弱点
体育が苦手な明るい人間というのを、僕は見たことがない。もちろんどこかにはいるのかもしれないけれど、少なくとも僕がこれまで17年生きてきた中でそんな人間には出会ったことはないし、これからも出会うとは思えない。
学生生活において、運動能力は想像以上に影響力を持つ。走るのが遅い。球技が苦手。それだけで見下され、ヒエラルキーの上層に立つことは許されない。常に自分は周囲より劣っているのだということを自覚させられ続けるような日々を過ごした人間が、どうして明るくなどなれようか。
「キーンコーンカーンコーン」
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り、僕は現実へと引き戻される。イヤホンとアイマスクを外し、午後からの授業が何だったかを思い出しながら教室へと戻る。体育館裏にあるこの場所の唯一の弱点が、「体育」という時間のことを思い出させることだった。
僕は、学校自体はそれほど嫌いじゃない。別に大好きってわけでもないけれど。勉強はできる方だから授業は楽しいし、そりゃまあもちろん面倒に思うこともあるけれど嫌いになるほどの嫌なことというのもそうあるわけじゃない。
そんな学校で、体育の次に嫌いな時間がこの昼休みだ。自由な時間にどんな過ごし方をするかで、その人間のことは何となく知った気になれてしまうと思う。例えば、昼休みに一人で本を読んでいる人を見ると、その人もきっと体育が苦手なタイプなのだろうな、と勝手に思ったりする。もちろん実際にはそんなことないのかもしれないし、たった一側面だけを見てその人間のことを知るなんてのは不可能だ。
けれど、この「知った気になれてしまう」というのが僕は嫌だった。人に対して傲慢にもレッテル張りをしている自分のことも嫌いだし、同じことをされているのだろうと周囲の目を気にしてしまうこの肥大化した自意識がなにより大嫌いだ。もちろん頭では分かっている。別にみんな僕に興味なんてないし、僕が何をしていようが何も思わないだろう。そもそもだれも僕のことなど見てすらいないのだと思う。けれど、じゃあそれが分かったからといってこの肥大化した自意識が収まるかと言われればそんなことはなくて、だから高校に入学したての頃は昼休みのたびに周囲の視線から逃げるための場所を探しさまよった。
そうして見つけたのが、体育館と部室棟の間にある小さな空間だった。屋根のお陰で雨風もしのげるし、外廊下からすぐに行けるから靴を履き替える必要もない。そして何より、誰からも見られない。この場所の存在に気づいている人間が、果たしてこの学校にどれだけいるのだろうか。そのくらい目立たない場所だった。
この安住の地を見つけてからは、僕は毎日のようにここで昼休みをやり過ごしている。とはいえ結局学校の中にいる以上は絶対の安心は得られなくて、だから僕は現実から逃げるために毎日ここで昼寝を試みていた。試みていた、と言ったのは、未だに成功していないからだ。やはり一応は屋外であるということが影響しているのか、それとも誰もいないはずのこの場所においてすら僕の自意識は暴走しているのか、いつもなぜだか眠気がやってこない。少しでも眠れるようにと、今日は新しい試みとしてアイマスクを付けてみたのだが、全く効かなかった。
そもそも日陰になっていてそこまで明るい場所ではないのだから、アイマスクの必要性も怪しいものだ、などとぼんやり考えながら歩いていると、気づけばもう教室の前に立っていた。
「うわーてか普通に今日部活あんのだりぃわ」
「それなー」
声の大きさと運動神経にはある種の相関がある気がする。扉越しに聞こえてきたサッカー部の声で、僕はその仮説をより強固なものにした。今更言うまでもないかもしれないが、僕はサッカー部に所属するタイプの人間が最も嫌いだ。出来れば一生関わらずに生きていきたい。向こうだって僕なんかと関わりたくはないだろうが、それはそれで癪に障る。
「席につけーもう授業はじめるぞー」
