ツバメの渡る銀世界
5月の風に吹かれて、くゎとあくびが漏れた。
こんなにも陽をはらんだあたたかな日なのに、どうして私は屋内にいるのかしら?
お母様の鋭い視線を感じる。レース針を持ち直し、編み続けた。お母様も黙々とミリアマネ姉様のヴェールを編み続けている。ピンク掛かった金糸をふんだんに使い、薔薇を繊細に描いた贅沢なレースのヴェール。
お母様はゆったりと肘掛け椅子に掛けている。私はスツールを窓のそばに動かしていた。
話す相手がいないと嫌だ、となぜか私までレース編みをさせられている。ドーリーマ姉様はマリエッタさんとお茶会――本当はその兄君との逢引らしい――。ミリアマネ姉様はドレスの最終確認。というわけで私はとりあえずドイリーを編んでいる。でも言っていい? お母様と一緒にいても沈黙しか訪れないんだよ。
手元から目を逸らして窓の外を眺めた。庭園ではさわさわとカーネーションが揺れている。明日は孤児院の台所改装の話し合いの予定がある。早く、明日になりますように。
「ジョセフィン」とお母様の甘くて柔らかい声が少し尖った。「編み目が歪んでいてよ」
「あ」
軽く針を抜いて、解した。半分くらい編み直しだぁ……。
お母様が突然立ち上がり、私の手元を覗き込んだ。
「もう少し華やかな紋様にしては? あなたはまだ15歳なのに葉だけなんて」
「葉の模様も素敵でしょう?」
お母様がため息を吐いた。そんなあからさまに呆れられてもなぁ……。
お母様の視線を受け流し、編み続けた。そうだ、蔦も足してみようかな。蔦を足すなら小さな蕾も欲しい。
「あの、お母様」
「なぁに?」
う、期待の眼差しで見ないで。
ノックが響いた。マルタだった。
「お嬢様、手紙が届きました」
「ありがとう」と手紙を受け取った。
差し出し人を確認した。うぅん、ゴーディラックから来たことしか分かんない。お母様が怪訝な目を向けている。
「少し、確認してもいいかしら」
「ええと」と私は首を傾げた。もし例の王弟からだったら、求婚の件がバレるかも。
どうすればいいのか分からず唇だけが無を紡ぐ。どうしよう。
お母様は優雅に屈んで、手紙に指先だけで触れた。
「ジョセフィン。差し出し人の分からない手紙なのでしょう。もし害意があればどうするの?」
「私に害意を向ける人がゴーディラックにいるわけがないでしょう?」
「いいえ」とお母様はふるふると首を振った。「ゴーディラックの殿下の婚約者候補の1人だもの。可能性はあります」と手紙を取ってしまわれた。
「それなら普通、ドーリーマ姉様か、シャルロット王女辺りに……」と私は唇を突き出した。
冷や汗が流れそう。王弟からだったら……。
手紙に目を通すお母様の顔が少しずつ青くなっていく。読み終える頃には爪を噛んでいた。マニキュアが塗られた爪を噛んでもいいの? お母様はゆっくりと椅子に掛けた。スツールから立ち上がり、私はお母様の足元に座った。
「どなたからだったの? お母様の予想通り脅迫状?」
「ゴーディラックの国王からよ」と小さく震える声だった。「あなたは……」
手紙を膝に置くとお母様は私の手を取った。
「あの王弟が、あなたを愛しているの?」
「なんでゴーディラックの国王がそんなことをご存知なの!?」
「知略に長けた王と噂よ、あの方は。王弟は何も言わなかったそうだけど、唯一の兄弟だからかしらね?」
お母様が冷えた手で手紙を差し出してくれた。左手でお母様の両手を握りながら、手紙に目を通した。あったまれ〜。
青い瞳のマリアと名高いジョセフィン・デボラ・アメデア・ド・ヴィア嬢。
五月の暖かな風が貴国を優しく撫でる季節、いかがお過ごしでしょうか。
突然の手紙で驚かせてしまったなら、どうか許してほしい。これは王としての公務ではなく、ケネスの同母兄としての勝手な好奇心から綴るものです。
私の唯一の同母弟が、近頃どうにも様子がおかしい。 政務の合間にふと遠く(はい、南の方ですよ)を眺めたり、これまで見せたこともないような絡ませるような、あるいはひどく愛おしげ顔をすることが増えました。彼に白状させようと試みましたが、彼は首を横に振るばかり。どうしたことか。
時には沈黙こそが雄弁に物語ることもあります。 彼の行動、金の使い先を拾い集めたところ、ツバメ令嬢というあだ名のある1人の公爵の娘にたどり着きました。あなたが、私のただ1人の弟の心を揺り動かしたのですね。
貴女は心優しく孤児院の改装を案じるような慈悲深い心を持つ方だと聞き及んでいます。弟をそこまで変えてしまった貴女は、一体どのような瞳で世界を見ているのか。私は、私の愛する弟を狂わせた「犯人」を、友人として、あるいは1人の兄として。もっと詳しく知りたいと願わずにはいられません。
あなたは冷静なシャルロッテなのでしょうか? それとも弟にとってのただ1人のソフィなのでしょうか?
