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手を差し伸べるひと、離れていくひと

「スワローちゃん、今日は1人かい? 大丈夫?」

「ええ」と私は頷いた。「大丈夫よ。コセアおばさん」


 私はぎゅっと籠を持つ手に力を入れた。じりじりと日が差す夏。屋内市場とは言え、こんな日に黒いワンピースを着ているから気になるのかも。うーん、とエプロンの裾を摘んだ。


「今日は本を買いに来たの」

「おや、じゃあうちのお客じゃないのかい、今日は?」とコセアおばさんはガハハと笑った。「本屋なら向かい側にあるよ」

「ありがとう、コセアおばさん。私、本屋に行ったことがなかったから」

「おや、賢そうな顔をしているのに? わかった。プレゼントだね?」

「ええ、いつもは贈られることが多かったの。それじゃあ、また」と私は手を振った。

「あ、待って。スワローちゃん、いつも一緒に来ているおばあさんは……」


 コセアおばさんの言葉に私は石畳に視線を落とした。


「亡くなったの」

「そうかい……。寂しくなるねぇ」

「それじゃ、また今度」とワンピースの裾を摘んだ。


 春から夏に移ろうという時だからかしら。屋内の市場にはそんなに人がいない。人とぶつかりそうになるのは外。内の方には……、庶民はいなくて、大店の商人の娘さん達がチラホラといるくらい。小説を片手にフラフラとしている。本屋はいくつかある。クン、と顔を動かした。私と同じくらいの女の子が本屋から出てきた。薔薇の香りのする本屋だ。そこに入るとモンパル夫人が書いたという小説が平積みされていた。ゴーディラックから輸入された小説もある。私は肩を竦め、表紙に百合が描かれた小説を取った。お祖母様の言う「ゴーディラックの低俗な本」なんぞ買わないわ。会計を済ませると、背後から誰かが肩に手を掛けた。私はくると振り返った。


「あ、ピートルにいさま」と私は従兄に笑いかけた。「もう帰る時間?」

「ああ、早く帰るよ。また、風邪を引いたら困るだろう」

「この間治ったばかりだから、すぐには引かないわよ」と私は肩を竦めた。


 でもピートルにいさまに従い帰ることにした。馬車に乗り、家に着いた。馬車から降りると私は馬車を見た。ピートルにいさまは馬車から軽く身を乗り出した。


「それでは、ジョセフィン。僕は帰るから。もうしばらくすればローズマリーが来るからね」

「護衛役、ありがとう。ピートルにいさま」と私はおどけてお辞儀した。「気をつけてお帰りくださいな!」


 ピートルにいさまは笑った。それから悲しげな笑顔で私の頭を撫でた。


「また明日来るから」とピートルにいさまは手を振った。


 馬車は去っていった。玄関で待機しているマーラを見た。私は帽子を取り、家の中に入った。2階に行き、何気なくお祖母様の部屋のドアを開けた。シンとした空気が心を満たした。ああ。家具に布が掛けられている。暖かな緑の壁紙。こっくりとした時の刻まれたベッド。壁に飾られたイエス様の絵。空っぽの部屋、空の椅子を見る時、祖母は亡くなったのだと思い知らされる。暖炉の上の花瓶に目を向けた時、持っていた籠が手から落ちた。お祖母様が最後に活けた花はもう枯れていた。


「ふぐ、えぐ、ひぇっく……」


 私は布を取り払い、椅子に顔を埋めた。

 なんで、もう? お祖母様、なんで?

 そんな言葉ばかりが浮かぶ。なんで亡くなったの? 知ってる。お祖母様だってお年だった。お祖母様には30過ぎたピートルという孫もいるお年なのだ。おかしいことなんて1つもない。椅子にしとしとと涙が染み込んでいく。


 コンコンコン。

 

 ノックの音に私は顔を上げた。


「お嬢様、モンテルス辺境伯のご子息様がいらしゃっています」とドア越しにマーラの声がした。

「イーリアス様が?」


 私はゴシゴシと目を拭った。


「お会いするわ。イーリアス様は客室にお通しして」と私はドアを開けた。「カタリナを呼んで。着替えを手伝ってもらいたいの」

「お着替えの必要はないかと」とマーラが引き攣った笑みを浮かべた。

「あ、そっか」


 そもそも喪服だったね。私はエプロンだけ取った。喪中だから着飾る手間だけは省ける。


「ねえ、マーラ。カタリナを呼んできて」


 お祖母様の部屋から出て、自分の部屋に入った。ドレッサーの前に立ち、髪からリボンを取った。ゴシゴシとお下げを解した。カタリナに頼んで、髪を整えてもらった。侯爵令嬢らしく髪をふんわりと下ろして、黒いリボンをつけた髪型だ。

 部屋を出た。ホールを見下ろし、客室のある方を見た。手すりを撫でながら階段を降りた。客室に入った。


「こんにちは。イーリアス様」

「今日は突然やってきてしまい申し訳ございません」とイーリアス様は立ち上がりお辞儀をした。


 お手本みたいなお辞儀。

 私もお辞儀を返した。しんとしている。これが喪の空気なんだ。重苦しいだろうなぁ、イーリアス様も。

 イーリアス様は突然、私に近づいた。


「ジョセフィン嬢、少し庭園でお話しませんか?」

「ええ、イーリアス様。私も屋内から出たいと思っていたところでしたの」


 イーリアス様は優しく微笑み掛けてくださった。彼は私に手を伸ばした。私は首を傾げながら、彼の手を取った。イーリアス様は私の手をご自分の肘に掛けた。ああ、エスコートか!


「大人の女性みたい」と私は小さく呟いた。

「2年半経てばあなたも大人ですよ」とイーリアス様は歩き始めた。


 2年半で私も大人になるの? ぞっとした。伺うようにイーリアス様を見た。イーリアス様は立派な大人だわ。だけど、私はまだ子どもみたいな気分よ。現に私は12歳だもの。そもそも手袋を部屋に忘れてきたもん。

 庭園に出ると花の香りが、眩い太陽が私の世界を満たした。石畳の上を歩きながら私はマーガレットに手を伸ばした。マーガレットがたくさん咲いている。マーガレットに、ポピーにちょんちょんと触れながら歩く。


「世界って綺麗ですね。イーリアス様」

「そうですね。時には悲しさも理不尽さもありますが……」


 馬車が止まる音がした。私は玄関の方向を見た。

 

「今度は一体どなたかしら? お客様は基本的に本邸へいらっしゃるのに」


 イーリアス様は気まずそうに目を動かした。私はあ、と呟いた。イーリアスの肘に掛かる、私の手に力が入った。


「そう言えばイーリアス様はどうしてわざわざ別邸までいらしてくださったのですか?」

「喪に服す方を訪ねるのは古今東西変わらぬ礼儀ですよ、ラングレッド嬢。もちろん、本邸には伺いましたがあなたがいらっしゃらなかったので」


 え、と私はイーリアス様を見上げた。イーリアス様は眉尻を少し下げて微笑んでいた。


「あなたがおひとりだと思ったからです」


 私は目を見開いた。心にじわと何か温かいものが広がった。

 

