さらば、世界に終わりを
タイトルは、いいこ(http://nanos.jp/iikono/)さまよりお借りしました。
死ぬのか、と男は問うた。
酷く美しい男であった。男の藍色の瞳はぎらりぎらりと冷たく鋭い光を放ち、一人の女をひたりと見据えていた。女だけを捉えていた。
酷く醜い女であった。
女は笑った。藍色の瞳に映る己は海深く沈む醜い深海魚のようだと言って笑った。そして映るくしゃりと潰れた己の顔の可笑しさに、また笑った。
男はしばしその女を眺めるだけであった。ひとしきりすると、女の頬をひとつ撫で上げた。答えを促すそれに女は笑みを残してかちりと瞬きをした。肯定の意を表していた。
男はそうか、と小さく呟いた。
「もう、死ぬのか」
男は言った。それに応えるようにして、ぼろり、と女の肉が骨を残して床へと落ちた。指の肉であった。真白い床に赤黒く変色した肉はよく映える――半ば他人事のように女は考え、己の一部分であったそれをぼうと眺めた。そのまま口を開いた。
「ええ」
しゃがれた声であった。耳の奥でざらりざらりと響いて残る、不快な声であった。
「私はもうすぐ死ぬだろう。血肉が腐り脆い躰が崩れて死ぬのだろう」
しかし、と女は男に言った。
「殺してくれまいか。肉の塊と化す前に、お前が私を殺してくれまいか。最高の終わりを私にくれまいか」
──お前の手で、死にたい。
ぎらり、男の藍がより鮮やかに色づいた。瞳の海は深さを増して、映る女は呑まれていった。ゆらりゆるりと沈んでいった。
男は笑った。男の口角が吊り上がり薄い唇が弧を描いた。共に歪む男の目が狂喜に彩られ瞬いた。
「殺してやろう」
女に言われずともそうするつもりであったのだろう。男は世間の常識を説くような、当たり前だと言わんばかりの顔で言った。どこか満足げな表情であった。
くつりくつりと男は喉を鳴らし、笑った。愉悦を滲ませたそのさまは恐ろしいほど美しかった。悪寒か快感か、女の背を氷塊がぞろりと滑り落ちた。
「殺してやる。しかし、お前は俺を残して逝くつもりか。お前がおらぬこの世に残して逝くつもりか」
それは許さぬ、と男は言った。
「お前の手で俺を殺せ」
女の腐りかけた躰に手を伸ばして男は言った。微塵の迷いもなく言った。互いの手で共に逝こう、と言った。
ああ、と女は感嘆の息を漏らした。嬉しかったのだ。泣きだしたいほど嬉しかったのだ。しかし女は込み上げる激情を吐き出すすべを無くしていた。腐敗した女の躰は涙を無くしていた。女は歓喜に震える身を持て余し、堪らず目前の男にしがみ付いた。
男は女の髪を撫でた。女の髪がきしりと鳴った。
男は笑った。穏やかな微笑みであった。それはいつも男の顔に貼りつく美しい冷笑よりも、ずっと綺麗な笑みであった。
ああなんて幸せなのか、と女は思った。
男は指を女の喉に絡み付けた。女は男の首に両手を巻き付けた。男はじわりと力を込めた。女はじわりじわりと力を込めた。
びくりと女の躰が跳ねた。男の手で指で気道が塞がれくうと喉が鳴いた。女は喘ぎ、今にも彼方へ飛んでしまいそうな意識をたぐりよせた。男の瞳から目を逸らさぬようにと念じてつなぎ止めた。
藍色の瞳が女を映し微かに揺れた。哀しげに、揺れた。揺らめく瞳をそのままに、男は苦しさに眉を寄せた。端正な顔を歪ませた。
ぎちりと音がした。女の骨が鳴らした音であった。
女は己の躰を卑しめた。あまりに脆くて口惜しかった。そしてやはりと諦めた。
ぎちりぎちりと音がした。終わりを告げる音であった。もう限界か、と頭の片隅でぽつりと呟いた。両の手に渾身の力を込めた。
白く霞む視界の中、女は浮かぶ二つの藍を見た。鮮やかな彩を放っていた。それは、哀しい藍であった。
ごきり、男の手中で音がした。
女の腕がぶらりと垂れ落ちた。女の手は骨が砕けていた。指は有らぬほうに折れ曲がっていた。女の目は見開かれていた。瞳は最期まで逸らされなかった。今はかくりと折れた首に従い空を見つめていた。そこにいつもの、諦め全てを受け入れた、優しく温かい光はなかった。女の瞳はもはや何も映すことはないのだ、と男は思った。
男の内には、女を己の手で殺した満足感があった。女の手で死ねなかった絶望感があった。その二つはせめぎあい、言い表すことのできない複雑な感情となって、男を襲った。
男は女のつけた赤い痕をなぞるように己の首筋を撫で、そして、爪をたてた。血が滲み肉が抉れてもかまわず掻き毟った。
くつり、と男は笑った。己と女を嘲笑うものであった。
ああなんて愚かなのか、と男は思った。
「 、 」
男の唇から音が漏れた。歓呼のようであった。嗚咽のようであった。嘲笑のようであった。慟哭のようであった。それはただ、あえかな響きを虚空に残して消えていった。
男は、歪な骸を抱きしめた。