アクトリウス・ヴェアター・アンドレアン・オブ・ゴーディラック。
お母様の手をきゅっと握った。
そう言えば、前、王弟が言ってたな。ゴーディラックの国王は金の動きを見ることで政敵を退けた、と。
「お母様。この件ってお父様に告げ口なさるの?」
「どうしようか考えている最中よ」とお母様は手を握り返した。「あなたは婚約者候補の1人。だから、王弟から結婚申し込みがあっても不自然ではない。それでもあなたのお父様に申し込みはなかったじゃないの」
ホッと胸を撫で下ろした。
「そう言えばお母様。ソフィって誰?」
「エミールに登場する理想の恋人のことでしょうよ」
私は立ち上がり、窓から身を乗り出した。空を舞う花びらを睨み、窓を閉じた。
7月らしい水色のドレスに袖を通した。今日はあの王弟も来る舞踏会だった。噂によると多忙の、イーリアス様はいらっしゃらない。すごくすごく行きたくない。
紺色のサッシュを締めて、胸に白い薔薇を留めた。
馬車に乗り、王宮に入った。挨拶を終わらせると、私は東屋へ逃げた。
夕闇の中、ぼんやりと月が浮かんでいる。ヒールのついた靴はベンチの下に隠した。少しずつ涼しくなっていく夜風に当たり、自由を感じていた。
半年後にはローズマリーもデビュタントだ。今は私が受けている求婚劇を笑っているローズマリーも、来年にはその渦中へと放り込まれるのかしら。いや、さすがに侯爵家のローズマリーは巻き込まれないか。
青い月を眺めながら、足を揺らした。夏の夜風は少しいい香りもして、涼しい。
イーリアス様、どうなさっているのかな? 1年の半分以上の日々を要塞で送る辺境伯。手紙の文面を見る限り、充実してそうだけど……。
「お元気かなぁ?」
「誰が?」
王弟が東屋への階段を上っていた。ハァと私はこっそり、ベンチの下にやってた靴を回収した。
「あなたには関係ありませんわ、ブラコン殿下」
「最近、妙な手紙が来たりしなかった?」と王弟はベンチに掛けた。
「妙な手紙なら2ヶ月前に、あなたの兄君からいただきましたわ」と少し座る位置を変えて距離を取った。
王弟は嫌そうに舌を打った。
「余計なことをするな、と言ったのに」と歯ぎしりした。「ご家族から追求されなかった?」
「ええ。幸いなことにその日は父と兄は不在でしたから」
王弟は如何にも安心したように胸を撫で下ろした。この人が口説き落としたいのは本当に私だけなのだろう。眉根に皺が寄る。
「あなたは、私のどこか好きなの?」と少し睨んだ。
王弟は眉を動かし「本気で知りたいの?」と首を傾げた。「それを聞けば、僕は本気で君を堕とすから。これは、僕の弱みとも呼べるものだ」
怯んでしまう。彼は、外国人だからか、不毛な大地に生きるロシア人の血も引くからか、凄まじい気迫を放っていた。
目を開き、背筋を正した。青い月光を顔に受ける王弟をまっすぐ見た。
「話せばいい。父を通して求婚する意思があなたにはない時点で、私はいくらだって逃げ切れるわ」
「さすがはツバメと呼ばれるだけある」と王弟は面白そうに少し怯むように笑った。
つかの間、睨み合ったまま沈黙があった。
「君は野生のひまわりのようだ」
「ひまわり?」
「誰も知らぬ間に太陽の恵みだけを受けて育った野生のひまわりだ」
そんなのあるの? 王弟はにじり寄ってきた。
「僕が焦がれて止まないひまわりだ。見る者が皆、笑顔になる花だ」
「ひまわりがお好きなの?」
「昔、僕が住んでいた宮に植わっていたからね。植えた母も、世話をしていた人もなくなってからは咲かなかったけど」
「ブラコン殿下じゃなくて、マザコン殿下?」
「不名誉なあだ名ばかりつけるな。求愛者か間者でいいと言ったろ?」
「間者の方が不名誉だと思いますわ」
密偵は知られたら死刑になりうる罪だから。
王弟は白い綺麗な手を私の手と重ねた。
