第2話 コールド・コール
沈黙の中、ベッドに押し倒されたターゲットが、苦しそうに口を開く。零の身体が、彼の胸の上に乗ったままだったからだ。
「あ、あの...一旦どいてくれません?」
「あ、ああ。すまない」
零は、我に返ったように答えた。
彼女はパチパチパチパチ氏の胸の上から身を引き、フードを外す。そしてベッドの脇に立ち尽くす。手に握ったナイフをさっと懐にしまい込み、腕を組んで思考を巡らせた。
(ど、どうしよう……ターゲットが私の『推し』……? で、でも、ターゲット……)
零の中で2つの人格が、激しく衝突を始める。暗殺という行為は、彼女にとって呼吸と同じ。その道のプロとして。この数年で何百件ものミッションを遂行してきた。上からの命令は絶対であり、ターゲットは問答無用で始末しなければならない、絶対的な模範だった。
『今までは』。
しかし、もう一人の自分、『VTuber 七色レイ』としての顔が、
その絶対的な模範を内側から崩壊させようとする。
(殺し屋として、上の命令は絶対。だが……配信者として、リスナーは宝、存在の根幹……)
初めてだった。暗殺の現場で、零の思考が、考えが、定まらない。ナイフを握る暗殺者の手と、マイクを握る配信者の手が、零の脳内で否定しあい、冷たい汗が彼女の額を流れる。
すると、パチパチパチパチ氏が零に話しかける。
「レ、レイ姉?一旦話を聞いてもいい?さっきのアレはどういうこと...?」
『アレ』とは、数秒前の殺害未遂、そして自分を押し倒した暗殺者の行動に他ならない。知らない女が家に侵入し、ナイフで襲いかかり、しかもそれが崇拝する推しだった――困惑しないわけがなかった。
零は、固く組んでいた腕を解いた。
「...」
零は返信に詰まる。殺し屋として「お前の命を奪うべきだ」と答えれば、VTuber『七色レイ』としての自分は死ぬだろう。だが、真実を隠す術もない。
一瞬の迷いの後、零の口から出たのは、ゴーストの声とレイ姉の優しい声の、狭間。そんな声だった。真剣な黄緑の瞳を、パチパチパチパチ氏に向けてこう言う。
「パチパチパチパチ氏。私は殺し屋だ...そして、今回のターゲットはパチパチパチパチ氏だ」
一度、パチパチパチパチ氏の表情を伺うと、零は続ける。
「だが、同時に私はパチパチパチパチ氏『推し』でもある。でも、命令は絶対...でも、リスナーは宝だ。『殺し屋』として...『推し』として...どうすればいいか迷っている」
正直に打ち明けた零は、ベッドの上で呆然とするパチパチパチパチ氏に視線を向けるた。彼は、零の告白をどう受け止めるのか...絶望、怒り、それとも恐怖か。しかし、パチパチパチパチ氏の反応は、零が思っていたものと違った。
パチパチパチパチ氏は、ベッドからゆっくりと立ち上がる。そして一切の抵抗を放棄するように、両手を大きく広げた。まるで、すべてを受け入れるようなポーズだった。
「いいよ、殺してよ。レイ姉」
「え?」
零が困惑の声を漏らす。続けてパチパチパチパチ氏が口を開く。
「それで、レイ姉が助かるならレイリス本望だよ。俺、レイ姉に会えなかったらとっくに死んでただろうし」
一瞬、パチパチパチパチ氏が何かを思い出したような表情になると、笑顔で零を見つめこう言った。
少し、沈黙の時間は流れると、零はパチパチパチパチ氏に笑顔でこう言った。
「ありがとう、パチパチパチパチ氏。もう安心しろ」
「?」
パチパチパチパチ氏の頭に『?』が浮かぶ。そして、何かを決心した零は、なんとスマホを取り出した
「すまない、少し待っていてくれ」
零はそういうと、パチパチパチパチ氏に背を向け、電話をかける。その相手は『ギルド』のボス。『篠崎厳』。
「もしもし、マスター」
「ゴーストか。お前からかけてくるとは珍しい...『例の物』は回収できたか?」
篠崎の問に、零はこう答える。
「ターゲットは始末しない。この任務を放棄し...組織を抜ける」
一瞬の沈黙。その沈黙は、零が踏み越えた組織の絶対的な一線の重さを物語っていた。
「...ゴースト。お前、何を言っている。自分の立場がわかっているのか?」
上の命令は絶対。ミッションを与えられたら、まるで機械のように従い、それを成功させる。それが暗殺界の絶対的模範...