 イーリアス様は慌てたように「お祖母様を亡くされたばかりのあなたがおひとりなのは寂しいだろうと考えただけで、不純な動機などはございません。ご安心ください」と丁寧に付け足した。

「知ってます」と私は笑ってしまった。


 優しい人だ。本当に。

 笑っているうちに涙が出た。イーリアス様は私の目を優しく拭ってくださった。

 

「それはそうと、あなたのお祖母様が天に帰られた後、なぜ、あなたは1人別邸でお過ごしなのですか?」


 私はイーリアス様のエスコートからそっと離れた。屈んで白い薔薇を摘んだ。トゲが指に刺さった。傷はできなかった。


「ヴィアの両親が私を引き取る、と葬式の後から言い出していまして……。話し合いに決着がつくまで伯父様が本邸の方に私の部屋を準備できないって仰っていて」

「それはそれは……。落ち着く間もありませんね」

「お父様とお母様はどうして急に私を育てたくなったのかしら?」


 イーリアス様が口を開きかけた時、ローズマリーが視界の端に飛び込んできた。


「スワロー!」とローズマリーが走ってきた。


 腕を広げたがローズマリーはイーリアスに気づき足を止めた。ローズマリーはサッとお辞儀をした。


「こんにちは。ジョセフィンの従妹のローズマリー・ド・ラングレッドです」

 イーリアス様は「こんにちは。モンテルス辺境伯の長男イーリアスと申します。あなた達のお祖母様のお葬式でお目にかかりましたね」と腰を曲げた。

 ローズマリーは「逢引中だった? スワロー」とくるっと私を見た。


 私がイーリアス様を見ると、ちょうど彼も私を見た。目が合った。

 

 「違います!」と私たちの声が1つになった。


 ローズマリーがケタケタと笑い転げた。イーリアス様の眉間に少しだけ皺が寄っている。なんだかおかしくって私も笑ってしまった。


 3人でお茶した後、イーリアス様は帰っていかれた。私とローズマリーは腕を組んで屋敷に戻った。お祖母様の部屋の前でローズマリーが怯むように足が止まった。お祖母様の部屋の中から人の気配もないのだ。1週間経った今も慣れず違和感を抱く時がある。私の部屋に入るとローズマリーはソファに飛び込んだ。


「そうだ、スワロー。お父様から手紙を預かったわ」

「伯父様から? ありがとう、ローズマリー」


 私は薔薇をテーブルに置き、手紙にサッと目を通した。手紙をテーブルに置き私は窓から軒下を見た。私の窓のすぐ上にツバメの巣があるから。ツバメはちょうど不在だった。雛がぴいぴいと鳴いている。

 私はくるりと窓から離れ自分の部屋を見渡した。寒くないように、とお祖母様が設えてくれた部屋だった。部屋中を満たすのは淡いピンク。ベッドにはふわふわのウサギや熊のぬいぐるみ。クッションの置かれた椅子が3脚。暖炉の上にあるイエス様の話を聞くマリアの絵を見つめた。この部屋とは、私が今までの人生を過ごしてきたこのお屋敷ともお別れだ。

 テーブルの上の薔薇を取り、ドアノブに手を掛けた。小説を読んでいたローズマリーが動いた。


「スワロー! どこに行くの? 1人にしないでよ!」

「ちょっとお祖母様のお部屋にこの薔薇を活けに行くの。すぐに戻るわ」と私は部屋を出た。


 お祖母様の部屋に入ると私は息を吸った。もうお祖母様の匂いは残っていない。暖炉の上の花瓶に軽く息を吹きかけ埃を払った。枯れた花は私の胸ポケットに仕舞い、花瓶には白い薔薇を挿した。

 壁に飾られた絵を一瞥し、私は部屋を出ようとドアの前に立った。けれど背中に燦々と日の光が当たった。私は振り返り、ワンピースの裾を摘み軽く腰を屈め、片足を引いた。顔を上げた。ほんの一週間前までお祖母様が寝起きしていた部屋だった。微笑んで見せてドアノブを捻った。駆けて部屋から出た。頬から涙が飛び出していった。バタンとドアを閉じた。


「ローズマリー! 来週こそピクニックに行かない!?」


 

 1ヶ月後、ヴィアの家から迎えの馬車が来た。馬車に乗り、20分も経つと茶色の木造の建物ばかりだった街から、白塗りの庭園を中心とした街に入った。窓に掛かるカーテンの隙間からお辞儀する男性が見えた。パッとカーテンを捲った。綺麗な青いジャケットを着た人だった。みると彼以外にも数人お辞儀する男女がいた。この馬車に向かってお辞儀をしている。私に気づくと「あれはどなた?」と囁き合う声が聞こえた。

 身を乗り出せば馬車の行く先には王宮があった。新聞や号外で見た王宮があった。王宮を平民街から守るように貴族の館が立ち並んでいる。

 やがて大きな館の前で馬車が停まった。王宮の向かいにある、2番目に大きな白い壁のお屋敷。玄関で執事らしき人が待っていた。ドキドキしながら私は馬車の扉を開け、ぴょんと飛び降りた。執事らしき方が汚いものを見た時のように顔を顰めた。


 私は首を傾げながら「はじめまして。ジョセフィンです」と軽く膝を曲げた。

「お初にお目にかかります。私はヴィア公爵家の執事であるアハズエイヤ・ド・ホッヒヴィンターと申します。それから、家臣にお辞儀などなさらぬようお気をつけください」とひんやりと挨拶と注意をされた。「ご案内しましょう、お嬢様」


 夏だからちょうどいい声ね。私の荷物を従者の方が運んでいる。私はホッセヴィンターさんに着いてお屋敷の敷居を跨いだ。コツンと大理石の音が響いた。ホッセヴィンターさんがチラと振り返った。ホッセヴィンターさんは音も立ててないのに。コツとかあるのかな?

 階段を上りながら私は両手をこっそりと後ろに回した。ポケットに突っ込んでいた手袋を出して、サッとはめた。視線を感じて階下を振り返るとメイドたちが台所から、部屋からこちらを見ていた。長い廊下を歩いたあと、ホッセヴィンターさんはある部屋のドアをノックした。


「ホッセヴィンターです。旦那様、ジョセフィンお嬢様がいらっしゃいました」

「入れ」と簡潔な言葉がドアの向こうから返ってきた。


 ホッセヴィンターさんはドアを開いた。部屋――書斎――には50くらいの男性とお母様がいた。ホッセヴィンターさんは私を軽く前に押し出して、退室してしまった。男性の方は重苦しい空気を放っていて私は思わずお辞儀した。実の親だから再会の挨拶? お父様と会うのは生まれた時以来だから……。ズンと肩に掛かる空気が重くなる。


「はじめまして! ジョセフィン・デボラ・アメデアと申します!」とつい声が大きくなってしまった声で最善を尽くした。

「私はお前の父であるケイレブだ」とホッセヴィンターさんよりひんやりする声だ。「会うのはお前の洗礼式以来であるな、ジョセフィン」


 そうなんだ。そんな昔のことを覚えていてくれる人なんだ。持つ雰囲気が重い人だけど、素敵なお父様なのかも。

 私は頭を上げて微笑んだ。お母様が花を見た女の子のような笑みを浮かべた。なぜか赤い唇が目に残った。


「ジョセフィン、お久しぶりね。3年前に会ったことを覚えていますか?」

「はい、覚えています」と私は笑った。「お久しぶりです、お母様」


 お父様はなぜかフンと鼻で笑った。私は不思議に思いながらお父様を見つめた。お母様は私の腰に腕を回して抱き寄せてくれた。私の背はお母様の顎を少し超えたあたりだった。お母様はお祖母様より少し身長が高いのね。1人頷いているとお母様は不思議そうに眉根に皺を寄せた。お父様は机から書類を取った。何の書類かしらん?