「兄の影を通して僕を見ないで。僕がゴーディラック人でなかったら、君は僕をどう呼んだの?」
「つけ狙い」
王弟はうん、と少し身を離した。
「その方がブラコン殿下だのマザコン殿下だのよりは圧倒的にいい」
「兄君もお可哀想に」
「真のブラコンは兄だから。僕じゃない。王族を出たい、と主張しても許してくれなかったほどにはおかしい」
「手紙で何度も唯一の同母弟、唯一の同母兄って繰り返すくらいには執着してるようですよね」
仮にこの王弟と結婚したとしても、絶対に親戚付き合いしたくない。怖い。異母兄弟は処刑・王族の系列から外しても、同母弟だけは慣例に逆らって王族に残してるのも怖い。
「兄上には子どももいるんだから、いい加減にしてほしいよ」と王弟は頭を掻いた。「君のところはどうなの?」
「兄たちからは適度に放って置かれています。ええ、殿下の話を聞いているうちに我が身の幸運を知りました」
「しかも姉君とは仲が良い。妹君とは?」
「可愛いですよ。特に下の――」
その時、私は知らなかった。東屋にいたところを他の恋人たちに見られていたなんて。
「ジョセフィン」と父は背筋が凍るほどの低い声で詰め寄った。
今にも、お父様の書斎から逃げ出したい。ぎゅっと椅子の縁を握った。
お父様はハァと低い息を吐いた。
「お前はなにを考えているのだ?」
「何も考えていなかった結果でした」
すごく、すごく目をそらしたい。
「ではその金髪のちっぽけな頭で考えろ。15歳の社交界に出て半年の娘が、他国の王弟と東屋で密会していたことが噂になっている。その結果どうなる?」
「終わりですね」
最悪、この国からゴーディラックへと嫁がなくてはいけなくなる。神を信じず、堂々と後宮がある国へと。
「お前の姉ミリアマネは、もう少し頭が良かった上に、噂になることなく嫁いだがな」
「こちらから申してもよろしいですか? お父様」
怖いし、震えそうだけど、真っ直ぐお父様を見据えた。
「私は姉様のように、噂にならないほど器用ではありません。ですが、私は侯爵未亡人であったお祖母様に愛されて育ち、今は公爵の娘です。そして他の令嬢たちを私の仕事に巻き込む程度の度胸は持っております。他国の王弟との噂が『終わり』なら、私はその終わりから、新しい取引を始めればよろしいのでしょう?」
「ほう?」
お父様は椅子に深く掛けた。少し圧が減った。
ここからはハッタリだ。
「先日、調べ物をしていた結果、不敬な結論が出ました」とお父様の目を見ながら、ぎゅっと拳を握った。「このティレアヌスは終わりが近いのでしょう? だからお父様はこの国を1年でも長く生かすための、政略結婚を実現するため躍起になっていらっしゃる」
「どこからその結論に達したのだ?」
「帳簿を見ていましたら……、えと。まずは交通費の多さが不自然に思えたことでした。王族がヴァロワール、イギリス、イタリアなどの第三国へ行くことが増えている。その割にはそれらの国との外交の話を聞かない」
2つ目は過去の戦争や工事など借金の精算が多いこと。将来的に軍力・税金の担い手となるはずの平民への投資が異様に少なくなったこと。
3つ目はゴーディラックの王弟が何度もこの国を訪れていること。それは外交とも言えるが、なぜ平民街にいたのか。
「ではジョセフィン。お前はどのような取引を始めるつもりなのだ?」
何も考えていなかった。私はそっと目を逸らした。
とりあえずシャルロット王女とイーリアス様に手紙を出した。アンドレアス兄様にも同席をお願いして、10月にお茶会を開いた。
「少し珍しい顔ぶれですね。アンドレアス様だけでなく、モンテルス辺境伯までいらっしゃるなんて」とシャルロット王女は微笑んだ。「主催者であるジョセフィン嬢に伺います。何かおありなのですか?」
「ええ。シャルロット王女には私と最も身近な王族の方として。イーリアス様は辺境伯の代表者として。アンドレアス兄様には付き添いとして」
