あいたい
小波が生まれて、私の体が揺れる。浮いて、沈んで、水槽の中をゆらゆらと揺蕩う。
「……さま、……えさま」
私を呼ぶ声がする。私の可愛い妹の声だ。
「お姉さま」
少女の声が鈴の音のように響き、微睡みをさあっと散らした。私は瞼を押し上げて、水槽を満たす羊水の中をゆるりと泳いだ。不透明な視界の端で、硝子を隔てた向こうに美しい少女が映る。お姉さま、と少女の赤い唇が動いた。
白く濁った水の中から上がる。私の体を伝って滴り落ちる水がぱたぱたと音を立てた。少女はそのほっそりとした白い腕を伸ばして私を引き寄せた。少女のしっとりと濡れた唇が近付く。私の唇に重なり、吹き込まれる息が呼吸を促した。肺に溜まった水を全て吐き出し、深く息を吸った。少女は、私をまっ白な布で包んで、それから、すがり付くように身を寄せた。
「ああ、お姉さま――――」
少女は、吐息に安堵を含んで囁いた。少女の髪を指ですいてやる。背中に流れる美しいブロンドは、記憶にあるより随分と長くなっていた。
「だって、お姉さまがあんまり長く眠っているのですもの」
上目遣いで私を見つめる少女の睫毛が、不安で震えている。私の眠りがますます深くなっていることを、少女は気付いて、怯えていた。私は、少女を一度強く抱きしめてから、形の良いアーモンド・アイを覗きこんだ。
おはよう。
笑いかけると、少女は愛らしい微笑みを見せてくれる。
「おはようございます。お姉さまがちっとも起きて下さらないので、わたくし、待ちくたびれてしまいましたわ」
それから、少女は甲斐甲斐しく私に服を着せ、靴を履かせると、お茶にしましょうと言った。少女に手を引かれて、大きな水槽と小さな窓しかない、無機質な部屋を後にする。たん、たたん。少女は、軽やかな音をたてて長い階段を下り、光の射し込む渡り廊下を舞うように駆けた。
「はやく、はやく。お姉さまがまたすぐに眠ってしまってはいけませんもの」
少女のまっ白なスカートがひらひらとはためく。それを何とはなしに眺めていた私は、ふと、視線を感じて振り返った。私の目に見慣れない影が映る。それは、息をのむほどに美しい男だった。深い藍色の瞳が私を絡めとった。
「お姉さま、どうしたの」
繋いだ手から震えが伝わったのか、少女が足を止めて振り返る。そのときにはもう男は背を向け、暗がりの中に溶けて消えていた。私は何でもないと首を振り、少女は、私の手をぎゅっと握りしめた。
少女の部屋の小さなテーブルには、すでに二人分のお菓子とティーカップが並べられていた。「お姉さまがいつ目覚めてもいいように、まいにち準備しているの」と少女は言って、私を椅子に座らせ慣れた手つきで紅茶を入れた。それから、おのれも腰を下ろすと、私が眠っている間の出来事を思いつくがままに喋り始めた。私は、少女の美しい囀ずりに耳をすませ、時折相づちを打つ。
「そういえば、新しい弟が生まれました」
次々と移り変わる話題の中で、それはいっそう私の興味を引いた。新しく生まれた命は、今までの誰よりも強く、美しいのだろう。そう思った時、先ほど見た美しい男が脳裏をよぎる。
あいたい。
少女の顔色がさっと白くなる。少女は、はじかれたようにテーブルに手をつき立ち上がった。まっ白なテーブルクロスの上のティーカップが小さく跳ねて、がしゃりと音をたてる。
「あの男は、だめ。だめ。だめですわ。あの男に会えば、きっと、お姉さまは、わたくしのお姉さまは……」
少女は、感情の高ぶりに堪えかねそこで言葉を途切れさせる。少女の瞳から、真珠のような涙が一粒こぼれ落ちた。
「お姉さま、ずっとわたくしの傍にいて下さい。ずっと、ずっと」
私の膝に顔を埋めて泣く少女が、哀れで愛おしい。私は少女を慰め、惜しみのない愛を唇にのせて、子守唄を紡ぐ。愛してほしいと叫ぶ心を、抱き締めながら。