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風を感じて

作者: 佐谷戸 一

 風を感じたい・・・オフィスビルを出ようとする俺は、強く思った。手応えのない仕事の繰り返しにイライラしていた。

 が、扉を開けると、真冬の夜のくせして一向に風がない。風の手応えさえ得られないのか。。。

 通勤バスに揺られ、我が家最寄りの停留所で下車。こんな時、独り者はとんかつで元気をつけるのがなにより。手頃過ぎる価格でご提供のチェーン店の扉を開けた。


 呑み屋と違って健康的な明るさ。安価で豚肉の蛋白質とキャベツの食物繊維及びビタミンを摂取しようとする、心身ともに健康志向の者たちが集う店、、、かも。いや、そうあって欲しい店である。

 足を踏み入れると目の前がレジ。その右に横長のカウンターがあり、平行する横長カウンターと右端の3席で繋がっている。その向こう側はテーブル席が並ぶが、独り者には関係ない。

「らっしゃい!お好きなカウンター席にどうぞ」若い兄ちゃんの声。高校生のバイトか。えらく細身で、悪く言えば貧相。ま、この店で可愛い店員に出くわしたことはないので、期待はしていなかったが。わざわざ「カウンター席」と言われんでもそうするわい、と思いつつ席を物色。


 混んでいない時は、あいだ1席空けて座るのがエチケットというか常識。・・ん~、右端縦列の真ん中かぁ。とんかつを頬張る姿を横列の端席からまともに見られるのはしゃくだがなぁ。実際、横列の端席に若者がこちら向きに座っている。チェックのシャツでやや長髪だが涼しげな風貌。まぁ、スマホを見つめているから、俺のようなオッサンの食いぶりには目もくれなかろう。ってことで、3席ある縦列の真ん中に腰かけた。


「ご注文がお決まりになりましたらお伺いします。」バイトの兄ちゃん。ん?カウンターの中央の客、つるっとした頭で背広姿のオヤジが眼鏡越しにこっちを見てやる。オヤジと言っても俺と同じくらいの年齢だろうが、、トホホ。。。

「あっ、もう決まってる。とんかつ定食。ごはん軽めでね。」あのオヤジに聞かれたくないので小さめの声で告げた。

「はっ?」はっ?じゃねえだろう。聞こえねぇのか!こっちはメニューを指さして言ったんだよ、兄ちゃん!

「と・ん・か・つ・ていしょく。ごはん、か・る・め!」独り者が食事を静かに待ち、或いは黙々と食う世界に、私の透明感溢れる声が響き渡った。

「軽めというのは、少なめということでしょうか?」・・・だよ!それ以外あるのか?同じ量で軽くすることができるんか?できるなら、やってもらおうじゃないか!

「ああ、、、」

「ごはんは≪小≫、ってことですね?」

「・・そうだよ。」しつこい!ごはんがそのようにカテゴライズされているのか?この店では。それで≪小≫ならいくらか安くなるのか?残したら勿体ない、申し訳ない、って気持ちがおまえらの世代にはわからんのだろうよ。


 かつが揚がるまで少々時間がある。川柳でもしたためるか。。。その前に改めてメニューをじっくりと。やっぱり≪大盛り≫はあっても≪小≫はないぜよ、ごはん。

 おっ、バイトがトレイ2つをそれぞれ左右の手に掲げて厨房から登場。カウンター席間の狭い通路をこちらに進む。あのつるっぱげはエビフライ付き定食、右の若者は味噌汁付きかつ丼か。

「ご注文はよろしいでしょうか?」

 青年、そりゃ違う。言うなら、「ご注文の品はおそろいでしょうか」だろうよ。マニュアルをきっちり頭に叩き込んでおけよ。

 おっ、背中に風を感じた。食い終わった家族客が俺の後ろを通ってレジへ。バイトの兄ちゃん、小走りにレジに移動して清算。続いてテイクアウトを注文する客が来て、注文を厨房に叫んだかと思うと、「すみませ~ん」との客の声に「少々お待ちくださ~い」と返し、再び厨房。そしてテーブル席に注文取り。。。青年、なかなか大変だのう。がんばれや。