僕の後ろから教室に入ってきた教師の声で、教室は静かになる。そういえば午後の授業は現代文だった。
「じゃあ前回の続きからな。『こころ』の上、教科書134ページを開け」
ページを捲り、授業へ意識を向ける。そうしている間は僕も他人を気にしなくて済む。僕が気にしていないのだから、周りも僕のことなんて気にしていないはずだ。数十人の人間がいるこの教室で、この時間なら僕は一人でいられる。改めて考えると不思議なものだ。
「まずは眠気覚ましに音読でもしてもらうか。4行目からの『先生』の台詞を……佐伯、読んでみろ」
名前を呼ばれて、一瞬意識が引き戻される。慌てた様子を見せないように、と意識するあまり逆に不自然な調子で、指定された箇所を読み上げる。
「……そんな鋳型に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。」
そこまで読み上げて、ちらりと右隣に視線をやる。そこには、さっきまで騒がしくしていたサッカー部の一人、神谷がいた。僕は、彼が嫌いだった。悪人だからじゃない。むしろその逆、善人だからだ。
神谷は、すべてを持っている人間だった。学力、運動能力、容姿、性格、あらゆる能力が軒並み高水準。まるで「天は二物を与えず」ということわざを真っ向から否定するために生まれてきたような存在だ。じゃあ、なぜそんな彼が嫌いなのか。悔しいけれど、その理由にもっとも近い言葉は「嫉妬」になる。
例えば、彼はきっと、球技でエラーをした時の、あの周囲から向けられる無機質な視線の攻撃性を知らないだろう。文化祭の準備で輪にうまく入れず、一人で「何かしているフリ」をして過ごす虚しさも、唯一の取り柄だった勉強で一位になれなかったとき、自分のアイデンティティが音を立てて崩れていくあの恐ろしさも、彼はきっと知らない。彼のように、失敗も敗北も知らないまま生きてきた人間がいるという事実に、僕は心の底から嫉妬しているのだ。
そんなことを理由に彼のことを嫌うなんてのは見当違いだってことくらい僕も分かっている。分かっているけれど、かと言って素直に彼のことを尊敬できるほど僕は強くない。そしてだからこそ、僕は「先生」の台詞には同意できない。彼は、いざという間際にもきっと善人だ。けれど、だからこそ恐ろしいのだ。彼が悪人に変わってくれるのなら、そんな弱さがあったのなら。僕に一つでも彼を嫌ってもいい真っ当な理由を与えてさえくれたなら、僕も少しは救われたはずなのに。
僕が意識を内側に向けている間にも、僕の外側では授業が淡々と進んでいた。誰も僕なんかのことを気にしていない、そのことに安心して、それから僕は、教科書に視線を戻し、いつものように授業へ意識を向けた。
次の日の昼休み、いつも通り体育館裏へ行くと、誰もいないはずのそこに先客がいた。
「まじか……」
その先客は、僕の姿を見るとわかりやすく「しまった」という顔をした。その理由は、彼の手元を見れば明白だった。
「えーと、佐伯くん、だっけ」
名前を呼ばれた瞬間、僕は驚きのあまり、少しだけ足を止めた。その時、彼が手に持っていた煙草の火を慌てて消すのが見えた。
「そのー、なんだ、みんなには黙っていて欲しいって言ったら聞いてくれるかな?」
彼の動揺する様子を、僕はこのとき初めて見た。
「まあ、言う相手もいないし」
僕がそう答えると、彼は笑った。
「はは、確かに」
最初、僕はそれが聞き間違いだと思った。神谷の口から、そんな露悪的な言葉が出てくるとは思えなかったからだ。
「君友達少なそうだもんな」
彼は爽やかな笑顔のまま、一切の悪意を感じさせない完璧な表情で、そんなことを言ってきた。
「まあ見られたのが君で良かった、と切り替えることにするよ。もう見られちゃったもんはしょうがないしね」
彼は一方的にそう告げると、教室の方へと戻っていった。奴のせいで自分の行動が変わったと思われるのも癪なので、僕はあえてそのままそこでいつも通り寝転がった。まさかあの神谷が煙草を吸っていたなんて。というか、あんなことを言う人間だったなんて。頭の中はパンク状態で、いろいろな思考が巡っては消えて行き、でも結局どう考えたって何もわからないままだった。