「エリザベス」とお父様はお母様に目を向けた。「ジョセフィンを部屋に連れて行け」

「かしこまりました。失礼いたします」とお母様は優雅にお辞儀をした。

「ジョセフィン。公爵の娘として恥ずかしくない言動を心がけるようにしなさい」とお父様は書類に目を向けた。


 私は肩を竦め、お母様に着いてお父様の書斎を出た。お母様は踊るように階段を上った。私は少し駆け足だった。6つの部屋の前を通り、7つ目の部屋に入った。淡いピンクが目に入った瞬間、私は足を止めた。お母様は私の横を通り部屋に入った。

 淡いピンクの部屋。壁紙のボーダーにはお御伽話の場面が描かれているように見える。ベッドにはクマのぬいぐるみ。暖炉の上には……うん?

 私は首を傾げた。ドアから離れ暖炉に近づいた。

 暖炉の上には私が赤ちゃんだったころの肖像画があった。座れるようになって、少し大きめのボールに手を掛けている絵だった。


「どうかしら? ジョセフィン」と少しそわそわしているようにお母様が私の肩に手を掛けた。

「とても、とても可愛いです。お祖母様の家にあった私の部屋にも似ていて暮らしやすそうです」

「あなたの部屋については私がお兄様に聞いたものよ。突然住む部屋が変わったら嫌でしょう? それに私はあなたの好みも分からないのよ」

「ベネディクト伯父様に聞いたんですか?」

「ええ、もちろん」


 私は目を見開いた。そして、お母様をぎゅっと抱きしめた。ふんわりと薔薇の香りがした。お母様が優しい手つきで私の髪を撫でた。


「あなたの髪も真っ直ぐなのね」


 お母様の言葉に少し見上げた。お母様の髪は結い上げられていたから金髪だということ以外なにも分からなかった。

 お母様は突然、体を離した。


「そうだわ。ジョセフィン、クローゼットを見てみなさい。義姉様に聞いたからサイズはあっているはずよ」


 私は頷いて、クローゼットを開けてみた。思わず口が開いてしまった。


「白い……」

「ええ、白よ。素敵でしょう? あなたはせっかく綺麗な顔をしているのに、喪中だからと黒ばかり着ていては……たった半年のこととは言え勿体ないわ」


 言葉が出なかった。喪服で黒以外に白や灰を着る人がいることは知っていた。

 私はゆっくりと振り返った。お母様は楽しそうな顔をしていた。けれど、少しずつ失望したように顔色が沈んでいった。


「喜んでくれると思ったのに……。どうして?」

「私、明るい色を着たくないの」

「どうして? 確かにお母様が亡くなってからひと月だけど、あなたはもう少し明るい色を着るべきよ」


 私はぎゅっと手を握って俯いた。腹の底で何かがふつふつとしている。お祖母様なら……。お母様は私の両肩に白い手を置いた。


「確かに黒も似合っているけれど……、それは少し大人びて見えるわ。可愛くいられるのは子どもの頃だけなのよ、ジョセフィン」


 私はお母様の手を軽く振り払った。窓に近づいて外を見た。お祖母ならお母様の言葉になんて返すの?


「ジョセフィン」


 お母様の言葉はまだ続きそうだった。

 

 私はぎゅっと目を瞑り「もうやめてよ!」と叫んだ。「半年くらい黒を着ていたっていいでしょ!?」

「ジョセフィン」

「もうやめて! 黙って」


 ドンドン、ドン。

 足を踏み鳴らした。

 熱くなった涙が溢れた。


 お母様は「とんだ、癇癪持ちなのね。あなたは」と嫌そうに眉間に皺を寄せた。


 そのままお母様はクルリと部屋を出ていってしまった。私はへなへなと崩れ落ちた。クローゼットの中に掛かる白い華やかなワンピース。見たくない。立ち上がり、クローゼットを閉じた。もう一度部屋をぐるりと見渡した。ベッドに倒れ込んだ。うぅ。

 ふと顔を上げると目の前に熊のぬいぐるみがあった。抱きしめて眠った。



 コンコンコン。


 うん?

 響くノックの音に顔を上げた。気がつくと部屋が暗くなっていた。部屋の隅でろうそくが点いていた。誰かが毛布を掛けてくれていた。起き上がって私はドアを開けた。

 ドアの向こうには眉を釣り上げてサンドイッチを持った栗色の髪の若い女性と、ワクワクしているように笑う鳶色の髪の少女がいた。


「相手を確認もせずにドアを開けてはだめじゃないの、ジョセフィン」と栗色の女性。

「だれ?」と私は顔を引き攣らせた。

「私はドーリーマ-ルビマ。あなたの姉の1人」と鳶色の髪の少女。「13歳。ねえ、あなた……」

「私はミリアマネ。私もあなたの姉で15歳」とサンドイッチを私に渡してくれた。「あなた、寝ていて晩御飯を食べていないでしょ、あなた。12歳でご飯を抜くのは成長に差し支えるから持ってきたの」

