暗雲
娼館街での一件から七日が経った。
アリシアとミアは、娼館の一室で向かい合っていた。テーブルの上には温かい紅茶が置かれているが、二人ともほとんど手をつけていない。
窓の外からは、娼館街の賑やかな声が聞こえてくる。昼間でも活気のある場所だ。客引きの声、商人たちの会話、笑い声。
でも、この部屋の中だけは、妙に静かだった。
「アリシア様」
ミアが口を開いた。
「私……覚悟していたつもりだったんです」
アリシアは紅茶のカップを手に取ったが、すぐにまた置いた。
そしてミアの目を見た。今にも溢れ落ちそうな涙をなんとか留めている大きな瞳を。
「うん」
アリシアが頷くとミアは窓の外を見た。
「あの日からずっと、皆んなが『良かったね』『スッキリしたでしょ』って言ってくるんです」
アリシアは黙って頷いた。
確かに、あの夜以来、娼館の女性たちは興奮気味だった。
オリバーが駒鳥屋の大旦那に公衆の面前で説教され、『モモヒキ公爵』と呼ばれて逃げ帰った話は、娼館中に広まっていた。
娼館に商品を届けに来る商人たちや客から、オリバーの家が取引でも被害が出ていることも伝わっていた。
この騒動に一躍買っている娼館の職員たちは、日頃偉そうにしている貴族の迷惑客に一杯食わせることが出来て嬉しそうだった。
「次期公爵様ざまあみろって、もう二度と偉そうな顔できないわねって」
ミアは小さく笑った。でも、その笑顔はどこか寂しげだった。
「ええ」
アリシアも窓の外を見た。ミアと同じ景色を見ようとした。
「皆んな、喜んでくれています。だから言えませんけど……」
ミアは紅茶を一口飲んだ。茶器はカタカタと小さな音を立てた。
「私は、全然……嬉しくないです!だってあれは私が傷つけられた復讐じゃありません。無能なアイツがアリシア様の補助輪を要らないと言って一人で転んだだけです……!」
その言葉に、アリシアは何も答えられなかった。
そう。二人は何もしていない。
オリバーが勝手に遊び呆けて、勝手に商談に失敗して、勝手に派手な服を着て娼館に来て、勝手に駒鳥屋の大旦那に説教された。
全てオリバーの自滅だった。
あの夜二人は意気込んでいた。なまじオリバーを懲らしめることが出来たから。
まさかその成功が二人の足枷になろうとは思わなかった。
「今、復讐したら、きっと過剰だと言われます」
ミアは呟いた。
「なんなら言われました。何も聞いてもいないのに、洗濯係の女性に、これ以上目立ちたがらないようにって……」
アリシアは答えられなかった。
ここまでの騒動になるとは予想していなかった。
普段のオリバーや貴族の子息が、娼館の職員にどれほど迷惑を掛けているか、彼らがどれほど鬱憤を溜め込んでいるか知らなかった。
そしてアリシアとミアに手を貸すと言う名目で、駒鳥屋の大旦那に声を掛けたり、噂を拡散させられる拡声器のような人物を騒動の見物の輪に呼び込むことが出来るという影響力も知らなかった。
家庭教師に推挙された国内屈指の学校では主席だった。
十五歳で婚約させられてから、様々な苦労があったが、公爵家ビジネスも婚約者の不始末もどうにかやってきた。
負け知らずだったアリシアだったが、世間は想像以上に広く、知らないことがありすぎた。
現実では、足のつくコーヒーハウスは使えないし、持ち出せた金品だけでは身元を隠せる宿に泊り続けるのも不安だし、そちらもすぐに足がつくだろう。
一週間前の朝、ブラウン家から飛び出した時は、バレそうになったら居場所を転々としてやろうと思っていたが、こんな騒動になってしまっては難しい。
駒鳥屋の大旦那を呼んだことが発端のように思えて、自分達だけで進めれば良かったと思ってしまう瞬間もある。
だがそんなことはない。
計画の開始早々でこうやってつまづいてしまうくらいには世間知らずなのだから、アリシアとミアだけではあまりにも力が足りないのだ。
娼館に匿ってもらえたことは運が良かった。
マダム・ロザリンドは迷惑客を出禁にするしかない流れで出禁に出来たことは素直に嬉しいと言っていて、しばらく滞留して良いと申し出てくれた。
「今外に出るのは危ないでしょう、あなた達、特にグレイ嬢はあちこちで探されているからね」
オリバーもそうだろうが、オリバーの父がこの状況をいつものようにアリシアに尻拭いさせるつもりでいるだろうことが容易に想像出来る。
きっとグレイ家にも連絡しているだろう。両親は娘が見つかろうがいなくなろうがどうでも良いだろうけれど、ブラウン公爵との婚姻で手に入るはずだった金は惜しいはずだ。
どうなっても構わないと自棄になって行動してみたが、まだまだ詰めが甘かった。
「助けてもらったんです、居場所も食べ物も貰って、きっと善意で駒鳥屋の大旦那を呼んでくれて……、確かにあの時はスッキリもしたんです。だから、その人達に復讐なんてやめろと言われたら……すぐに反論はできません」
そうなのだ。善意で動いてくれたことだからややこしい。
彼らが普段の憂さ晴らしのためにやったのであって、アリシアとミアのためだけではないとしても、少なくとも、そこにアリシアとミアの復讐を止めてやろうという悪意はなかった筈だ。
「先程来られた遊女のエカテリーナさんも、犬に咬まれたようなものだと思えと、一回くらいで喚くのは恥ずかしいと仰っていましたけど……」
駒鳥屋の大旦那に早手紙を出してもらったお礼に伺おうとしたら、向こうから来てくれた。
彼女はきっと遊女になるだけの事情があって、今まで辛いことがたくさんあったのだろう。
けれどエカテリーナは穏やかな人柄で、特に騒動について良くも悪くも言わなかった。ミアへのアドバイスはきっと彼女の善意なのだ。
「でも私は、やっぱり辛いです……。自分があんな男に好き勝手されて良いとは、思えないです。それについて反省させたい、謝らせたい、世間にアイツがしたことを悪いことだと伝えてやりたいです……!」
アリシアは巻き込んでしまったミアに涙が紅茶に落ちるのを見て、自身を恥じ入った。
「その通りよミア、ミアは私の大切な親友なんだから……!」
アリシアは両膝の上で拳を強く強く握りしめた。
絶対に負けない。
アリシア一人なら今までのように感情を殺して、これで手打ちにしてやることも出来たし、きっとその方が楽だろう。
でも、それは正しくない。正しくないことをミアにまで強制したくない。
「あの野郎……!ミアを泣かせて許せない!絶対絶対許さない!ちょん切ってやる!」
ミアはそんなアリシアを見てクスッと笑った。親に売られ、男に弄ばれ、金で買った一代限りの貴族の娘という貴族からも庶民からも色眼鏡で見られる立ち位置で頼れる人もなく、絶望しかなかったミアを、アリシアはいつも軽やかな気持ちにしてくれる。