続けて篠崎が口を開く。
「何故そうなった。説明をしろ!」
電話越しに『ドンッ!』となにかを叩きつけたような音がなり、怒声が響き渡る。組織の絶対的な規律が破られたことへの怒りだった。
次の瞬間、零は篠崎に笑顔でこう言った。
「システムが予測できなかった、エラーだよ」
その声は、冷徹な「ゴースト」のものではなかった。透き通った、明るい、VTuber『七色レイ』の声。何百件もの任務で無感情を貫いてきた『機械』のような自分が、リスナーに出会ったことで起きた、予測不能な『エラー』。
篠崎には、その言葉の意味も、その声の変調も、全く理解できなかった。
「次に追われるのはお前自身だぞ。わかっているな?」
通話の向こうで、篠崎は静かに、しかし深い怒りを込めて言った。
「お前が新しいターゲットだ。二度と私の前に姿を見せるな」
プツッ。
通話が切断された。すると、零が腕を組み、内心で焦りだす。
(まずいまずい、ああは言ったが組織に追われる...戦力がすべて私に向くぞ)
零が裏切った暗殺組織『ギルド』。ほの戦闘力は日本で最大規模を誇る。その組織力は、国の情報機関にも引けを取らない。何人もの手慣れ、ゴーストと並ぶ、あるいは上回る危険な暗殺者が、今この瞬間から、彼女一人を追うことになる。
その張り詰めた空気の中、パチパチパチパチ氏はベッドから立ち上がり、零の困惑した背中へ恐る恐る声をかけた。
「え、えっと、これはどういう状況?組織を抜けるって...」
そう言った瞬間、零がパチパチパチパチの方を見てこう言う。
「パチパチパチパチ氏、PC室かどこかに、親か、誰かにもらった『USB』は無いか?」
「USB?あぁ、かなり昔に親に渡されたのがあるんだ。」
パチパチパチパチ氏は、零がなぜUSBを問うのか理解できぬまま、素直に頷いた。彼は、部屋の一角、モニターが置かれたデスクへと零を案内する。パチパチパチパチ氏が引き出しの取っ手に手をかけ、それを開けた、その一瞬だった。
「はわぁ...これは!期間限定かつコンビニ限定の七色レイのクリアファイル!しかも全種類も集めてくれたのか」
それは、配信で最高のサプライズを受けたときに漏らす、無邪気な喜びを伝える『七色レイ』そのものの声だった。
「そうそうめっちゃ大変だった!調べまくってめっちゃ頑張ったんだよ!もう、最終的には誰も行かないようなド田舎のコンビニまで行ったから!!」
パチパチパチパチ氏が自信げに言う。それもそのはず。その引き出しには、過去に発売された七色レイの期間限定クリアファイル全7種が、丁寧に収められていた。そのコンプリートの偉業は、当時の零自身でさえ成し遂げられなかったものだ。
零は、我を忘れ、手がクリアファイルの束へ伸びかける。あまりの嬉しさに目を輝かせるが、その手が触れる寸前、脳裏に浮かび上がる。裏切りの代償、迫りくる追手の影。
「ご、ごほん」
零は場面を仕切るかのように乾いた咳払いをし、無理やり冷静さを取り戻した。
「それで、USBは?」
「あぁ、はい」
そういうと、パチパチパチパチ氏はデスクの奥から、厳重に保管されたケースに入ったUSBを取り出した。
「ここに来る前、両親に渡されたんだ。『何があっても手放すな』って言われて...なんでUSBを?」
パチパチパチパチ氏は、USBを回収を目的としていたことに、純粋な疑問を投げかけた。
零がこう返す。
「今回の私の任務は、パチパチパチパチ氏の暗殺。そしてそのUSBの回収だ」
「このUSBを...ちなみに内容はどんなものなのか分かる?」
その問いに、零は少し困ったようにこう答えた。
「それが分からない...マスターも、詳しくしは教えてくれなかった。知る必要もなかったし。でも、組織が動くほどだ。よほど大事なものなのだろう」
そう聞くと、パチパチパチパチ氏はPC前のデスクに座ってこう言った。
「殺し屋?の組織が追うデータか〜。通りで中身が簡単に開けない訳だ」
それを聞いた零は驚いた。このUSBは「ギルド」が最高機密として扱うもの。並のハッカーはおろか、一流の専門家でも解読には時間を要するはずだ。パチパチパチパチ氏に問いかける。
「?中身を解読しようとしたのか?」
「まぁ、気になってね。興味本位でやってみたけど...中々開けなくて諦めてたんだ」
すると、パチパチパチパチ氏はUSBをPCに差し込み、そのデータを起動させる。その瞬間だった。
パチパチパチパチ!
