三話
いったい、どれほど思考していたのだろうか。結局、何も覚えていないのだから、夢の類ではないだろうかと思う。
そんな、夢現を行ったり来たりしている僕の頭を、覚醒に近づけたのは何らかの匂いだった。これは、おいしそう、と表現できるであろう匂いだと思うけど、よくはわからない。長旅は、僕から味覚のなんたるかを完全に奪い去ってしまっていたのだった。基本的にゲテモノばかり口に入れていたから無理もないのかもしれない。
うっすら目を開け、上体を起こした僕に、真っ先に反応したのは、甲高い少女の声だった。
「あ、気が付いたんですか?」
目の前にいたのは、料理の用意をしている少女であった。
少女は、ほっとした様子で、少し釣り目がちな瞳を緩めた。そして、僕の状態を確認するために、薄い茶色のポニーテールをはためかせながら、ピョコピョコとこちらに近づいてくる。
少女の様子の確認のための質問に、僕はしばらく無言だった。
僕の記憶が正しいとするならば、僕は海難に見舞われたはずだ。だが、今は、確実な命を感じている。これは、死後の世界ではないはずだ。たとえ、どんなに記憶のない夢の中で考察していたとしても、この事実に揺るぎはない。
物語の世界であれば、ここは人魚の住処であってもおかしくはないだろうけど、観察できる要因からでは、普通の人間の家と判断するほかなかった。
「あの、聞いてます?」
今度は、息を吹き返した安心のまなざしではなく、反応のなさに戸惑う不安なまなざしであった。
さすがに、これ以上心配をかけるわけにはいかない。僕は、できる限り明るい声で、命の恩人(仮)に謝礼を伴ったあいさつを返す。
「すみません。呆然としてしまって」
「よかったぁ。死んじゃってるんじゃないか、とか初めて見たときは思っていたんですよ」
「やっぱり、あなたが助けてくださったんですね」
僕が、確認のために、そう質問すると、彼女は首を横にふった。
「いいえ。あなたを助けたのは、私の姉さん。その姉さんも、自分自身が助けたんじゃない、って言ってますけど」
僕は、彼女の言葉に疑問を持たず、なるほど、と適当な相槌を打った。
すると、ガチャガチャと扉を開ける音がし、続けて、ただいま、と元気のいい女性の声が聞こえた。
「噂をすれば、ですね。姉さんが帰ってきました。いろいろ、話はあると思いますけど、詳しい話は、姉さんを含めてからにしましょう」
そう言うと、少女は玄関らしき方向に、姉を出迎えに行った。
電撃に打たれたようだった。そんな陳腐な表現しかできないけれど、僕は恋に落ちていたのだ。
少女が迎えに行った、お姉さんは、それはそれは綺麗な女性でありました。
女性は純金のようにつやのある光の長髪を揺らしながら、リビングであろうこの部屋に入ってくる。全身を確認すると、衝撃は拡大。無駄のない体つき。出るところは出て、引っ込むところは引っ込む。またも表現としては陳腐至極ではあるけれど、テンプレートな表現こそ、最も伝わりやすいのだと僕は信じて疑わない。
彼女は、全体的に柔和の一言に尽きるようなご尊顔で、僕にアルカイックスマイルをかましてきた。完全にノックアウトだった。
「こちらが、本当の命の恩人、私の姉さんです」
少女は言った。だが、僕は、そんなセリフに全くの興味を示さず、命の恩人だなんて、やめなさい、とか照れと困惑と謙遜で言っているお姉さんに興味津々だった。
僕は、続きうる会話のすべてを止めるように言ってしまった。
「お姉さん、僕と結婚してくださいませんか」
それが、童貞の理由だとわかっていても、僕には、言わざるを得ないのだ。
あたりを、静寂が包んだ。女性陣の顔はひきつっている。僕は、我に帰った。あんなにも空気の読めない発言をしたけれど、それは一時的なもので、基本的には空気の読める男である。そんな僕にこの空気は耐えられない。
「あ、あー、すいません。いきなり何言ってんですかね」
僕は、頭をかきながら、癖なんですよね、と続けた。
少女の方は、そんな癖あるかー! と憤慨しているが、その姉はどこか納得したような表情で、僕に言葉を返す。
「いくらか、お話したいこともありますが、まずは、自己紹介からですよね。名前がわからないと困りますし」
そういうと、彼女は、リゼッタ・ローローと名乗り、同時に、妹の名前をレベッカと教えてくれた。それに、背筋が伸びるような感覚になり、僕は電撃的に名乗っていた。