「ありがとう。あの、ドーリーマ姉さまの名前って本名?」と私は首を傾げた。

「本名よ。悲しいことに」とドーリーマ姉さまは肩を竦めた。「それより廊下での立ち話もアレだから部屋に入れてくれる?」

「ええ」


 私は姉様を2人部屋に招き入れた。ミリアマネ姉様はテーブルについた。


「ジョセフィン。あなた、お母様と喧嘩したの?」

「喧嘩?」


 ミリアマネ姉様の質問に私はカァと顔が熱くなった。頭に血が上る。ぎゅっと顔を顰め、抑えた。神様がカインに言っていたことを思い出すんだ、ジョセフィン。

 私は深く息を吐いた。


 「喧嘩なんてしてないわ、ミリアマネ姉様。喪服ついての意見が違っただけよ」


 私の言葉にミリアマネ姉様は訝しむように片眉を上げた。ドーリーマ姉様は椅子に掛けて私の部屋を観察している。けれど顔を上げた。


「確かにジョセフィンだけ黒い喪服を着ているものね。お母様が嫌がりそう」

「どうしてお祖母様が亡くなったのに着飾ることができるのかしら?」

「綺麗な服を着れば気持ちが明るくなるからだと思うわ」とドーリーマ姉様は頬杖をついた。


 うーん、と私はテーブルの方を見た。サンドイッチが乗せられている。私はベッドの下からスツールを蹴り出した。少し低いけどスツールに掛けた。


「私には分からないわ。どうして綺麗な服を着ると気持ちが明るくなる人もいるのか分からないの」


 ドーリーマ姉様が何か言おうとしたように口を開きかけた。


 ギーン、ガーン、ガーン。

 壁時計が鳴った。


「あら、こんな時間なのね」とミリアマネ姉様は立った。「ドーリーマ、お部屋へ戻りましょう」

「そんな〜」とドーリーマ姉様は嫌そうに立ち上がった。「おやすみなさい、ジョセフィン。明日、私の部屋でお茶会をしましょう。そうね、10時にどうかしら?」

「ええ! ぜひ。おやすみなさい」と私は姉様たちに笑いかけた。

「おやすみなさい。ジョセフィン」とミリアマネ姉様はドーリーマ姉様を連れ部屋から出た。


 私はハァと息を吐いた。カタリナが入ってきた。カタリナはカーテンを閉めた。そしてお風呂に入れてくれた。引っ越してきた後のお風呂は最高だった。

 ラングレッドの家から持ってきた黒いネグリジェを着た。うん、やっぱり黒の方がしっくりと来る。お祖母様が亡くなってからまだひと月なのよ。

 ベッドに腰掛け聖書を読んだ。今夜は詩篇だった。「ヒソプの枝で拭ってください」「雪よりも白くなるように」か。私はクローゼットに目を向けた。

 そして布団を被り眠りについた。布団からは薔薇の香りがした。



 目が覚めた私はまだカーテンが開いていないのを見た。うーん。まだカタリナも来ていない。さすがに貴族としてのドレスは私1人では着られない。私はナイトテーブルの上の聖書を持った。スツールを窓辺に寄せ、重たいカーテンを少し捲った。外は日が昇り始めていた。

 スツールに座り私は聖書を読んだ。

 少しずつ手元が明るくなっていく中、詩篇を読み終えた。箴言の8章を読んでいると、小さなノックの音が聞こえた。昨日、ミリアマネ姉様に注意されたことを思い出した。


「どなた?」

「お嬢様。もうお目覚めなのですか?」とドア越しにカタリナの声がした。

「ええ。入ってもいいわよ」


 部屋に入ってきたカタリナは驚愕したように丸く目を見開いた。私は立ち上がりながら首を傾げた。カタリナは侍女を2人引き連れていた。皺1つない服を着た濃い金茶色の髪の女性と、笑顔が似合いそうな白に近い金髪の若い。どちらも成人してから5年も経っていなさそう。


「お嬢様」とカタリナは軽く膝を曲げた。「本日よりお嬢様のお手伝いを任せることとなる侍女を2人紹介することをお許しください」

「どうぞ」


 カタリナがいやに恭しい。お祖母様の家にいたころはもう少し親しみやすかったのに。

 濃い金茶の髪の女性が教本のようなお辞儀をし、顔を上げた。


「お初にお目にかかります。私、本日からお嬢様の身の回りのお手伝いをさせていだきますイレーネ・フォーゲルと申します」

「今日からよろしくね、イレーネ」


 薄い金髪の女性が少しもつれたようにお辞儀した。


「お初にお目にかかります。私もお嬢様の世話にあたりますマルタ・ド・ローヴェンと申します」


 マルタはニっと仲良くなれそうな笑みを浮かべた。私も笑みを返した。


「さぁ、さぁ。朝の支度をしましょう」とカタリナは手を叩いた。


 マルタがカーテンを開けている間に、イレーネは階下へ行った。カタリナが濃灰のガウンを着せてくれた。髪を梳かすために髪を横に避けた。


「ねえ、カタリナ。なんで朝の身支度に3人も必要なの? 昨日まではあなただけだったじゃないの」

「それが」とカタリナは目を伏せた。「公爵家の娘に戻る、ということでございます」


 私はパチリとカタリナをまっすぐ見た。それからお母様が用意してくださった部屋に目を向けた。私が12年過ごした部屋に寄せて用意してくださった部屋だった。でも、と化粧台に触れた。しっとりと吸い込まれそうな触感の木だった。きっとお祖母様の家にあったのより高いんだろうなぁ。ブラシを手にすると、カタリナに取られた。


「お嬢様。今日から御髪を梳かすのも私共の仕事です」

「公爵の娘って何をすればいいの?」と私は唇を突き出した。


 カタリナは何も言わず私の髪を梳かしてくれた。私がやるよりずっと優しい手つきだった。私は小さくあくびをした。少し眠くなってきた。

 朝ごはんは嫌いなオートミールだった。しかもお祖母様の家と違って砂糖じゃなくて蜂蜜が使われていたから、余計にドロドロねちょねちょする。ココアもあったから頑張って食べた。本当に頑張った。

 朝ごはんを食べた直後に着替えがあった。


「ぐぇっ」と私は吐きそうな口元に手をあてた。

「お嬢様、しっかりと柱を掴んでいてください」とイレーネが急かした。

「ご飯を食べたばっかりなんだけど」と私は渋々、ベッドの柱を掴み直した。


 コルセットを締め終えるとイレーネはふぅと息を吐いた。私はよろりと壁に寄りかかった。コルセットなんて今まで着けたことがなかったからなおさら息苦しいの。ペチコートはなんとレースで出来ていた。

 脳裏にお母様の顔が過ぎった。薔薇の香りがする人だった。このペチコートはお母様の趣味だろうなぁ、と私はため息を吐いた。喪中なのに真っ白なペチコートだった。

 ワンピースについては私の意見が通って、ラングレッド家から持ってきた黒いのになった。


 身支度を終えた。時計を見ると9時50分になっていた。イレーネに聞いて、ミリアマネ姉様の部屋へ向かった。


「ミリアマネ姉様、入ってもよろしいでしょうか?」とノックした。「ジョセフィンです」

「どうぞ」と明るい声が聞こえた。


 ドアを開けるとミリアマネ姉様がちょうどレース針を脇に置いたところだった。私の指先が少し冷たくなっているのを感じた。すぅはぁ、大丈夫。ほぼ初対面とは言え、実の姉様だもん。


「ドーリーマ姉様はいらっしゃらないのですか?」

「ドーリーマはこのあと来るわ。他の子と一緒にね」

「他の子?」と私は首を傾げた。

「さぁ、お掛けなさい」


 私はテーブルについた。ドーリーマ姉様がいないからか、ミリアマネ姉様の印象が昨日と少し違って見える。昨日よりはのんびりとした感じ。私は小首を傾げた。それからすぐにノックの音がした。