「おい!」とアンドレアス兄様が声を荒げた。
「本当は王女を妻としているクラリモンド兄様にお願いしたかったのですが、忙しかったようで」
イーリアス様は笑いを噛み殺している。私はイーリアスの顔色を確認してから、本題に入った。
「モンテルス領は現在、この国の最後の砦となっていると私は考えております。ですから王族にもこの辺境を守るための力添えを願います」
「どのような?」とシャルロット王女は表情を引き締めた。
さすがは王女だ。きらびやかで袖の長い衣装を着てはいても、大事な話の時には凛々しさを醸し出す。
「モンテルス領への降嫁を。まずは生き残ったモンテルス領の民の士気を上げるために、王族が見捨てていないという証明を」
「約束通りあなたがモンテルス領へいらっしゃるのではダメなのですか?」とイーリアス様は目を細めた。「今のあなたは……公爵令嬢であられますから」
前にも増して顔色が悪い。イーリアス様はもう少ししたら要塞に入る季節だから、次会う頃には更に悪くなっているのだろう。
「あんなスキャンダルが広まった今、私はモンテルス領へは嫁げません。ご存知でしょう?」と私は肩を竦めた。「未婚の若い男女が夜に2人きりでいるところを見られたのですから」
「お前は、王女殿下と辺境伯に尻拭いをさせるつもりなのか?」とアンドレアス兄様が私の腕を握った。
そうかも。目を瞑り私なりに少し考えてから開いた。
「少し前まで王弟の婚約者として最有力候補と目されていたシャルロット王女と、お祖母様の代からモンテルス領とお付き合いがあった私との立場の交換のようなものです。王弟はなぜか私に興味を示していらっしゃる。だから……」
「求婚の条件として、モンテルス領への侵攻を禁ずるのか?」
「その通りです。アンドレアス兄様」
シャルロット王女はイーリアス様を見てから、悲しげに上品な微笑みを浮かべた。
「ジョセフィン嬢。あなたからは、この提案をされたくなかった」とシャルロット王女の声はごく微かに震えている。「神や人から愛されれば愛されるほど、その愛を家なき者や踏み躙られる者らにも向けたあなたからは……」
「シャルロット王女。私は、言われるたびに否定していることがありますの。私は、マリアなどではありません」
話に交ざる気をなくしたのか、アンドレアス兄様は私たちを監視するように見ながらもコーヒを飲んでいる。
イーリアス様は息を吸い少し顔に力を入れた。
「陛下からの認可が下りれば、本人からの了承を得られれば、シャルロット王女との縁談を受け入れます」
「私は構いません」とシャルロット王女はイーリアス様に微笑みかけた。「悪い噂はありませんし、誠実で真面目な若い貴公子と評判の方ですから」
「殿下は、王族としての矜持が強く、慈善事業にも積極的に取り組まれる優しく聡明な方であると伺っております」
甘くはないが、上手くいきそうな空気が流れている。この2人は案外、上手くいくかも。
お茶——本物の紅茶——を飲んだ。
ただ、とイーリアス様は私を見た。た。
「ただ、ヴィア嬢。この取引はあなたに何を齎すのですか? ティレアヌスというというちっぽけな国を救う」と諭す声音だ。「そのことを口実に、王弟とのスキャンダルを有効活用することに躍起になってはいませんか?」
「そうかもしれませんね」と私は紅茶を飲んだ。
シャルロット王女が目を伏せた。
「私は、あなたがラングレッド嬢であったころから存じ上げております」とイーリアス様の声が震え尖った。「ゴーディラックへの憎しみに囚われ、皆が愛するあなたの心に自ら傷をつけないでください」
「待て、モンテルス辺境伯」とアンドレアス兄様が止めた。「ジョセフィンが誰かを憎むことなどあり得るのか?」
「彼女が人の子である限り、あり得るでしょう」
憎しみ?