視覚はアイマスクで、聴覚はイヤホンで遮れる。じゃあ嗅覚はどうしたらいいのだろう、と、半ばやけくそになった僕は、煙草の甘い残り香を嗅ぎながらそんなことを考えた。今日もアイマスクは効かなかった。
その次の日の昼休み、またしても彼はそこにいた。
「なんでいるんだよ」
「いちゃまずいのかい?」
彼は悪びれもせずにそう言うと、こちらに構うことなく紫煙を吐いた。
「いるのはまあいいけど、煙草はまずいだろ」
もちろん、いるのも全然良くない。けれど、それを言うのはなんだか負けた気がして嫌だった。
「一度バレちゃったならもう一緒かなって思って。それなら、せっかくいい場所を見つけたのに使わないのは損だろう?」
神谷がここを「いい場所」と表現したのが、少し意外で、そしてどこか嬉しかった。例えそれが「都合のいい場所」という意味に過ぎないとしても。
「俺が誰かにバラすとか思わなかったのか?」
もし今日僕がここに先生でも連れてきていたら、神谷は現行犯逮捕だっただろう。
「だって君、昨日誰にも言わないって言ってただろう」
「そうだけど、なんつーか、少しは焦ったり怖がったりしないのかってこと」
「焦ってはいるさ。すごく怖がってもいる。君にはわからないかも知れないけどね」
そう話す彼からは、焦りも恐怖も一切感じられなかった。いつもどおりの完璧な笑顔で、彼が何を考えているのか全くわからない。僕はだんだん彼に恐怖を感じ始めていた。
「一本いるかい?」
唐突に差し出された煙草に困惑しながらも、僕は反射的に首を横に振った。
「だと思った。吸わないに越したことはない」
そう言った時、彼の表情に少しだけ隙が出来た、ような気がした。
「高校生のくせに知ったような口を利くんだな」
「まあ少なくとも君よりは知ってるからね」
「そんなものを知っていたってなんの自慢にもならないだろ」
「ああ、もちろんその通り。むしろ知らない君が羨ましいくらいだ」
「皮肉か?」
「本心だよ」
本当に、何を考えているのか分からない。あの神谷が、僕を羨むだなんて。冗談にしても趣味が悪すぎる。やがて、煙草を吸い終えると彼は立ち去っていった。
こいつにペースを乱されているわけではない、と自分に言い聞かせるように、僕はいつも通りその場に寝転んだ。こういう時意地になるのは僕の悪い癖だ。効かないと分かっているアイマスクを今日もつけてしまったのだって、この悪癖のせいだろう。
それから、彼は毎日のように体育館裏へ来るようになった。僕はと言えば、一人になれなくなった時点でこの場所に来る意味はないはずなのに、変な意地を張ってむしろこれまで以上に欠かさず来るようになっていた。神谷はイヤホンとアイマスクを付けている僕に話しかけてくるようなことはなく、ただ煙草を一本吸って帰っていった。
あいつのことだから僕が眠ってはいないことくらいお見通しなのだろう。つまり向こうも僕と必要以上に話すつもりはないということだ。それは僕にとっても都合の良いことだった。都合の良いことではあるが、こちらばかり相手のことを意識しているというのも気分は良くない。少しくらいやつにも僕のことを意識させてやらないと不公平だ。だから、時折起こる会話はいつも僕から声をかけることで始まるのだった。
「それ、いつから吸ってるんだ」
「中学の頃かな」
「どうして吸い始めた?」
「さあ、どうしてだろうね」
「答える気がないならそう言えよ」
「答える気がない」
「いちいち癪に障るやつだな」
「わーさえきくんこわーい」
「煙草吸ってると早死するぞ」
「もちろん知ってるよ」
「死にたいのか?」
「そうなのかもね」
「じゃあそんな回りくどいことしてないで富士の樹海にでも行ったらどうだ」
「なるほど、たしかにね」
「……は?」
「はは、冗談だよ。君から仕掛けたのに君がたじろぐなよ」
「未成年なのに煙草なんてどうやって買ってるんだ?」
