クニラヤ
「真崎さん。おはよう」
「お、おはよう彩昂君……」
洗面所で、ブラシで髪をとかしている真崎さんと会ったので挨拶をする。二度目だけど、武士の情けだ。部屋での出来事は無かったかのように振舞った。
このまま、真崎さんも無かった事にするならそれでいいと思っていたけど、そこは育ちの良い真崎さんだ。真っ赤になりながら、僕に向かって寝ぐせのついた頭を下げてきた。
「さっきはごめんなさい。私、寝ぼけてて、うっかり……」
「ああ、いいって。可愛いのが見れてクニラヤに感謝したくらいだよ。あ、クニラヤってのは、インカ文明の神話に出て来る月の神様でね、月とツキをかけて良い事があったらお祈りをする事にしてるんだ」
「それ、日本語のダジャレじゃない。ご利益あるの? 日本人は良い事あってもツクヨミ様に祈ったりしないよ」
「そういうのは気分だからさ」
月とツキは思いつきで言ったジョークなんだけど、向こうにいた時、僕がクニラヤに頻繁に祈っていたのは本当である。
シシメルは過去、ヨーロッパからの支配に最後まで抗った国であり、インカ文明から続く信仰が今も根強い。
生贄とかそういうのは流石に廃れてるけど、シシメルの人々の多くはイエス様より、太陽神にお祈りする。
僕は、別に彼らの文化に染まったわけでも、宗旨替えをしたわけでもない。シシメルで暮らす日本人としてのスタンスで生活していた。
食事の前には「いただきます」食べ終わったら「ごちそうさま」と言って、年始には初詣まがいの柏手を打ち、クリスマスには父の研究者仲間達が催すパーティーに参加していた。
そんな僕がなんでクニラヤに祈ってたかというと、クニラヤがクーの名前の元になった神様だからだ。
クーに惚れて、その名前の元になった神様に祈り始めた。
極めて思春期の少年らしい行動だ。でも恥じるつもりは無い。
マフィアに追われた2年間。クーの身を案じて、毎日のように祈ったさ。
僕はそんなに信心深い人間ではない。でも、マフィアを振り切って無事に日本に帰れたのだから、ご利益が無かったなんて言えないし、恥じる事も無い。
うつ向いていた真崎さんも、今は良い顔で笑ってくれてる。
クニラヤよ。ありがとう。
そしてクー。今すぐ君を抱きしめたい。
「なこーっ! あやたーっ! 早くこっち来て弁当作るの手伝え!」
「うっす」
「ふあい」
家中に響くようなみらい声に、僕と真崎さんは揃ったように顔を見合わせて苦笑する。
学生の朝は忙しい。ちんたらと甘酸っぱい空気を垂れ流している暇なんて無いのである。
長い髪にブラシをかける真崎さんに先駆けて洗面を済ませた僕は、急ぎ足で台所へと向かった。そこではみらいが、コンロに向かいフライパンを振るっていた。
卵が焼けるいい匂いに誘われて覗いてみると、慣れた様子で菜箸でくるくると玉子を巻いていくみらい。みるみる出来上がっていく工程に思わず魅入ってしまう。
「上手いもんだ」
僕が褒めたことで気を良くしたのか、みらいはにっと笑みを浮かべた。
制服にエプロンが死ぬほど似合っている。
何この幼妻感。クニラヤは、僕に浮気させようとしているのか?
「味見してみる?」
「いいの?」
「特別だからね」
切り分けただし巻き卵の切れ端を口に放り込む。
「んまい!」
「よし!」
みらいは僕の反応に満足したのか満面の笑みを返す。
「おかわり」
「だーめ! これはお弁当のおかずだからお昼まで我慢だよ」
そう言って、みらいは出来上がっただし巻き玉子を重箱に詰めていく。重箱には既にお浸しや、ポテトサラダ、ナゲットといったおかずばかりが詰めこまれている。結構量があり、ひとり分でないのは明らかだ。
「もしかして3人分作ってるの?」
「うん。今までは、なことふたりだったからお弁当箱も分けてたけどさ。あやたもいるしひとまとめにした方が楽かなって。昼休みになったら一緒に食べよ」
みらいと真崎さんと一緒に、食べる昼食はさぞ楽しいだろう。購買のパンでぼっち飯を覚悟していた僕は、まさかのお誘いに内心歓喜する。
クニラヤよ。ちょっとサービスしすぎじゃね?
「あ、ああ。なんか悪いな」
「いいって。昔、うちの親が忙しくて、運動会とか学校行事はほとんど来れなかったでしょ? それで、いつもおばあちゃん先生がこうやってあたしの分のお弁当も作ってくれたよね。その恩返しみたいなもんだからさ」
「それって、小学校2年生までの事だろ? そんな昔の事よく覚えてるな」
「忘れないって。それに、おばあちゃん先生は小6の運動会まで毎年見に来てくれていたからね」
「実の孫より、みらいの方がよっぽど孫してるよな」
「そうだぞ。ちょくちょく面会にも行ってるからね。誰かさんは5年間顔も出さなかったみたいだけど」
「う……悪かったよ」
一応、祖母とは年に2、3回は話をしている。モニター越しだけど……
あと、祖母は僕の配信も見てくれてたみたいだ。顔出しはしてないし、スペイン語だから吹替でだけど……
でも、父さんよりはマシだぞ? あの人、ビデオ通話でも後ろで手を振るくらいだから。
「あやた。せっかく帰って来たんだから、おばあちゃん先生にはちゃんと会いに行かなきゃ駄目だぞ?」
「うん。家も使わせてもらうし、学校が休みの日に行こうとは思ってるよ」
祖母が入居してる施設は杜兎市内にあるが、車を持たない学生が学校帰りに行くには厳しいくらいの距離がある。
「それでお願いなんだけど、面会に行くとき、みらいも一緒に行ってくれない? 僕ひとりだとなんか気まずくてさ」
「絶対怒られるってわかってるよね?」
「まあね」
それなんだよ。
祖母は優しいと同時に厳しい人だ。きっと、昨日の渚さんと同じように僕を叱るだろう。
「もー、しょうがないあやただなー。次の土曜日でいい?」
「うん。助かるよ」
「私も行っていい?」
すっと音も無く現れた悪戯な白魚が、だし巻きを一切れ攫って行く。
「あ!? こら!」
「んま~」
「もー!」
言うまでもないが真崎さんである。だし巻きをひと口で平らげた真崎さんは、目を吊り上げるみらいに向かって指を舐めながらてへぺろ……
なにこの可愛いの?
クニラヤよ。さては日本のラブコメに嵌ったか?
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