7
カメオを見て顔色を変えたシュバイツは、直ぐさま踵を返した。
その背中を見送った灰色の兎は、木の根の上に座って、細い足を組んだ。
兎の姿は徐々に変化する。
数秒の後にその場にいたのは、漆黒の髪の美しい青年だった。
彼は恍惚とした表情で微笑んだ。
「絶望とか、失望とか、そんな感情をもっともっと見せてくれれば、オレはお前をもっともっと好きになれるのになぁ……」
心底残念そうに青年はそう呟いた。
悪魔の屋敷に戻ったシュバイツは庭の奥へと足を急がせる。
荒い息を少し落ち着かせて、水を張った陶器の器を覗き込んだ。
カメオを握る左手が僅かに震えている。
水の中には、跪く姉姫がいた。
顔色が悪い。けれど、胸の前で握られている手はしっかりとし、瞳は何かを期待する様な輝きに満ちている。
彼女の傍らには男が一人立っていた。
侍従のお仕着せは城の使用人に配られているものだ。顔は判然としないが、その左手は姉姫の肩に添えられている。
そしてその場にはもう一人、人がいた。
一組の男女の前に悠然と立つ黒髪の青年。
ゆるりとした笑みを浮かべる横顔は慈悲深くさえ見える。
そんな青年に向かって姉姫は手に持った物を差し出した。
真珠の耳飾り、カメオのブローチ、黄金の櫛、姫君の持てる全財産なのだろう。
そこで水面は激しく揺れた。
水に映っていた景色は歪んで見えなくなってしまう。
原因は明らかだ。
シュバイツの拳が陶器の器の置かれた台に激しく打ち付けられたのだ。
「…………嘘だ。こんなものは、嘘だ!」
信じたく無い。
そんな思いがシュバイツの胸の内に渦巻いていた。
けれど、この悪魔の森では彼の『信じたく無い』という願いなど聞き届けられるはずは無かった。
細い腕が、シュバイツの肩に伸ばされる。
背後から寄り添われて、彼は身体を強張らせた。
しかし腕の持ち主はそんな事に構いはしない。
「おめでとう、シュバイツ。また手掛かりを見つけて来たのね」
シュバイツの左腕を白い指が滑り、彼の手の中のカメオを探り当てた。
それを手にして、悪魔の娘はくすりと笑った。
「純白を汚すのは、悪魔との契約の証」
楽しそうに、そう言って、彼女はシュバイツの手に何かを乗せた。
「きちんと、『聴いて』……?」
唇を噛み締めてシュバイツがその何かを見ると、それは一輪の百合の花だった。
「聴く、だって?」
何の事だかわからずに呟くと、百合の花の奥から音が聞こえて来た。
風が草と木々を揺らす音、水が揺れる音。
そして、鈴を鳴らす様な姉姫の声。
『ねえ、私とこの人を逃がして頂戴。どうか、お願い』
『恋しい男と国から逃げる為に、悪魔と契約をすると言うのかい?』
妖しくも美しい青年の声が応える。
『そうよ。この宝石も全て差し上げるわ。だから、願いを叶えて頂戴!』
『地位も名誉も要らない、かあ。健気だねえ……、水仙の姫』
『国も、王族という地位も、私には最早何の価値も無いの。ただこの人と共に居られればいい』
『姫っ!』
感極まった様なもう一人の男の声が言う。
すると、ぱんぱんぱんっ、と手を打つ音が響いた。
『良い覚悟だ。オレはそういう綺麗な物が大好きだよ。悪魔には珍しいってよく言われるけどね』
『では……』
期待に満ちた姫の声が言う。
『うん、その願い叶えよう』
『…………良かった!』
涙と歓喜の滲んだ声に被さる様に、ぴしゃっ、と場違いな音がした。
『え…………?』
ぽたり、ぽたり、と重たい液体が滴る音がする。
『あ、あ……………………』
声にならない絶叫が、空を切り裂いた。
『どうして、どうしてっ。ホッジス、しっかりしてっ、ホッジス!!』
手を取り合って逃げて来た男の名を呼んで、水仙の姫は慟哭する。
どうして、どうして、と壊れた様に彼女は繰り返した。
『どうして、どうして、どうして、どうして』
それを青年の声が真似る。
『う〜ん。良い絶望だ』
何処か陶然と、彼は言う。
『あのね、姫君。オレは宝石や姫君の決意みたいな綺麗な物が好きだよ。
でも、それ以上に、絶望とか失望とか、今の姫君が抱く感情が大好きなんだ』
ざり、と足を進める音がする。
『近寄らないでっ!』
鋭い姫君の叫びも、悪魔の青年の足を止める事は出来ない。
『その感情を抱いたままで、頼むよ』
短い悲鳴が聞こえた。
それきり、百合の花は沈黙した。