パチパチパチパチ氏が目にも止まらぬ早さでキーボードを打ちながら、画面をものすごい表情でPCを操作している。
パチパチパチパチ氏は、一文字も間違えることなく、防御トラップの解消コードを叩き込んでいく。
しばらくすると、パチパチパチパチ氏の手が止まる。PCの画面は赤く光り、画面中央には英語で分がずっしりと並んでいる。
ここでパチパチパチパチ氏が口を開く。
「ここからが全くわからないんだ。今の自分の知識じゃ解けない...だから、大学とかは...」
「ちょっとまて」
零はパチパチパチパチ氏の言葉を遮るようにこう言う。
「その解読技術...どこで手に入れた?明らかに一般人の手つきじゃなかった」
零の顔には驚きが表れている。なぜなら、パチパチパチパチ氏のその技術は、今までに零が組織で見た技術の同等...いや、それ以上だったからだ。
「気になる?んー...話すと長くなるけど、聞く?」
零は静かに頷いた。当たり前だ。組織の防御網を解読手前までといたその技術について知りたくないわけがない。
パチパチパチパチ氏は、PCデスクの椅子に深く座り直すと、ゆっくりと口を開いた。
「俺の両親は、実は...」
またパチパチパチパチ氏が言いかけたその瞬間だった。
ドォォン!!
一瞬、家が揺れるほどの巨大な轟音が辺りを埋め尽くした。天井の照明が大きく揺れ、置かれたグッズが崩れ落ちる。
零の瞳が、殺意を一瞬で捉える。
(追手だ...!)
彼女の脳裏に、マスターの篠崎が言った言葉がフラッシュバックする。
「お前が新しいターゲットだ」。ギルドは、裏切り者への対処と機密情報の回収のため、即座に実力行使に出たのだ。
「...なんだ、今の音?」
パチパチパチパチ氏は突然の出来事に椅子から立ち上がり、訳もわからない様子で辺りを見渡す。
そこからの零の動きはまさに『殺し屋ゴースト』そのものだった。迷いは一切ない。
(おそらく玄関か...ならば逃走ルートは...)
すると、零はパチパチパチパチ氏に指示を飛ばす。
「パチパチパチパチ氏!そのUSBを持って、私についてこい!」
「ええ!う、うんわかった」
パチパチパチパチ氏は反射的に、PCからUSBを抜き取ると、それをポケットに押し込んだ。
そして零がパチパチパチパチ氏の腕をガシっと掴む。
「走るぞ!」
零は躊躇なくパチパチパチパチ氏の腕を引っ張り、『ゴースト』の速度で部屋を飛び出した。リビングに出たその時。
パァン!パァン!
二つの銃声が零達の背後...玄関から鳴り響く。銃声。しかも、零が熟知するギルド御用達の拳銃の音だ。
その瞬間、零は殺し屋の勘で銃弾の方向を予測した。彼女は、一瞬で姿勢を低く、そしてパチパチパチパチ氏をソファの影に引き寄せ、その銃弾を完璧に避けてみせた。背後の壁に弾丸の痕が刻まれる。
「チッ、なんだ死んでねぇのかよ」
「ふん、あの『ゴースト』だ。当然である」
聞こえてくるのは無機質な男性の声。奥から上質なスーツに見を包んだ男たちが、ゆっくりと廊下に入ってきた。彼らは間違えない。ギルドの殺し屋だ。
「ゴースト。裏切りの代償は、貴様の命だ。出世の足がかりになってもらうぜ」
追手の一人が、嘲りの笑みを浮かべながら、零に銃口を向ける。
その瞬間、零から感情が消え、フードを被る。そして相手を睨みつけながら、パチパチパチパチ氏にこう指示を飛ばす。
「パチパチパチパチ氏。私が指示を出すまで絶対ソファから頭を出すな。死ぬ」
『死ぬ』。その一言は警告ではなく事実だった。殺し屋から逃れるには身を隠す。今、パチパチパチパチ氏に残された唯一の生存手段なのだ。
零は、葵が隠れたことを確認すると、迷いなく追手との距離を測り始めた。彼女の手は、服の裏に隠された武器へと、無意識に伸びていた。
次の瞬間。
「隙ありだぁゴースト!」
苛立ちを滲ませた追手の一人が、体制を立て直す間を与えまいと、再び中の標準を零に向ける。彼が引き金に指をかけたことを、零は空気の微かな振動だけで察知した。
パァン!