「僕は、ランドー、ランドー・カサネです」
最後に、愛称の、ランと呼ぶことの許可を出す。
「で、リゼッタさん。お話、ってなんですか?」
僕は、質問をした。聞きたいことは、いろいろあるけれど、自分の質問よりも、リゼッタさんのお話の方が、僕の質問も包括してまとまっていそうだったからだ。
「私も、リズ、でいいですよ。親しい人には、そう呼ばれています」
リゼッタさん、いやリズと呼んだ方がいいのだろうか。僕は割合に愛称というものが苦手なタイプだ。というか、旅のしすぎで、人と親しくなるというのが少なかったというのもあるだろう。僕は、愛称で呼び合うような友人がいない。
そんな僕にいきなりそんなことを言われても、従えるわけもなくて。
「そうですか、じゃあリズさんで」
落としどころだよね。いきなり愛称呼び捨てはできないもんね。
「では、積もるお話は……」
その時に、グググ、とうなり声が聞こえた。そう、腹の虫の。
勘違いしてもらっては困るから宣言するが、僕は空腹ごときで鳴るような腹をもってはいない。冒険家とは、いろいろと大変なのである。
「あはは。お腹が空きましたね。お料理の用意もあるようですし、まずはそっちから……で」
そう、照れくさそうに言ったのは、リズさんだった。そんな表情すらもすべてグッジョブ。心からの肯定を込めて、僕はリズさんに親指を突き上げて見せた。
レベッカちゃんが作っていたのは、心温まるシチューだった。リズさんが、回復のためにと混ぜてくれた薬草も相まってか、まるで僕の味覚までもが回復していくようだった。なぜかレベッカちゃんは隣で青い顔をしていたが。
僕は、食事中に今回の海難のいきさつを語った。
それと同時に彼女らの話も、いくらか聞けたので、本題に入る前に紹介がてら、説明をしようと思う。
まずは、お姉さんたるリゼッタ・ローローさん。
彼女は、近くの町、僕が海中探査のために立ち寄った町だが、そこでシスターをしているそうな。どうりで神仏のように穏やかな微笑みをしてらっしゃるわけである。
ちなみに彼氏はいないそう。こりゃあ僕にもチャンスという言葉が見えているんじゃないのかい?
年齢は十九、僕の一個下だそう。つまり、僕は二十歳なんだけど、これは蛇足が過ぎるな。
シスターの仕事の傍ら、学校の先生もしていて、なるほど、この包み込むような優しさ、温かさはそこからくるものなんだな、と僕は至極関心、いや究極の感激をしたものだった。
リズさんの容姿は………、ここは不本意ながら、前述したとおりだと、言っておこう。このままでは、確実に日が暮れるレベルにまで描写し続けてしまいそうだ。つまり、理解してほしいのは、リズさんはおそらく天使か何かなんだろうな、ということである。
次は、妹、レベッカ・ローローちゃん。
彼女は、まあ特に言わなければならないことも見当たらないような子です。
それ以上でも、それ以下でもないです。
だが、僕はこのまま終われば殺されてしまうような感覚に襲われた。なぜかはわからない。お姉さんと僕が話をしていることを、えらく不機嫌そうな顔をしていらっしゃる妹君とは関係ないはずである。おそらく。
なので、続けさせていただきたく思います。そう思ったとたんに、少しだけ機嫌が直ったような表情になっている少女は、いったいなんなんだろうか。それは、永遠の謎として終わってしまうのだろうな。
レベッカちゃんは、町では普通に学校に通っているそうな。以下特筆すべき点なし。
年齢は十四。正直、だから何? である。来年成人で学校も卒業しちゃうからさー、これから何をしようかすっごく迷ってるの。だから何? である。
容姿。もはや、箇条書きのようになってしまっているが、これも前述のとおりで済ませよう。特筆すべき凹凸がないのだから、仕方ないね。
「では、本題に入りましょうか」
食事を終えた僕は、世間話に区切りをつけ、そう宣言をした。
「ちょっと、待ちなさいよ! 今、ものすごく私に失礼な感じがしたんだけど!」
レベッカちゃんが、謎のいちゃもんをつけてきた。本当にこの子はいったいなんなんだろうか。
「リズさん。お話したいことについて、詳しく聞きたいのですが」
「無視すんなやぁああああああ!」
「そうですね、まずはランさんを私が発見したところから始めましょうか」
「姉さんまで!?」
そう言うと、リズさんは、僕にその時のことをひも解いてくれた。