「私よ、ミリアマネ。アリエッタも一緒にいるわ」とドーリーマ姉様じゃない声がした。

「私もいるわよ!」とドーリーマ姉様が小さく叫ぶ声がした。

「どうぞ、入ってきて。ジョセフィンはもう来ているわ。グラツィアナ姉様、アリエッタ。ついでにドーリーマ」


 3人が部屋に入ってきた。

 暗い金髪を上げている女性はたぶんグラツィアナ姉様だ。ミリアマネ姉様の姉だもの、成人している方でしょうよ。ドーリーマ姉様と手を繋いでいるのはたぶんアリエッタ。


 ミリアマネ姉様は3人に席を勧めた。


「この子がジョセフィンです。すごく美人でしょ?」とミリアマネ姉様は私を指した。「今年の12月で13歳になるのよね?」

「そうです」と私は頷いた。

「こちらは姉のグラツィアナ姉様。冬の始めにランニベルト大佐と結婚なさる予定なの」とグラツィアナ姉様を指した。そして「こっちは私たちの妹アリエッタ。下から2番目で、10歳」と栗髪のアリエッタを指した。


 初対面の挨拶を済ませると、お茶が来た。ミリアマネ姉様とグラツィアナ姉様は本物の紅茶。私とアリエッタ、ドーリーマ姉様は殆どミルクと砂糖のおこちゃま向けのお茶。


 ドーリーマ姉様は「来月で14歳なのに」と不満げにお茶を飲んでいた。

「15歳になるまでは仕方がないわ、ドーリーマ」とミリアマネ姉様。

「そもそも甘くないものがダメなあなたには紅茶はまだ早いわよ」とグラツィアナ姉様はこれ見よがしに紅茶を飲んだ。「ジョセフィンは甘くないものも好きそうな顔だけどどうなの?」

「甘くないものも好きだけど……」と私は肩を窄めた。「甘くないものも好きそうな顔ってどういう意味ですか?」


 グラツィアナ姉様はなぜか嫌そうに眉を顰めた。ミリアマネ姉様は頬に手をあてた。アリエッタはじっと私の顔を見た、目が少しキラキラとしている。ドーリーマ姉様はそっと私の耳に唇を寄せた。


「だってあなた、ここにいる誰よりも綺麗で賢そうよ。グラツィアナ姉様よりも、お母様よりも美しい顔立ちだもの」


 私は息を詰めてここにいる姉様たちとアリエッタを見た。それから皆の白いドレスが目に入った。グラツィアナ姉様は耳飾りもつけている。お茶を飲んだ。

 グラツィアナ姉様とミリアマネ姉様がおしゃべりを始めた。すでに社交界に出ている2人には共通の話題が多いようだ。アリエッタがまだ私を見ている。


「どうしたの? アリエッタ」と私は笑いかけた。

「ジョセフィンお姉様ってすごくお綺麗です。特に金髪が綺麗です」


 12年間生きてきた中での初めての妹アリエッタ。

 碧い瞳が愉しげに煌めいている。少しほっそりとしているけど、頬も赤くて本当に可愛い。

 ん? 背に流していた三つ編みを見た。ちょうど日差しが掛かっていて明るく見える。ふー、と椅子に寄りかかった。


「本当に、髪が太陽に透けて、日の光を紡いだように見えます」とアリエッタは頬杖をついた。「あと瞳の色が優しくて深くて……」

 

 グラツィアナ姉様が吹き出すように笑った。紅茶は無事だった。


「あなた、ジョセフィンを口説いているの?」

「私が男、かつ兄弟でなければ本気で口説いてます」とアリエッタ姉様は真剣に答えた。

「優しそうなジョセフィンも年下は相手しないと思うわ」とドーリーマ姉様はケラケラ笑った。

「笑わないでください、グラツィアナ姉様、ドーリーマ姉様」とアリエッタは嫌そうにお茶を飲んだ。「ここで会話に乗らないミリアマネ姉様はなんて優しいのかしら」

「面倒くさがりなだけよ」とミリアマネ姉様はなぜか私の頭を撫でた。「ちなみにジョセフィンも何も言っていないわよ」

「ジョセフィンお姉様、大好きです」とアリエッタは私の手を握った。小さい手。

「うぅ」と小さな呻き声が漏れてしまった。


 冗談であってもこういう禁じられた愛を匂わせる会話は初めてなの。しかも苦手だ。

 そっとアリエッタの手から抜けて、お菓子を食べた。キラキラとお砂糖が乗ったお菓子だった。ジャリジャリする。とりあえずアリエッタの口にもお菓子を突っ込んでおいた。


 

 お茶会が終わると私は部屋に戻った。私はドッとソファに寝転がった。まだ昼下がりなのに疲れた。


「お嬢様」とイレーネがソファの脇に立った。「だらしなくソファで寝転がらないでください」

「うぅ」ともぞもぞ起き上がると私は腹回りを抑えた。コルセットのせいで苦しい。


 5枚も重ねられたペチコートのせいで膝を抱えて座るのが難しい。

 明るくて華やかでお洒落な姉様たちと妹。私にはなれない。

 窓から見えるのは整えられた庭園と白塗りの王宮。脳裏にお祖母様が生きてたころ一緒にモンテルス領へ行ったこと記憶が蘇った。イーリアス様と馬車で回ったモンテルス領は穏やかで楽しそうで、親しみやすかった。

 私はすくっと立ち上がった。


「イレーネ。お手紙を書きたいんだけど、便箋とペンはある?」



 手紙を書き終えると夕食の時間だった。書き終えた手紙はイレーネに預け食堂へ向かった。

 食堂へ向かうと家族だと思われる人物が9人もいた。お父様とお母様、姉様達とアリエッタ以外に知らない人が4人いた。ミリアマネ姉様と同じくらいの人と、30前後くらいの男性が2人。アリエッタより小さい女の子が前に出て足を縺れされながらお辞儀した。


「ジョセフィンお姉様、初めまして。ドミティッラです。5月で6歳になりました。」

「よろしくね」


 それから私は男性3人に向き合った。明らかに私より年上。私は裾を摘み、そっと膝を曲げた。


「初めまして。ジョセフィンと申します。12歳です」

「うむ」と灰褐色の髪の男性が頷いた。「私は父上の長男クラリモンドだ」

「僕は次男のアンドレス。29歳」と金髪の男性。

「僕は……六男のジョナサン、17歳だ。冬には結婚してここを出る予定だ」


 まとめて自己紹介してくれた。私はまとめて返事をした。スゥとひんやりした空気が漂った。お父様がなぜか私を睨んでいた。思わず背筋が寒くなった。

 


 

 1ヶ月後。

 よりにもよってドーリーマ姉様の誕生日。私は酷い風邪を引いて寝込んだ。一昨日に書いたドーリーマ姉様への誕生日を祝う手紙をイレーネに託した。

 猫に引っかかれ回されたように痛すぎる喉。上がっては下がる熱。重く感じる腕。出ない声。階下から聞こえる誕生日を祝う声。ゼイゼイと苦しい呼吸。


 3日後、なんとか風邪が治った。そして今度はミリアマネ姉様とカタリナが風邪を引いた。

 アリエッタと一緒にミリアマネ姉様のお見舞いに行ったら、「今度お菓子をあげるね」と言われた。カタリナにはお見舞いを断られた。

 

 日曜日、家族と教会へ行った。壁から屋根にまで巨大が聖画に覆われている。牧師は古代イスラエルの祭司のようにゴテゴテと宝石をつけたガウンを纏っている。王侯貴族のための教会だから? 身分順と席順が比例しているようで、ヴィア家本家は王族に次ぐ席だった。私は何となく肩身狭く席についた。

