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掲載日:2025/10/25

桜舞い散る。

新たな旅路に胸を躍らせる若葉で、校門は埋め尽くされている。そんな新緑を横目に、遼は静かに歩みを進めた。

彼が『2年10組』の文字を見つけた瞬間、中から声が溢れ出ていることに気づいた。青春を謳うような音だったが、遼には遠い世界の音だ。

彼は、迫り来る閉塞感を思い浮かべ、1人息を詰める。


逃げ場のない瞬間は、無常にも訪れる。

しかし、彼を除いて誰も苦悶の表情など浮かべてはいない。それもそのはず。何気ない自己紹介の時間だからだ。

ある者は緊張で表情が強張り、ある者は笑いを生む。至って平凡な時間。


時は来た。

名前を呼ばれた瞬間に心臓が跳ね上がる。

遼は逃げ出したい衝動を押し殺し、ゆらりと前へ進んだ。

そして口を開いた。


「りょりょりょ遼って言います」

「よよよよろしくお願いします」


勇気を振り絞った遼を他所に、彼を見下すような悪意が散っていた。

言葉を出すたびに、喉の奥で何かが引っ掛かる。今日も駄目だったと彼は肩を落とした。


自己を上手に表現できた者のもとには、人集りができていた。一方で、自己を曝け出せずに視線を下に向ける者もいた。

そして遼は、本を広げていた。

黙読で吃ることはない。

自分の世界に入り込めば吃ることはない。

誰も自分に話しかけなければ吃ることはない。遼は話すことから逃げていた。


遼の心の世界には、物心がついた頃から今もなお、築かれている巨大な壁がある。この壁を打ち壊すことは容易ではない。しかし、この壁に僅かなヒビが入った。


「読書好きなの??」


表情を変えず、声の方に視線を向けた。

そこには鏡のように艶やかな黒髪を揺らす少女がいた。

遼が小さな頷きで答えると彼女はすずと名乗った。

早く話を終えたかった遼は、紙に『よろしく』とだけ残して彼女に渡した。

紙を受け取ったすずは、遼を真似るように必死に文字を書き連ねた。

彼女が一生懸命に筆談した紙を広げると

ーーなんとまあ、ひどい字だ。

遼が『字が汚くて読めない』と伝えると彼女は頬を膨らませて可愛らしく怒った。


教室が疎らになった頃。

またしてもすずが話しかける。


「一緒に帰ろうよ」


なぜ...?

この世に自分と帰りたい人間がいるのか?

いるわけがない。

そうだ。きっと罰ゲームだ。

短く様々な思考を巡らせた。

しかし、遼の思考は全て的外れだと、彼女の目が物語っていた。

好奇心に満ち溢れた目。

これは嘲笑によって向けられた目ではない。

こんな自分をもっと知りたい。

そう彼女の瞳は言っていた。


日が傾き始めた桜鈴町。

川面は橙に染まり、風は春を運んでいる。

桜鈴町には大きな川がある。

川沿いには洋風の石畳が続き、人影がぽつりぽつり。

そんな道を2つの影がゆく。

ふと目を離すと、小さくなる背中を追いかける影。


「私と2人の時は話してほしいな!」


すずは微笑みながらそう言った。

遼はゆっくり立ち止まった。

そして、ポケットからスマートフォンを出し、メモ帳に文字を打ち始める。


『どうせ上手く喋れないから嫌だ』


メモ帳に打たれた冷たい文字の羅列。

それに対し、彼女は「無理にとは言わないけどね!」と笑った。


別れの時は突然訪れる。

すずが「じゃあね!」と告げると遼は静かに手を振った。

これまでに、別れが惜しいと思ったことがあっただろうか。

光のない人生に一筋の道が差す。

遼は誰にも高揚を悟らせぬよう帰路についた。


暦は慌ただしく駆け抜け、桜の涙が枯れた頃。

夕日は目を覚まさず、澄んだ空は待ち焦がれる。

また川沿いの道を2人。


遼は無機質に文字を打つ。


『会話もしていないのになぜ自分と帰りたいの?』


こんなことを言わせる自分が憎い。


「理由なんてない!」

「遼くんは私といて楽しいの?」


こう、すずは言った。

遼は驚いた。

質問を返されると思ってなかったからだ。


『普通に接してくれるから楽しい』


彼女の目を見ることなく、画面を向ける。

彼女は親指を立てて喜んだ。


去り際にすずが、自分を卑下するのをやめるようにと言ってきた。

それに対し、遼は頷くことをしなかった。

しかし、心の奥で何かが動き始める。

目覚めた夕日が遼を優しく染めていた。


春の背中を追う夏が、緑を運んでくる頃。

長く澄んだ空は緑の育みを静かに支える。

遼が口開く。


「すすすすずさん!」

「ははは花火大会に行かない?」


ーーこれは自分が発した言葉なのか?

喉の奥が詰まるだけでなく、心が熱い。


「私もちょうど行きたいと思ってた!」

「行こっか!」


彼女は屈託のない笑顔で答えた。

遼は想いを、声で伝えることができたのだ。


川面が揺れるたび、無数の光が踊り出す頃。

闇は花が咲くのを待ち侘びる。

陽気な提灯が浮かれる人々を照らす。

遼は落ち着かない様子であった。

彼女は本当に現れるのだろうか。

現れてしまっていいのだろうか。

そんな彼の不安を、はぁはぁと息を切らした声が打ち消す。


頬を少し赤らめ、水色の浴衣を身に纏うすずがそこにいた。

彼女は大袈裟に手を振る。

屋台が立ち並ぶ光景を見てきゃっきゃと喜んでいる。

全てが愛おしくてしょうがなかった。

そんな彼女を見て、遼は生きる意味を少し見つけた気がした。


漆黒に花が咲いた。

弾けた花は辺りを照らし、空へと溶ける。

遼は驚いた。

鼻の先で靡く黒髪が、美しかったからだ。

また、振り向く様も美しい。

しかし、時計の針は定められた歩幅で進む。

やがて、花は咲くことをやめた。

あと一度でいい。

咲いてはくれないか。

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