「そのへんのコンビニだよ。別に年齢確認なんてされないし普通に買えるんだ。佐伯くんは知らないだろうけど」
「う、うるさいな。そういうことじゃなくて、その、金をどうやって工面してるのかっていうことだ」
「相変わらずわかりやすいねぇ。まあそういうことにしておいてあげよう。ちなみにお金については秘密だよ」
「ちっ。ああそうかよ」
「ちなみに僕が吸ってるのはピースって煙草でね、ちょっと高くていいやつなんだ」
「聞いてない」
「なあ、ここで煙草吸うのやめてくれないか」
「僕だって吸いたくて吸ってるんじゃないよ」
「じゃあなんで」
「佐伯くん、人間には逃げ場ってのが必要なんだよ。君にこの場所が必要だったようにね」
「答えになってない」
「そんなことはない。佐伯くんには少し難しかったかな」
「お前本当に嫌なやつだな」
「そんなの当たり前だろう?何を今更」
いつもうまい具合にやり込められて、会話を打ち切るのも僕の方からだった。そんな調子だから、一年近く毎日のように会ったにも関わらず神谷については何も分からないままだった。そもそも分かりたいとも思わなかったけれど。一年経って僕と神谷は別のクラスになり、ますます接点は減っていった。そして、ある日突然彼は来なくなった。煙草がバレて退学処分となったと知ったのはその次の日だった。
いわゆるいじめられっ子というやつだったのだそうだ。神谷の出身中学は隣町で、高校からは電車で二時間ほどかかる場所にあった。だから彼に中学からの同級生はいなかった。あの神谷が退学処分、というショッキングなニュースを受けて、ようやくどこからか彼の過去についての噂が流れ始めた。それは、今の神谷からは想像もつかないような話だった。具体的な内容についてはあえて触れようとは思わないが、話を聞く限り彼に非があったわけではないのだと思う。きっと、ただ運が悪かったのだ。けれど、本人にとってはそんな言葉で済まされるようなことではなかったはずだ。僕には想像しかできないけれど。
そう、僕には想像しかできない。なぜなら、僕は何も知らないから。あんなに毎日一緒に居たのにも関わらず、何も知らない。当然だ。だって知ろうとしなかったのだから。一方的に彼のことを完璧な人間だと決めつけて、苦しみなんて味わったことがないと思い込んで、高校生にして煙草なんてものに依存しているというこれ以上ない「弱さ」を見てもなおそこから目を背け続けた。いつだったか、彼が弱さを見せてくれれば僕も救われるかも知れない、だなんて宣ったこともあった。けれど実際には、その真逆だった。彼の過去を知って最初に味わったのは、敗北感だった。ああ、敗北という尺度ですら、僕は敗北しているのだ。これを知るのが怖くて、僕は彼から目を背け続けていたのかもしれない。
「むしろ知らない君が羨ましいくらいだ」
これは、彼の本心だったのだ。僕が彼に対して抱いていた感情は、苦しみを知らない人間に対する嫉妬は、むしろ彼から僕に向けられていたものだった。
そもそも、失敗も敗北も知らない人間が、あの場所を見つけられるはずがなかったのだ。逃げ道を必要としない人間には、きっとたどり着けない場所だった。だからこそ、彼も僕には少しだけ弱さを見せられたのだろう。同族意識、とまで言うのは烏滸がましいことだけど、それも大きく外れてはいないと思う。愚かな僕はそんなことに今になってようやく気がついた。もう、全てが手遅れとなったあとに。かつて周りからいじめられ、否定され続けてきた彼は、だから本当は「体育が苦手な明るい人間」だったのだ。
昼休み、いつもの場所。彼の残すあの甘い香りのことが、僕はいつの間にか好きになっていたようだった。嗅覚で彼の不在を感じながら、聴覚を閉じ、そして視覚を閉じる。結局これまで一度も効いていないそれは、今日初めて想定とは違う形で役目を果たした。
「キーンコーンカーンコーン」
予鈴の音は、僕が現実から逃げることを許さない。イヤホンを外し、湿ったアイマスクを鞄にしまいながら、教室へと戻る。自らの愚かさを思い出させるのが、この場所の2つ目の弱点になった。