 お祖母様の家にいたころは街の教会に行っていた。

 礼拝が終わると牧師が朗々とした声で訃報を伝えた。私は息を呑んだ。


「旧キナエンダ領の辺境伯であられたキナエンダ様は自ら命を絶たれた、とのことでした」


 私はギュッと目を瞑った。従姉の夫だった。

 牧師が聖壇から降りると婦人方が囁き噂する声が聞こえた。


「まさか自害などと……。教会で葬ることもできませんわね」

「そうね……でも、ゴーディラックでの暮らしはそれほど辛いのかしら?」

「そりゃそうでしょうよ。領地を異国に占領された上、捕虜として5年も生きてらしたのよ」

「奥方とご子息はどうなるのかしら?」

「あら、あちらにラングレッド侯爵が」


 教会を出ようとしていた伯父様はあっという間にご婦人方に囲まれてしまった。話が終わると伯父様は伯母様とサッサと教会を出てしまった。ローズマリーはとっくに帰っていたようだ。さすがピートルにいさま。

 ご婦人はまぁと口を抑えたまま話を続けた。


「ご子息は捕虜としてゴーディラックに残られるそうよ」

「ではキエナンダ夫人はティレアヌスに帰国なさるの?」

「ええ。ラングレッド侯爵が引き取るそうよ。彼にとっては1人娘だものね」

「ご子息はおいくつだったかしら?」

「あら、おいくつだったかしら? お若かったような記憶が……」


 婦人の1人が、椅子に座ったままのお母様に目を向けた。眉根に皺を刻み、ギッと下を睨んでいた。


 婦人の1人が「ヴィア公爵夫人、あの……伺いたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」と軽くお辞儀をした。

「どうぞ」とお母様はあっさりと許した。

「キエナンダ様のご子息はおいくつだったのでしょうか?」

 お母様は「彼は14歳です」と沸々とした声で答えた。

「まぁ」とどこかの婦人が声を上げた。「ゴーディラックはなんと酷いことを」


 お母様は少し苛立っているようだ。

 婦人方はまたお仲間との会話に戻った。

 

「そもそも、なぜゴーディラックは5年前、わざわざティレアヌスの土地を刈り取ったのでしょうか? 王家で何かあったことしか存じ上げませんのよ」

「あら、確か……。王子同士で王位を巡った争いがあったからでしょう。結局、よりにもよって側妃の子であった第9王子が王位に就いて」

「わかりましたわ」と婦人がぽんと手を叩いた。「異母兄弟を辺境に追いやったものの、土地が足らなかったのですね!」

「ええ。しかも新聞によりますと」と婦人はゴニョゴニョと小声で話し始めた。

「まあ! なんて酷い!」と比較的若い婦人が悲鳴を上げた。「公爵にすらなれなかったなんて!」

「でしたら今、王族に、それから公爵家などで残っているのはゴーディラックの国王だけでしょうか?」

「いいえ、後宮に国王の妃が数人……。加えてまだ成人していな同母弟も残っていらっしゃるそうですよ」

「まさか異母兄弟を私生児という扱いになさるとは」とふくよかな婦人が聖書を閉じた。「同母弟の方は成人後どうなるのでしょう? 私、ゴーディラックについてあまり詳しくなくて……」

「ヘンソン夫人はモンタスから嫁がれてきたばかりですものねぇ。ゴーディラックでは成人した王の兄弟は王族を出て、公爵位を得るそうですわ」

「まぁ……では、数年すれば王族はどうなるのでしょうか?」

「ゴーディラックでは5歳以下の王族は存在を秘す慣習があるそうです。もしかすると幼い王子や王女がいらっしゃるかもしれませんよ」

「それならば当面、ティレアヌスは安泰ですわね。ゴーディラックなど、しばらく関わりたくもありませんわ」とふくよかなヘンソン夫人はぷりぷりと輪を抜けた。


 

「ジョセフィン、帰るわよ」とミリアマネ姉様が私の肩に触れた。

 

 壁側に座っていたアリエッタは通路に出られず困っていた。末妹ドミティッラはぶーぶーと文句を垂れている。お母様は既に出口へ向かっていた。グラツィアナ姉様、ドーリーマ姉様と一緒だ。

 席順からするとミリアマネ姉様の方が先に出られるはず。優しいミリアマネ姉様がドーリーマ姉様に道を譲ったのかな?

 男性が座る方の席を見るとお父様とお兄様達は既に教会を出ていた。

 私は慌て教会の通路を走った。ドミティッラも「待ってー」と走って来た。後ろからミリアマネ姉様の「こら」という注意が聞こえた。そうだった。教会の中は走っちゃいけない。埃が立つ。

 出口の前で振り返った。聖壇の向こうに精巧な細工のある金の十字架が掲げられている。軽く目を瞑り、短く祈った。ミリアマネ姉様に押し出されるように教会を出た。



 屋敷に入るとお母様主催でお茶会が始まった。幼いアリエッタとドミティッラだけは部屋に戻った。

 私は肩を狭めながら席についた。


「どうして私たちの側であんなにも無遠慮でいられるのかしら?」とミリアマネ姉様はため息を吐いた。

「そうね。亡くなったのはヴィア公爵夫人である私の、姪の夫なのよ」とお母様は唇を顰めた。「彼女らの夫は当面、出世はできないでしょうね」

「お母様、喪に服す期間は延びるのでしょうか?」とグラツィアナ姉様がカップを摘んだ。

「いいえ」とお母様は首を横に振った。「あなた達のお父様は喪に服す期間はお祖母様の分だけで十分と仰ったわ。ゴーディラックを刺激する恐れがあるもの」


 お母様はふふ、とカップの紅茶にスプーンを入れた。



 

 夜、私は眠りに就いた。

 目を覚ました。また眠った。

 目が覚めた。寝返りを打った。

 時計の音で目が覚めた。2時だ。ハァ、と眠った。

 スンスン、と湿った音で目が覚めた。身を起こした。すすり泣く声だ。

 そっとベッドから出た。ガウンを羽織り、部屋を出た。音を頼りに真っ暗な廊下を歩く。壁や手すりにぶつからないよう勘を澄ませる。声のする部屋を軽くノックして入った。


「泣いているの?」


 部屋の奥で誰かが身じろぎする気配がある。


「ジョセフィン姉様?」とスンスン鼻をすすった。

「ドミティッラなのね」


 私は手探りでドミティッラのいる場所を探した。指先に弾力のあるものが当たった。


「良かった。ちゃんとベッドの中にいるね」と私はベッドに腰掛け、ドミティッラを抱き寄せた。「怖い夢でも見たの?」


 ドミティッラはまた泣き出した。よしよし、と背中を撫でた。

 ドミティッラはぎゅうと私の背に腕を回してきた。だからハグをした。だいじょーぶ、だいじょーぶ。昼間にあのおばさん共が少し怖い話をしてたからだろうけど、大丈夫。


 トン トン トン。


 お祖母様がやってくれたみたいにゆっくりと。


 やがてドミティッラはくっすりと眠った。あたたかいドミティッラを抱いているうちに、私も眠ってしまった。

 翌朝、こってりとドミティッラの乳母とカタリナに叱られた。



 

 4ヶ月後。ツンツンと雪降る夜、私は日記帳を開いた。






 今日で13歳になった。

 一昨日はグラツィアナ姉様の結婚式があった。来週はジョナサン兄様の結婚式もある。お祖母様の喪が明けて1ヶ月。おめでたいことが続いて少し嬉しい。

 なんと、今日お父様が言った。ジョナサン兄様の式には参列してもいいって!