再び銃声が鳴り響くと、鈍い音が響く。
追手は、勝利を確信したはずだった。だが、彼の銃を構えた右手は、突然襲った激しい灼熱感と共に、赤に染まっていた。銃は、カランと音を立てて床に落ちる。
「...ぐっ!」
「銃を構えるのが、遅すぎる」
零は、追手が照準を合わせるコンマ数秒の間に、すでに自身の銃を引き抜き、相手の利き手を正確に撃ち抜いていたのだ、
そして、零は追手が銃を落として動きが止まった一瞬の隙を見逃さない。
シュッという空気の裂ける音と共に、彼女は既に撃ち抜かれた追手の目の前に急接近していた。痛みと驚愕で動きを封じられた追手は、抵抗する術を一切持たない。
零は、ナイフを構えたまま流れるように次の標的へ向かいながら、冷徹なカウントを口にした。
「...一人」
「ぐわぁぁっ!」
その声と同時、ナイフは彼の胸元に深い斬撃を音した。容赦のない一撃。赤い血しぶきが廊下を舞い、男はその場に倒れ込んだ。
(な、いつの間にナイフを抜いた...『ゴースト』...これまでとは!)
残るもう一人の男の顔には、冷たい汗が伝い落ちる。彼は、目の前で仲間が瞬時に狩られる様を目撃した。目の前の死。それに恐怖した男は叫ぶ。
「うおおおおおっ!」
男は、恐怖を振り払うかのように大声を上げ、ナイフを片手に零に向かって突進した。
しかし、男の攻撃が零に届くことはなかった。
「...二人」
零は感情のない声で冷たくこう囁く。
「...!?」
男が驚愕の声をあげようとした瞬間。零のナイフの切先は、すでに男の心臓を捉え、深く刺さっていた。
ゆっくりナイフを抜くと、彼はその場で崩れ落ちる。
二人を始末した零は、またパチパチパチパチ氏の方へ足を急ぐ。
(恐らく追ってはまだ来る...手遅れにならないうちに撤退を)
ギルドの追撃は、これで終わるはずがない。彼女の経験がそう警笛を鳴らす。ソファの陰に身を潜めるパチパチパチパチ氏の元へと足を急ぐ。
「パチパチパチパチ氏!怪我はないか?」
「う、うん。大丈夫...でもこれは一体...」
葵は、目撃した光景の凄惨さと、突然の爆発音や銃声のショックから立ち直れていないようだった。彼の顔は青ざめ、混乱をしている。
「すまない、でも今はここから離れる。ついてこい」
そう言うと、零はリビングの奥...庭に面した窓へと視線を向ける。
(入口の方向は増援の危険が高い...そして窓はここしかない。最速で脱出する)
こう判断した零は、パチパチパチパチ氏の腕を力強く掴み、窓の方向へ一直線に走った。
バリィン!!
零は、パチパチパチパチ共を胸元にひこ寄せながら、躊躇なく分厚いガラスを破り、二人は、砕けた窓枠を潜り抜け、庭の縁側に乱暴に足を踏み入れた。その時だった。
零の真横から、どこか懐かしい、そして恐ろしいほど優しい女性の声が囁かれた。
「どこ行くんすか。先輩」
零の全身が、電撃に打たれたように硬直した。この声を知っている。この呼び方を知っている。ギルド時代の後輩...
「スクリプト...!」
零の真横に立っていたのは、和服を着こなした、腰まで伸びた長い白髪の若い女性...その瞬間、スクリプトが一呼吸で腰につけた日本刀を鞘から抜き、稲妻のような速度で振り上げる。
(まずい...この距離避けられ...)
零は瞬時にバックステップで後ろに下がる。しかし、スクリプトの斬撃は、零の予想を遥かに上回る。
「じゃぁ、死んでください先輩」
スクリプトは、親しみを込めた笑顔を崩さぬまま、零に向かって冷酷な刃を振り下ろす。
「ッ!」
零が回避したと思った刹那、スクリプトの一直線な斬撃が、零の左腕を深くはなかったが、確実にかすめた。痛みと共に、零の黒い服の生地が裂け、血が滲み出す。スクリプトは、零の動きを完全に読んでいた。
零は、腕を押さえながらも、即座に態勢を立て直す。この後輩は、先程の追手とは次元の違う脅威だった。
「レイ姉...大丈夫?」
「あぁ、問題無い。すぐ終わらせる、もう一度中に隠れろ」
問題無いと言うが、零の表情は険しかった。パチパチパチパチ氏は再び、家の中に身を潜める。それを見たスクリプトが零にこう言う。
「あの男、先輩のターゲットっすよね?なんで庇うんすか?」
「関係ない、道を開けろ」
零はスクリプトの質問に答えず、鋭く睨みを利かす。
スクリプトは、零の答えに対し、一度深い溜息をついた。そして、零に呼応するように、氷のような視線を真正面から零に向ける。
「まぁいいっすよ。先輩も、あのターゲットも...私が始末しますから」
スクリプトが再び日本刀の先を零の喉元に向けてこういった。
「痛い目を見るぞ...スクリプト」
零は冷たくこう言うとまた、ナイフを懐から取り出した。




