワが虚ろ目に戻ったので話題を変えようとする。
「やだな。徒人、そんな能力ある訳ないじゃないですか」
目は普通に戻っていた。だがなんか不審な物を感じなくもない。嘘を吐いてるのか吐いてないのか徒人には判断が出来ない。
「お水掛けるね」
トワが言うと同時に水が徒人の頭に掛けられる。それが3回続く。それからタオルで拭く感触が伝わってきた。
徒人は上半身を元の位置に戻す。
「次は剃刀タイムだから。大丈夫。産毛くらいちゃんと剃れるから」
そんな風に説得しようとするトワの右手には剃刀が握られていた。
首を、ミスって頸動脈を切られないかが心配になってきた。
「別にヒゲは……」
「ついでにやっておきましょう。信用して下さい」
トワがどこか影のある笑みを浮かべた。えーと命の危険も覚悟しないといけないんですか? 失敗する前提でリザレクションですか? 《死と再生の転輪》による即時蘇生前提ですか?
「眉毛は剃らないでいるつもりですから」
剃刀を洗面台に戻してどこからか湯気のたつタオルを持ってきた。手が凄く熱そうなんですけど。
「頸動脈を鶏みたいに掻っ捌かれないかが心配なんだけど」
「そこまで不器用じゃないですから」
トワはちょっと涎を垂らしながら笑う。やってみたくて堪らないのか。命と眉毛がある事を祈ろう。タオルを顔に置かれる前に聞いておかなければ。
「回復魔法で髪って生えるんですか?」
「生えませんから気を使ってるんですよ。ちなみに何故か知りませんが髪の毛と言うよりは禿に効かないんですよね。あ、徒人が禿げてもわたしは問題ないですから」
口元に蒸したタオルを置かれる。トワが変なフォローしてるが禿げるよりも今眉毛を剃り落とされるかどうかが心配なんだけど──
ひげ剃り用なのだろうか、トワがなんか泡立ってるのが入ってる容器を持ってきた。
「眉毛の下もやりますからね」
そう宣言してトワが徒人の口元にあったタオルを目元に移動させる。どうしてハードルを上げるんだ。
「塗っていきますね」
ひげ剃り用泡を塗りたくられて徒人の産毛は剃刀の餌食になった。眉毛と頸動脈が餌食にならなくて良かったと言うべきなのだろうか。