1つの単語を心の内で呟いた。その瞬刻、小さな赤いシミが心に巣食っているのを見た。瞬く間に滲み、たちまち赤いシミが広がって行く。
ハッ。
息を吐いた。
ハッ、ハッ。
目を見開いた。
胃が煮え繰り返りそうな熱さ、怒り。
従姉の夫を殺した。その子を人質として囚える国。夜中ドミッティラを泣かせた。口さがない夫人方。微かな苛立ちが漏れていた母。ゴーディラックの侵略を恐れ、嫁ぎ先を絞る令嬢。
そして何より、目の前にいる大切な人の父を殺した。まともな睡眠も取れない日々を送る人。
きぐ、と歯が軋む。
シャルロット王女が手を重ねた。目の前へと引き戻されてくれる細く白い手。
「ヴィア嬢」とイーリアス様は微笑んだ。「ご自身を取引の駒として使わず、あなたを愛するあの王弟を愛した上で結婚してください」
「王弟を愛して?」と私は首を傾げた。
「それが無理なら、愛する方の隣で生きる道をお選びください。あなたはまだ15歳ですから、適齢期までにあの噂が消える時間は充分にあるでしょう」
昔と変わらない穏やかで芯のある笑みだった。
こんなにも優しくて3年も待ってくれた人だった。もし、私がもっと早くにちゃんと考えていれば彼を裏切ることにはならなかった。東屋で休んでいたところに王弟が来たからと行っても避けただろう。いや、そもそも舞踏会が始まってすぐに東屋で靴を脱いだりなんかしなかった。仮にも、貴族なんだから。
「ご存知ですか?」とシャルロット王女。「ヴィア公爵家の娘は17歳までに結婚なさる方が多いのですが、一般的には20歳までに結婚できれば良いのですよ」
5年。婚約期間をおくとしても4年もある。
あの王弟と結婚するとしても、他の誰かと結婚するとしても時間は十分にある。
お茶会が終わり、イレーネに労いの言葉を掛けた。
アンドレアス兄様が背後に立っていた。
「ジョセフィン。先日、父上はお前の結婚に関して口は出さないと仰っていた」
「そうですね」と私は自室の前に立った。
「だがジョセフィン。少なくとも家名に泥を塗るような結婚だけはしないでほしい」
「私って信用されていないのですか?」
「そうではないんだが……」と言い淀むとアンドレアス兄様は身を屈め小声でとんでもないことを言った。
「そんな破廉恥ことするわけないでしょ! ありえない!」
12月に入り、赤や緑の組み合わせの衣装を着る女性が増えた。王宮主催の舞踏会でシャルロット王女がモンテルス領へ降嫁することが正式に発表された。
年が改まり、1898年。
新年を祝う舞踏会が開かれた。ゴーディラックの代表として王弟も来ている。こちらに気づき顔が綻ぶ王弟を、見た私は心を引き締めた。
周囲の貴族が、特に口さがない夫人方の視線が私と王弟の上に注がれる。視線を注がれることに慣れているのか王弟はアッサリとダンスを申し込んできた。だから私も堂々と受けてやった。
「ジョセフィン嬢」と王弟はリードしながら小声だ。「明日の昼、私が泊っている離宮へ来ていただけませんか?」
「いえ。お断りします」と私は見つめ返した。「あなたが1人泊っている離宮へ行けばまた噂になりそうなので。その代わりに我が家で来ていただけませんか?」
「あなたのためなら」と彼はくるりと私を回した。「何でもしましょう」
翌日。本当に王弟が我が家のサロンに来た。
「ジョセフィン嬢」と王弟は跪いた。「君を妻として迎えたい。美しいバラになれと言わない。僕を『つけ狙い』と蔑み、鋭いトゲを刺したままで良い。君が僕を愛さず、ただ憎しみや義務で僕を見るとしても、僕はその視線も独占することを望む。君が僕を選ばないなら、僕は兄を止める理由を失う。君が愛するモンテルス領も近いうちに、ね。僕を愛さなくていい。だが、僕の『弱み』を知った責任は取ってもらう」
「最悪の求婚ね」
こんなのには負けたくない。こんなゴーディラック男なんかには。
私は笑った。
「では、私がゴーディラックへ行く代わりに条件をつけてもいいかしら?」
「どうぞ」
「週に一度は教会へ行かせて。教会は1つくらいあるでしょう?」
「もちろん。週に一度も通う人などいませんがね」
「次に、ティレアヌスへの侵攻を禁じて。少なくとも70年間は」
「永遠に、とは言わないんだ」と王弟は見開いた。
「不信心者ばかりの国であっても……」
期限があれば守るでしょう?