 仕事中にこさえた川柳の推敲をしようとしたら、バイトの兄ちゃんが私の前にトレイを差し出した。

「ご注文はよろしいでしょうか?」・・注文はとっくに終わっているけどな。まぁ許してやろう。

 メキシコ産豚肉か何か知らんが、とんかつは美味い。ご飯の甘みと絶妙のコンビネーション。わき目もふらず食らい付き、残りの豚汁を啜り始めた頃、背中に風を、、。

 あぁ、右の若者か。まだ居たのか。かつ丼一つにしては上品なペースだったが、スマホでツイッターだか何だかしながら食ってたか。あっちのつるっぱげはまだ食ってるな。


 バイトがカウンター席の間をこちらに近づいてきて、若者の居た席を見る。お~、早いお片づけ、ご苦労さん。

 バイト、若者が去った席のトレイを凝視。どんぶりの横に残された紙ナプキンをめくる。。。伝票がある。

 バイト、しばし理解ができぬとの表情。そして、小さく「くいにげ?」と呟く。支払いは自分がレジで受ける。でも彼からは支払いを受けていない。だのに彼は店から既に去ってしまった。。。つまり「食い逃げ」。

 未だ半信半疑の風情のバイトは、右手を額に当て、左に半歩、右に半歩、そしてまた左に半歩踏み出してから、ようやく厨房に向かった。「食い逃げですよぉ、食い逃げ」と先輩従業員に告げているのが聞こえる。


「食い逃げ」。俺の中では既に死語化していたこの言葉。どこか懐かしいようであり新鮮でもある響き。幼少期、かつての映画やドラマで馴染んではいたが、青年期以降、食い逃げといえば、女の子にちょっかい出してそれっきり、の意味だった。それが、まさか「オリジナル食い逃げ」が、目の前でこのようなリアルな映像付きで蘇るとは。

 バイトは先輩従業員に急かされつつ、二人は店を出て食い逃げ容疑のあの若者を追いかけんとする。が、いかんせん、もはや時間が経ち過ぎ。店の前の大通りを右に行ったか左に出たかも分からず。しかも、先輩従業員は厨房係だから容疑者の顔は見ていない。大窓の外に見える二人の姿。どうやらバイトは先輩従業員から容疑者の風貌・着衣の特徴などにつきブリーフィングを求められているようだ。しかし、あの調子のバイト君ではどこまで的確に表現できるのか。昭和刑事ドラマさながらに「二手に分かれて探そう」となったのだろうが、容疑者確保は難しそうだねぇ。

 その場合、バイトの兄ちゃんに弁償しろ、なんてならないことを祈るばかり。清算から注文取り、配膳まで一人じゃぁ、気の毒だぜ。100円割引券を50円に削ってでも、人員増強を図るべきではないのか。それでも俺は食いに来るからさあ。それにしても、飽食の時代は過ぎ去り、不正規雇用と経済格差ばかりが拡大する社会となってしまったのか。そして人と人との繋がりはSNSに支配され、あの若者もスマホの通信代が高過ぎてあんなことをしでかしたのか?


 カウンター席では、何事もなかったかのように黙々ととんかつに食らいつく客たち。気が付いてるんだろうにねぇ。まぁ、見知らぬ者どうしだから、私も含め。

 レジに代打で立ったのは幼顔残る娘。「○○円で~す」。

「食い逃げ?」と小声で聞いてみると、「フフフッ」と小さく笑い、マニュアル通り「次回お使いになれる割引券です」と私に100円券を渡す。「ありがとう」と言って表に出た。


 今夜初めてうっすらと風が吹くのを感じた。あの食い逃げ青年は、今頃どうしてるのやら。走って逃げたのか、素知らぬ顔で歩き去ったのか。いずれにせよ、この冷たい風を頬に感じながら暗い夜空を見上げている、そんな風景を俺は頭に描いていた。

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