婚約者のベッドに知らない女が寝ていました。
月明かりどころか昇り始めた朝陽が薄く差し込む廊下を、アリシア・グレイ侯爵令嬢は、スライムと見間違うような重い足取りで歩いていた。
手には今日一日で仕上げた報告書の束。
本来ならアリシアの婚約者である次期公爵、オリバー・ブラウンがするべき領地経営の分析から、隣国の取引先との交渉の下準備まで。
いつも通り、ぎりぎりになって丸投げされた仕事だった。
「また今日も遅くなってしまった……」
本来、結婚前のご令嬢が、婚約者の家とは言え度々外泊をしているというのは体裁としてあまり良くないことだ。
だが、ビジネスに関してはてんでダメなオリバーのため、ブラウン公爵家が賢い女性を求めてアリシアと婚約させたのは有名な話だった。
最近のブラウン家の順調さから、その立役者が誰なのか皆理解していた。
おまけに家の成功の割にはオリバーが毎夜パーティーで派手に遊んでいたので、同情こそするが、誰もアリシアをそのような視点で疑いはしなかった。
「あの顔だけ男め、この家計状況でよくあんなに散財しやがっ……、いやいや大丈夫。北の魔獣被害についてはやっと国と補償金の額で折り合いがついたし、鉱山が使えなくなったのは痛かったけど、この隣国との商談が上手くいけば……」
公爵や公爵の従者も勿論いるのだが、次期公爵としての箔と経験が必要なため、オリバーに任された仕事を、彼はアリシアに全てぶん投げて遊び回っているのだ。
「殴りたい……、あの何も詰まっていない頭をぺしゃんこに……。いやいやダメよ、さすがに睡眠不足で思考が物騒すぎるわ」
明日の夕刻にはこれらの書類が必要で、オリバーが作ったことにするため、一応彼の机の上に置く必要がある。
奴は今日もどの業者から買ったのか問い質してやりたいギラギラした服で、パーティーに出席していることだろう。
そして頭に何も詰まっていない埋め合わせなのか、顔の造作だけは立派なので、女性たちに持ち上げられて鼻の下を伸ばして、根拠のない自信を増幅させているのだろう。
明日もきっと会議のことなどほとんど頭にないまま、昼近くに戻って気持ち良く夕方くらいまで寝る。
そして準備をしなければと従者に起こされて、平気な顔でこう言うのだ。
「アリシア、例の件はどうなっている」
さも自分が全てを把握しているかのように尋ねてくる。
そして彼は交渉の場でも鷹揚に頷くだけで、何も把握してはいないのだ。
思わず怒りを叩きつけるようにノックしてしまったが、返事はない。いつものことだ。アリシアは少しの罪悪感でそっとドアを開けた。
部屋は薄暗く、ベッドには人影が見える。
珍しくオリバーが寝ているかもしれないので、慎重に近づいた。
しかし、その髪は金色ではなく、艶やかな栗色だった。
「……嘘でしょう」
ため息が自然と漏れた。
もう何度目だろう。浮気をするのは。
最初の頃は胸が締め付けられるような思いをしたものだが、今ではもう何も感じない。
アリシアは机にドサっと資料を置くと、疲れ切った体を、無駄に広いベッドに横たえた。
もうどうでもいい。
この女性がどなたであろうと、私は眠い!疲れた!休む権利がある!
そのまま、深い眠りに落ちた。