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胸いっぱい、肺いっぱいの

作者: 浅賀ソルト
掲載日:2026/08/07

 保育士をしている彼女が、ある事故の第一発見者となってから様子がおかしい。ぼーっと部屋の何もない一点を見て「そうだ」と決心する独り言を言ったり、かと思えば鬱状態で「無意味だ無意味だ」とぶつぶつ呟いたりした。

 自分も彼氏として何もフォローしなかったわけではない。事故のニュースと第一発見者になったということを聞いてそばにいるようにしたし、君は何も悪くないと何回も言い聞かせた。

 とはいえ、事故の第一発見者の心情に他人として寄り添うというのはなかなかに難しい。想像が働かない。東京でよく聞く鉄道の人身事故、エレベータに挟まれて死亡、工作機械に巻き込まれる労働災害、それに交通事故。想像することはできるし、なんとなく暗い気持ちにはなるけど、それをいつまでも考え続けるわけにはいかない。どんな酷いものを見たとしてもそれを忘れて前に進まなくては生きていけないのだ。僕の言葉が彼女の心に全然響いてないのは分かったけど、とにかく心配だけはした。そして心配しすぎて疲れてしまった。

 彼女は朝に保育園に出勤し、鍵がかかっていないことに気づいた。泥棒の可能性もあったが、別の誰かが先に出勤して鍵を開けたのかもしれないと考え、「おはようございます」と中に声をかけた。返事はなかった。廊下の電気も、その奥にある調理室の電気もつけっぱなしになっている事に、朝のあかるさの中でも気づいた。日常の癖で廊下の電気を消してから奥に進んだ。「誰かいますか?」

 調理室から音は聞こえなかった。換気扇は回っていたが常に聞こえているのでその音を意識することはなかった。調理室は手を触れずに出入りできるスイングドアになっている。彼女はそれを体当たりせずに手で押して開けて中を見た。調理師の女性が床に倒れていた。最初に目に入ったのはその体ではなく離れた場所で排水口に向かって筋を作っている血の赤色だった。ほぼ乾いてしまった赤黒い流れがタイルの上に残っていた。彼女は息を飲んだ。声は上げられなかった。それから視界の隅に調理師の下半身を見つけた。そちらを見て、同じく声を上げられずに口をパクパクさせた。調理室の中央、排水口の横に普段は金属の蓋がされた場所がありそこに調理師が上半身を突っ込んで死んでいたのだ。両手は体の横に気を付けの姿勢で揃えられていた。グリストラップという生ゴミや脂を捕まえておく仕組みで、人が落ちるような大きさの穴ではない。だが彼女の同僚の調理師はそこに器用に上半身を突っ込ませてハマり込み、下半身だけ調理室の床に残していた。もがいて縁《ふち》の金属で腕をざっくり切った跡が何箇所もついていた。

 あとから分かったことだが、足を滑らせて調理台の角で頭を切った調理師は大量出血してパニックを起こした。床の血はかなりの量だった。朦朧《もうろう》としたまま蓋を開けて掃除をしていたその床の穴に器用に頭から突っ込んでしまった。

 もちろん彼女が目撃したときには調理師は死亡していた。頭の怪我と死亡時の姿勢のせいで家畜の血抜きのような作用をして、体の中に血がほとんどなかったらしい。ホースから水が流れっぱなしになっていた。その水は彼女の両肩の四隅の隙間から穴の中へと吸い込まれていた。まるで彼女が排水口を塞ぐゴミであるかのようだった。

 逃げるでもなく助けるでもなく、彼女はその場でしばらくじっとその調理師を見ていた。パニックになって外に逃げ出す人や、無駄と分かっていても駆け寄って引っ張り上げようとする人もいると思う。しかし彼女はどちらの反応もできず、体を固くして、怖いのに目を逸らすこともできず、その床にある下半身と小さい暗闇に吸い込まれていく水の流れを10分以上も見続けた。

 それから何がきっかけだったのか、不意に水が出しっぱなしだったことに彼女は気づいた。ホースの付いた蛇口を捻《ひね》り水を止めた。死体から目を逸らしたのはそのときが初めてだった。