 やった!

 それからね、お誕生日の贈り物をたくさんいただいたの。

 ミリアマネ姉様から雪の結晶の透かしが入った便箋。ドーリーマ姉様からはお花の髪飾りを。アリエッタからはキスを。ドミッティラからは「大好き」という熱烈な言葉を。お母様からは赤いドレスを(いつの間に仕立ててくれたのかしら?)。ジョナサン兄様とクラリモンド兄様からは金色の万年筆を。お父様からは小切手と……私と同年代の女の子のリストだった。






 私は万年筆を置いて、んーと背を伸ばした。なんと、天井から小さな蜘蛛が吊り下がっていた。あらら、寒くないのかな?

 手を伸ばすとするりするりと逃げてしまった。寒くないのならいっか。

 それから日記の続きを書いた。





 会ったこともないハナ‐マリー姉様に赤ちゃんが生まれたって。

 なんて素敵で甘美な知らせなのかしら。私もいつかは赤ちゃんを抱く日が来るのかしら?

 きっと甘い匂いのするその子はどんな子なのかな?



 



 私は万年筆を持ったまま、うっとりと頬杖をついた。そしたら頬にインクがついちゃった。


 どこか土の匂いがするようになったころ、私の窓に向かってツバメが春の挨拶をしにやってきた。

 私は笑ってお辞儀をした。こんにちは、ツバメさん。私はジョセフィン、亡くなられたお祖母様は私のことをスワローと呼んでいたわ。

 

 その日、仕立て屋さんがやってきた。私は思わず目を見開いてしまった。懐かしいコセアおばさんの旦那さんだったの! なんて偶然!

 コセアおじさんも私に気づいたようで、びっくりしたように私の顔をじっと見ている。私は挨拶しようと片手を上げた。けれどお母様に掴んで下ろされた。ぶーぶー。

 おじさんは最初、おろおろとしていたけどドーリーマ姉様もいたから落ち着いて仕事を始めた。おしゃべりしたかったなぁ。

 私は淡いピンクの生地を選んだ。けれどお母様が「これがいい」とクリームホワイトに華やかな赤い花がボンボンと染められた布を選んだ。「艶やかでエキゾチックなニホン風で素敵」とのことだった。

 私に流行りのことなんて分からないから生地を選ぶ間、私は窓から空を見ていた。わー、鳩の大群だぁ。

 採寸の時に呼ばれたから私は人形のように大人しくした。採寸してくれたのは初めて会う女の子だったけど鼻の形と、ほくろがあるところがコセアおばさんと似てる。娘さんかな? 私はこっそり微笑みかけた。女の子は赤くなった後、青くなった。解せぬ。

 採寸と注文が終わった。私はのんびりと籠を持った。春の日差しがぽかぽかとしてるから、日向ぼっこしようと思っているんだ。階段を降りると、お父様の書斎から大きなダンッと音が鳴り響いた。


「ゴーディラック王の同母弟は結局、王族を出ないのか!?」と叫ぶ男の人の声。「成人したというのに!」

「声を抑えろ、アンドレアス。お前も同じだろう、次男でありながら本邸に残っているのだから」

「クラリモンドの言う通りだ、アンドレアス。お前は今年で30歳になるのだからいい加減、感情を抑えろ」とお父様の冷ややかな声。「それから、ケネス王子が王族に残ってくれる方がこちらにとっては都合が良い」


 あ、私立ち聞きしてる。私はさっさと地階へ下りた。庭園に出ると私はふふんと腕を伸ばした。籠をぶんぶんと振り回しながら歩き回った。豪奢な庭園。5人の庭師がせっせと花の手入れをしている。私が通ると彼らは跪いた。いちいち跪かないでよ。今の私はただのスワローになりたいの。スワローに戻りたいの。両腕を広げて屋敷から離れるように走った。柔らかな風が顔を、腕を撫でていく。

 

 私はうーんと首を傾げた。座れそうなところは石畳か東屋だけ。石畳は固いし、3月でも冷たいから座りたくない。じゃあ、お貴族のお嬢様みたいに……。

 ハァと東屋への小さな階段を上った。ベンチに掛けた。見せつけるように豪華で大きな花がドンドンドンと咲いているのが東屋から見える。差し色のように笑うミモザが大好き。チチチ、と何かの鳥が鳴いている。

 籠の蓋を取り、便箋と万年筆を出した。本邸に移ってから何度かイーリアス様にお手紙を出した。けれど彼からのは9月に一通来ただけだった。ベンチから下りて床に座った。ベンチをテーブルにして手紙を書いた。

 手紙を書き終えるとベンチに掛けた。便箋を封筒に入れた。部屋に戻ってから封をしよう。そよそよとミモザが揺れる中、私はため息を吐いた。



 5月。私は白いドレスを着た。今日はお祖母様が天へ帰られてから1年の日。

 去年ここに来た時、クローゼットに入っていたものだった。丈が短くなっていたから、少しお直ししたやつ。髪はぶりんぶりんに巻かれた。オリーブの葉を模った黒い髪留めをつけた。踵の高い靴を履いて、私はサロンへ向かった。今日はドーリーマ姉様主催のお茶会に呼ばれているのだ。王家・公爵家本家・侯爵家本家の当主の娘のうち、ドーリーマ姉様と年の近い子が出席する。私はスカートのポケットに手を当てた。ここには同世代の女の子リストが入っている、今日来る子は4人。王女様も1人来る。

 スゥと胸いっぱいに、ぬるい空気を吸った。ドアの外ではメイドたちが忙しなく動いている。こそげ取るように勇気を出して私は顔一杯に笑顔を作り、サロンへ入った。

 黒に近い茶髪の少女。この子はたぶん……シュトラール侯爵の娘さんかな。入室は身分の低い順だと聞いたし。え、私? 三大公爵家の娘ではあるけど、侯爵家で育ったからね。

 少し考えてからドアに近い方の席に掛けた。つまり、この人の隣。


「こんにちは、ユリンカさん。私はジョセフィン・ド・ヴィアです」と挨拶した。

「え」とシュトラール侯爵の娘ユリンカさんは戸惑ったように目を丸くしてしまった。


 ユリンカさんは突然、立ち上がってしまった。


「お初にお目にかかります。シュトラール侯爵の長女ユリンカと申します。ヴィア公爵家のご令嬢に名を覚えていただけていたとは恐悦至極光栄に存じます」


 お、おう。どう返せばいいんだろう?

