死んだ妻の魂を偽造した老人のもとへ、教会の執行官が検めに来た
妻が死んで、四年になる。
それでも今夜も、卓の向かいには妻がいる。豆と塩肉の煮込みを匙で掬い、ふうふうと冷ましている。熱くもなかろうに、癖だけが残っている。
「あなた、お仕事は」
「今日で、仕舞いにした」
「あら。じゃあ明日から、ずっと家にいるのね」
嬉しそうに笑う。
その笑い方は、もう妻のものではない。
最初の年は、目尻の皺の寄り方まで妻だった。
二年目に、笑い声が変わった。わしの知らん、よその女の声で笑うようになった。
三年目に、時々、わしの名を忘れた。
四年目のいまは――皿を、三枚並べる夜がある。三枚目が誰の分か、妻は答えられん。わしも、訊かん。
贋作は、剥がれる。
わしは器職人だ。五十年、人の身体の代わりを削って生きてきた。誰に教わるまでもなく、知っていた。
◇
この街では、金のある者は身体を乗り換える。
歳を取れば若い器へ。戦に出るなら鋼の器へ。灯を移すのは教会の役目で、わしら職人は器を削るだけ。灯には、触れてはならん。それが掟だ。
妻が死んだ冬、わしは掟を破った。
死んだ者の声は、霊網に、しばらく残る。井戸の底に呼び声が谺るように、三月ばかり、消えずに漂う。わしは五十年分の伝手で禁具を借り、三晩、網に糸を垂れた。
三晩目に、掛かった。
『――ごはん、冷めますよ』
妻の残響は、それだけだった。台所からの、なんでもない小言がひとつ。
わしはそれを芯にして、五十年の腕の全部で、妻を編んだ。足りんところは、わしの記憶で継いだ。妻の器は、わしの生涯でいちばんの仕事になった。
いちばんの仕事が、罪だった。
◇
戸を叩く音は、しなかった。
ただ、影が差した。
「……あなた、お客様よ」
妻が戸口を見て、微笑んだ。
黒衣の女が、立っていた。異国の仕立て。深い井戸のような目。
「夜分に、御免」
女は胸に手を当て、腰を折った。東の礼だ。わしの故郷の、もう誰もやらん礼だった。
「……教会の、方か」
「灯の検死官です。今夜は――死んでいる方の検分に、参りました」
女の袖で、ちりん、と音がした。
覗いたのは、真鍮の小鳥だった。羽のあちこちが黒ずみ、片目の硝子が曇っている。ずいぶん古い型の、人工精霊だ。
『とうろく、しょうごう』小鳥は事務的に囀った。『贋作いっけん。無認可の器いっけん。残響の窃取いっけん。……つぎはぎ、たすう』
「多数、は余計です」
女が窘めると、小鳥は不服そうに羽を鳴らした。
「……古い子だな、それは」
「三代前の型です。よく働く」
「片目の曇り、直るぞ。硝子を替えれば」
「本人が、嫌がるので」
『みえすぎる目は、げひん』
小鳥が言い、女がわずかに肩をすくめた。妙な主従だった。
妻が、女に茶を出した。
客が来れば茶を出す。それだけは四年、一度も剥がれなかった。女は湯呑みを両手で受け、少しのあいだ、黙ってそれを見ていた。
「網の検めであなたの継ぎが掛かったのは、この春です。四年、局の網をくぐった。……正直に申し上げて、見たことのない精度だ」
「褒めてくれるな」
声が、掠れた。
「頼むから。もう少しだけ――と、言いたいところだが」
わしは、妻を見た。妻はわしと女を等分に見て、にこにこしている。話の中身は、もうほとんど届いていない。
「――剥がれてゆくあれを、これ以上見ておるほうが、つらい」
女は湯呑みを置いた。
「検分を」
女の指が、妻の胸の前で、糸を手繰るように動いた。妻はくすぐったそうに笑った。
「一年目。笑い方を、継いでいますね。二年目、声。三年目、名前」
指が、止まった。
「四年目は――ほとんど、あなただ」
「……ああ」
「ひとつだけ、申し上げます。これは、もう奥方ではありません。残響を芯に、あなたの記憶で編んだもの。四年、穴を埋め続けたのは、あなた自身の祈りです。私が検めるのは、奥方ではない。あなたの祈りだ」
「……ああ」
「それでも、と問います」
「ああ。……頼む」
女が、立った。
「――偽りの灯は夜に灯り、まことの灯は胸に灯る」
妻が、不思議そうに女を見上げた。
「魂の贋作、天が赦しても――私が、赦さない。
聖務第九局、執行官。
その灯、検めさせていただきます」
黒衣の袖が、鳴った。
女の首筋から頬へ、朱の紋様が這い上がる。
竈の火が、すっと低くなった。
女の背後で――夜が、立ち上がった。
一太刀は、見えなかった。
ただ、妻だったものが、ほどけた。
数百の糸が、灯りに透けて、ゆっくりと宙へ還ってゆく。糸の一本一本に、景色が宿っていた。祝言の白。焦がした鍋の煙。工房の屋根を打つ、長い雨。どれがまことの記憶で、どれがわしの継ぎか、もう分からん。分からんまま、みんな綺麗だった。
最後に残ったのは、いちばん古い糸だった。
『――ごはん、冷めますよ』
四年前、最後に聞いた声の、ままだった。
それきり、卓の向かいは、ただの椅子になった。
「……わしは、罰されるかね」
「器と贋作は教会預かり。沙汰は司教区が。……ですが、五十年の職人の手を、教会は遊ばせておきません。おそらく、局の工房で器を削ることになります」
「罪人の手で、か」
「罪人の手が、いちばん覚えている」
女は立ち上がり、それから、少しだけ間を置いた。
「――覚えていることは、罪ではありません。誰にも、検められない」
わしは、空いた椅子を見た。冷めてゆく皿を見た。
それから生まれて初めて、教会というものに、感謝した。
◇
路地の外れで、黒衣は袖の中の糸を検めた。
ほどいた贋作の、数百の糸。そのほとんどは老人の記憶で――一本だけ、違うものが混ざっていた。
とても古い言葉で、祈りのかたちに、撚ってある。
『それ、せんげつの、はりしのと、おなじ』
小鳥が、囀った。
「ええ」
『だれの?』
「……誰のでもない」
女はそれを、月に透かした。零れる音は、歌に似ていた。
「それが、問題です」
今夜も、霊網は静かに脈打っている。
【了】
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