 水音が止むと調理室は静かになった。換気扇は鳴っていたが聞こえなかった。

 調理室の出入口からだと調理師の靴の裏まで見えた。蛇口のところに移動すると上半身の様子がよく見えた。

 グリストラップは金属の蓋の付いた長方形の穴で、人間が頭から肩まで突っ込むにはギリギリの大きさだった。汚れの付いた調理服を着た上半身はお腹のあたりまでハマり込んでいて、当然だが頭も顔も見えなかった。腕が窮屈そうに畳まれて穴から出ていた。服の袖しか見えなくても、肘より深く穴に落ちているのが分かった。手が曲がらずに突き出ていたからだ。

 やっと彼女はそれを人間だと意識した。同僚の駒場久美子だった。いつも着ている調理服なので彼女以外には考えられないのだが、それまでは目の前の足と同僚の顔が繋がらなかったそうだ。それから駆け寄って——突き出た手は掴《つか》まずに——調理服の下半身を握った。引っぱっても服が動くだけで力も入らなかったので調理服の下の私服も掴むように握り直して、さらに横に立ったままだと力が入りにくいので跨《また》いだ。

 調理師の駒場久美子は55歳の女性で、やや肥満体型だった。引っぱってもビクともしなかった。すぐに握力の方が無くなって服を掴めなくなった。濡れた白い調理服はピタリと貼り付いてその下の肉体がどのようになっているかを見せていた。膨らんで穴を広げるように外へ圧力をかけている。検死によると足を滑らせてから彼女が死ぬまで1分もかからなかっただろうという話だったが、その1分の間に調理師はもがいて自分の体を脂と野菜屑《やさいくず》の溜まった狭い穴に自分でねじ込んでいた。1人で引っこ抜けるわけがなかった。

 跨《また》いでいた彼女は足を戻し、揃えて1,2歩下がった。それから携帯を出そうとして、水を止めるときにバッグをその近くの調理台の上に置いたことに気づいた。目を逸らさず、まるでこれから復活するゾンビでも見るように観察しながら自分のバッグの場所へと移動した。途中で金属製の溝の蓋の上に足を乗せた。幅が10センチくらい、中央のグリストラップに排水を集めるためのステンレスの細い蓋だ。普段はそこにそんなものがあることを意識することさえ少ない。カチャンという音がして彼女は腰を抜かした。足に力が入らなくなって調理室の床に倒れそうになった。なんとか尻餅を避け、またスリップも避けて、パニック寸前になりながら調理台に手を叩きつけて体を支えた。片付けは終わったあとだったので台の上には何もなかった。手を痺らせつつ彼女はなんとか足に力を入れ、自分のバッグへと移動した。

 そこから携帯を取り出し、震える手で110番を押した。耳に当ててコールを聞きながらまた彼女は奇妙な体勢で死んでいる調理師へと視線を戻した。

「はい。どうしました?」

「えーと……」彼女は奇妙な姿勢の死体を見ながら言葉を失った。

 なんと説明したのか覚えていないと言っていた。それでも警察の対応がすごく丁寧でプロだったとは言っていた。緊急性もなく、事件性もないと分かると、電話の向こうの相手が“白けた”のが分かって嫌だったと。

 自分もそこには同情した。しかし彼女が見たもの、感じたものが何だったのかは、緊急通報の相手と同じように、自分も分からなかった。分かるような気もしたけど無理だった。

「無意味だ無意味だ」とぶつぶつ言う彼女を見ることしかできなかった。

 たぶんだけど、彼女は命のあっけなさに気づいたんだと思う。調理室の床を掃除しているときにうっかり足を滑らせ、頭を机の角にぶつけ、朦朧としてふらつき、蓋を開けて掃除していたゴミ溜めの窪《くぼ》みに頭を突っ込んで人は死ぬ。

 彼女は保育園であった面白エピソードを自分に話していた。そこから急に真顔になり、「人はいつ死ぬか分からないんだよ」と言った。

 自分はまったく無防備だった。「うん。知ってるよ」

「いや。あなたは知らない。人がいつ死ぬかなんて分からないんだよ」

 彼女に責められて自分は口を閉じた。僕だけじゃない。これを読んでるあなただって、そんなことは知っているはずだ。

 あるいは、彼女も含めて誰も知らないのかもしれない。


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