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悪魔の娘とシュバイツの共同生活は笑いたくなる程『普通』だった。
朝起きて、家事や庭の手入れを行い、夜になると眠る。
シュバイツは少女の指示に従って、昼間は狩りを、夕方には薪を割ったり屋敷の修繕を行ったりして過ごした。
相変わらず彼女の淹れるお茶は二つで、どちらともシュバイツの前に置かれる。彼が警戒して飲まずにいれば少女が一人で二つとも飲んでしまうのだった。
そんな風に二日も過ごしたある日、シュバイツは森の中で奇妙なものを見つけた。
木のウロの中が光っているのだ。
「何だ、これは……」
ゆっくり近づいて、ウロを覗き込む。
すると、そこには一粒の真珠が転がっていた。
そっと手にすると、その大きさが良くわかる。大きく、そして上質の真珠だ。
こんなものを持っているのは、王侯貴族だけ。
つまり……。
「姉上のものか」
シュバイツには確信があった。
水仙の姫と讃えられた姉姫は淡い色の似合う人だったのだから。
「やっと、一つ……」
そう言って彼は顔を上げた。
薄気味悪い森の中に、ようやく手掛かりを一つ見つけたのだ。
これで姉姫がこの森に来たという確証が得られた。
悪魔の娘を説き伏せられるかもしれない。
屋敷に戻ったシュバイツは早速娘を探した。
けれどその姿は見当たらない。
「何処だ……?」
シュバイツは屋敷の裏手へと回った。
そこには不気味な石像が幾つも並んでいる。
まさしく悪魔とはこれであるという異形の像や、今まさに石にされたという風情のリアルな女性像まで、様々だ。
悪魔の娘はそんな石像の一体の前に立っていた。
牙を剥き出して咆哮する醜悪な竜が広げた両腕の間にいて、彼女はうっすらとした笑みを浮かべている。
白い指先を差し伸べて、愛おしそうに石像の表面を撫でる。
「お父様……」
シュバイツは無言のまま驚愕した。
……あれが父親だと?!
言葉を紡げずに立ち尽くしていると、少女の方がこちらに気が付いた。
「あら王子様。今日の狩りは終わったの?」
朗らかな問い掛けに、シュバイツはぎこちなく頷いた。
「あ、ああ」
その様子の不自然さに疑問を抱きながらも、悪魔の娘は彼に向き直った。
シュバイツは手の中の真珠をぐっと握り込んだ。
「聞きたい事がある」
噛み締める様に、そう言った。
「なあに?」
対する少女の様は軽やかだ。
右手の拳を彼女に差し向けて、ゆっくりと手の平を開いた。
「森で見つけた。
……姉上の装飾品だろう」
細い指が真珠を突っつく。
「綺麗ね」
何事も無い様に言われたその台詞に激昂しそうになるのを堪え、シュバイツは聞いた。
「姉上は何処だ」
きょとん、と少女は瞬いた。
それから何かを考える間を置いて、口を開く。
「手掛かりを一つ見つけたということよね。
じゃあ、私からご褒美をあげる」
そう言って、彼女は庭の奥へと進んで行った。
戸惑うシュバイツを置いて、少女はどんどんと遠ざかる。
一瞬迷って、それでも彼は悪魔の娘を追った。
小さな背中はすいすいと石像の間を進んでいく。
シュバイツは不思議な感覚を覚えていた。
悪魔の娘と呼ばれ、人を惑わす様な事ばかり口にする少女が、石像を父と呼んだあの瞬間だけは『普通の少女』に見えたのだ。
悪魔だというのに……。
それを否定する気持ちを、彼は持て余した。
やがて悪魔の娘は井戸の前で止まった。
細腕で水を汲み、傍にあった陶器の器に流し込む。
手で何度か掻き回すと、シュバイツを手招いた。
「見て」
少女の示す水を覗き込んだ彼は瞠目した。
「姉上……!」
水面には淡い黄色のドレスを着た水仙の姫が映っていた。
暗い森の中で、周囲をきょろきょろと見回し、そして歩き出す。良く見えないが、その手を引く何者かがいるようだ。
これが悪魔か?
そう思ったシュバイツが幾ら目を凝らしても、姫の先にいる人影は木に隠れて良く見えなかった。
「ここは何処だ。
この、姉上の手を引くのは何者だ!」
焦れったい気持ちを堪えきれずに悪魔の娘に尋ねると、彼女はその美しい顔に満面の笑みを浮かべた。
そして言う。
「知らない」
唖然としてシュバイツが目を見張ると、彼女は益々楽しそうにした。
「この水に映るのは、何処かの水に映った風景よ。
それが何処かなんて、私にはわからないわ。
残念ね、王子様」
「何時かも、わからないの、か……?」
ほんの少しでも手掛かりにならないかと、シュバイツは縋る様な気持ちでその問いを口にした。
そんな彼にも容赦無く、悪魔の娘は緩く首を振った。
「無理ね」
シュバイツはがくりと肩を落とした。
この先どうやって姉姫を探せばいいのか、全く見当がつかなかった。
すると悪魔の娘はそんな彼を暫く見た後で、ふふっ、と笑いを漏らした。
「可哀相な王子様。
だったら、あなたがちゃんと働いてくれる限り、この水はこのままにしておいてあげる。
お姉様の行方が、もしかしたら、また映るかもしれないものね?」
顔を上げたシュバイツに、少女は微笑みかける。
「悪魔の娘からの、餞よ。
大事にしてね、王子様」
その台詞に、先程の父を想う愛おしげな横顔が重なった。
シュバイツは奇妙な心地で悪魔の娘を見下ろし、やがて口を開いた。
「それは、やめろ」
「え……?」
「王子様、と呼ぶのは止めろ。
私の名はシュバイツだ」
彼女に「王子」と呼ばれるのは、酷く不愉快だった。
一方、悪魔の娘は口元に両手を当てて、悪びれずに言う。
「あら。ごめんなさい、シュバイツ」
赤紫の瞳は、笑っている。
その仕草に、眉間に皺が寄っているのを感じながら、シュバイツは少女にそっと尋ねた。
「……お前の名は?」
すると、悪魔の娘はその瞳を大きく見開いた。
何時も飄々とした態度をとる彼女の表情の中ではシュバイツが初めて見るものだ。
暫く固まっていた少女は、戸惑いがちに口を開き、その名を口にした。
「マロウ、よ……」