その言葉だけ出なかった。
思わず目が泳いだ。顔を上げて、窓を見た。招いた側として最悪の行動だが、王弟から離れ窓の前に立った。窓を開け、窓枠に掛けた。木に霜ができている。私が生きていたのは決して雪の積もらない世界。びゅうと頬に、腕に冷たい風がぶつかる。唇が震えた。
「凍てつくゴーディラックにもツバメはいるのかしら?」
「は?」
「この国では春にツバメが訪れ、秋に別れを告げていくの。そしてまた春にやってくる。そんな世界で私は作られた」
軒下には今は空のツバメの巣がある。
「北の国ゴーディラックにツバメは訪れるの?」
王弟からの返事はなかった。振り返ると、王弟は無言で首を横に振っていた。
「そう」と私は窓の外に視線を戻した。「なら何かゴーディラックには素晴らしく心動かされるものはあるの? 親しく思われるものは?」
「美しい雪が積もります。ご存知ですか? 吹雪のあとに見る、晴れた銀世界の美しさを」
「知らないわ」
王弟は窓の近くに立ち、私の肩に上着を掛けた。
「ではその世界を見るために、我が国へと来てくださいませんか?」
私は首を傾げた。
もし、この人がゴーディラック人でなければ、ゴーディラックの王弟でなければ、私はこの人を愛したのだろうか? その逆の問いもある。
もし、この人がただの貴族だったら、私は彼にどんな思いを抱いていたのだろうか? どんな態度で接していたのかしら?
あれ。そもそも憎むってなぁに?
窓から身を乗り出した。ずり落ちそうになった。
おっと、と王弟に抱き引かれ事なきを得た。
私は振り返った。
「私は、あなたには負けたくない。ゴーディラック人のあなたには。絶対に言い負かされたくない。屈服もさせられたくない」
「屈服などしてほしくは……」
「だけど、あなたからゴーディラック人としての面を除けばなにが残るの?」
ただの付き纏いだ。私を"ひまわり"と称するただの17歳だ。明るい青いひたむきな目を持つただの少年だ。
人を挑発しては言い合いになる少年だ。
2つの青い瞳は真っ直ぐ私を見つめている。逸らしたくなるほどに強く見てくる。目がヒリヒリとしてくる。ピクリと下瞼が小さく痙攣した。ぶわと涙が出た。慌てて瞬きをした。
それから見つめ直した。
「私も銀世界に連れて行ってみてくれませんか?」
王弟は一瞬止まった。ゆっくりと噛み締めるように頷いた。私の額にキスした。
「必ずあなたを銀世界で幸せにします。私の世界で生きるただ1つの愛ですから」
頬にキスを返してから、抱きしめた。
「兄君は?」と少し気になったことを聞いてみた。
「兄は家族ですから」と王弟は嫌そうに付け足した。「僕が妻として迎えるのはあなただけ、という意味です。雰囲気を壊さないでください」
「野生のひまわりだから仕方がないじゃない」とケタケタ笑った。
翌週、ローズマリーがデビュタントを迎えた。花束を贈ったら、頬にキスされた。可愛い従妹にこっそりと婚約を明かしたらあっという間に広まってしまった。
最終話です!
ウワサによると、エピローグがあるらしい