 私は首を傾げた。ユリンカさんも気まずように席へ戻った。

 アリエッタと、14、15くらいの真っ直ぐな赤毛の少女が入ってきた。続いて入ってきた赤み掛かった茶髪の女の子。真っ直ぐ入ってきたドーリーマ姉様。よく顔を見ると頬の動きが少し強張っている。

 最後に、筋の通った"高貴"な顔立ちと、淡い青の瞳で綺麗に背筋を伸ばした少女。濃い栗色の髪は耳の上で軽く纏められている。だが結い上げきらずに折り畳まれ、髪を背に流していた。雑に言えば、品がある。たぶん、この人が王太子の娘シャルロット王女だ。

 

 皆が着席するとドーリーマ姉様は緊張を隠すように深呼吸した。そして立ち上がり、笑みで一同を見渡した。季節の挨拶と集まってくれたことへの感謝を述べ、最後に「どうぞごゆっくり」と付け足した。

 ドーリーマ姉様は座る時にチラと王女様に目線を送った。王女様は小さく頷いてからこちらを見て、初対面の挨拶をしてくれた。この部屋にある目がすべて私に向かった。重い視線に耐えられずぶつ切りのような言葉を返してしまった。

 きっと私以外は既に会ったことがあるんだ。私はスと他の子たちを見てみた。みんなドーリーマ姉様の友達なのだろう。


 あぁ。


 私は聞き役に徹することにした。

 親の悪口には混ざりたくなかった。恋や男の人の話の時、何度は少し怖い目で見られた。


「今年成人する私たちは、ジョセフィン嬢が成人なさるまでに殿方と婚約しておかないとね」

「そうね、そうでないと素敵な殿方はみんなこの娘に取られそうだもの」

「ぼんやりとしているのに、すごく美人だものね。殿方が好きそうよねぇ」

「こういうのに限って殿方を手玉に取った挙げ句行き遅れるのよねぇ」


 クスクスクスと笑い合っている。ドーリーマ姉様が微かに眉間に皺を寄せた。



 お茶会は夕方に終わった。

 私とドーリーマ姉様は言葉少なに部屋へ戻った。ベッドで横になった私は化粧台を睨んだ。なんであんなに言われたんだろう? 言い返す気力もなくなるくらい下品だった。高位の貴族なのに。

 明日は教会だ。教会で誰とも話したくないなぁ……。ベッドに顔を埋めた。少しずつ濡れていった。




 教会で牧師が話している。

 一言も漏らしたくなくてずっと聞いてた。牧師さんは真剣に語っていた。


 説教が終わると私は姉様たちの前を通って座席を出た。


「お母様。私、先に馬車へ戻ります」

「勝手になさい」


 少し顔を伏せて教会の通路を歩いた。なるべく目を合わせないように……。少女達にはもちろん、殿方にも見られたくない。少し早歩きになった。突然、手首を掴まれた。

 バッ、と反射的に見た。あ、とゆっくり目を開き言葉が漏れた。


「ローズマリー……」

「スワロー、大丈夫? 顔色悪いよ」とローズマリーが怪訝そうな表情だ。


 大丈夫、と言いかけた。けれどローズマリーが私の耳元でコソコソと喋った。会うのは1年ぶりなのに距離が近い。思わず私は笑った。それから頷いた。


「もちろんよ。お父様の許しが得られたらすぐに行くわ」

「やった」とローズマリーは私の手を離した。「すぐに聞いてね」


 私は駆け足で馬車に乗った。お父様とお兄様たちは別の馬車で屋敷に帰った。お母様たちが早く馬車に乗ってくれたら私も帰れる!

 家に帰ると私は着替える間も惜しんでお父様の書斎に入った。


「お父様、失礼します。従妹、じゃなくて従兄の娘のローズマリーと遊びに行ってもいいですか?」

「勝手にしろ」

「ありがとうございます!」と私は書斎から飛び出した。


 それからすぐにローズマリーに手紙を出して、イレーネに出してもらった。クローゼットのワンピースを見た。うん、このブラウスとスカートで行こう!


 月曜日、私はローズマリーからの返事を待った。

 火曜日、ローズマリーからの手紙を受け取った。

 水曜日、穴埋めのため、勉強を進めておいた。

 木曜日、私は馬車に乗ってラングレッド邸へ向かった。ラングレッド邸に着くと、ローズマリーと一緒に馬車に乗った。


 馬車は庭園を、貴族街を抜け、門をくぐった。平民の市場に出ると私は馬車から身を乗り出した! 5月の爽やかな風が私の中を満たしていく。


「ねえ、ローズマリー。見てよ! あそこの魚屋のお兄さん、奥さんが出来ているよ!」

「本当?」とローズマリーも身を乗り出した。「本当だわ。あ、顔を赤らめた。照れちゃってぇ」


 ひとしきり笑った。お腹が痛くなるくらい笑った。アハハ。笑い終わったと思っても、些細なことでまた笑いが止まらなくなってしまう。笑いすぎて苦しくなったことでまた笑った。

 スン、と笑い終わった。

 

「見て、ローズマリー。教会が……」


 あ、と教会の門の辺りに目が留まった。物乞いが5人もいた。


「ごめん」と私は馬車から降りた。

「ちょっと待ってよ、スワロー!」とローズマリーも降りた。


 物乞いの方と軽く挨拶してから教会に入った。すえた臭いがする。思わず顔を顰めた。


「チャルソン牧師? どちらにいらっしゃいますの?」


 牧師を探して教会の中を歩いた。


「はいはい、どなたでしょう?」とチャルソン牧師が奥から出てきた。「あなたは、ラングレッド侯爵未亡人の……!」

「ええ、ご無沙汰しております」と軽くお辞儀をした。「外に物乞いの方がいたのですが何かあったのですか? 救貧院には入れないのですか?」


 チャルソン牧師は私とローズマリーを何度も見てから首を横に振った。


「お嬢様方に言えるようなことではありません」

「どうして? 前は話してくれたじゃない?」と思わず私は距離を詰めた。

「あなた方はまだ子どもでしょう」と牧師は距離を離した。「確かジョセフィン様が現在13歳、ローズマリー様も12歳でしょう?」

「理由だけでも教えて下さい。そうでないと今夜眠れません」とローズマリーも詰め寄った。


 ローズマリーの目力に負けた牧師はハァと話し始めた。

 ゴーディラックによりティレアヌスの国土が削られた。辺境の方には信仰熱心な人が多かったが、争いで多くの人が命を落とした。その影響により教会に入る税金がかなり減っていたらしい。

 ついでに貴族の教会と平民の教会は会計が別。だから貴族が多額の献金をしたところで、救貧院や孤児院には関係がない。


 話し終えると、チャルソン牧師は心配するように私たちの顔を見た。


「さて、次はあなた方のお話を聞きたいですね。ジョセフィン様、生家に戻られたと風の噂で伺いましたよ」


 私はぎゅっと拳を強く握りしめた。


「チャルソン牧師。私に何かできませんか? 私がお祖母様と一緒にいた時のように何かしてもいいですか? いいでしょう?」

ジョセフィンとローズマリーをもっと絡ませたい。

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