缶コーヒー
翌日は目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
スマホで時刻を確認すると午前6時。あと30分くらい寝られるけれど、喉が渇いていた僕は布団を抜け出す。
朝はまだ少し寒い。
寝間着の上にポンチョを羽織ると、財布を持って外に出る。目指すは自販機だ。
日本に帰ってきてから、僕は缶コーヒーにすっかり嵌ってしまった。
日本に着いたその日の夜。ファミレスで夕飯を食べてホテルに帰る途中、夜の公園で煌々と光る自販機に興味を持ったクーにねだられて、生まれて初めて缶コーヒーを買った。
僕が微糖でクーはカフェオレ。
公園のベンチでふたりで飲んだそれがとにかく美味かった。
美味しいコーヒーは他にも沢山ある。だけど、その時飲んだ熱い缶コーヒーは、胸に染み入るようで、とにかく美味かったのだ。
宮津家の玄関を出て、細い路地をてくてく歩いて表通りに出る。観光地だけあって、自販機はすぐに見つかった。種類も豊富だ。
『あったかーい、飲み物。どうでっか?』
しかも喋る。面白い。
僕はまだ買った事の無い銘柄と、最初に飲んでから気に入っている銘柄の2本を買って帰路につく。
一本はすぐに飲むからホットのブラック。もう一本は冷たいスタンダード。
冷たいのは脇に挟み、ホットの缶を手のひらで転がしながら帰路につく。
朝霧で白く霞む温泉街。既に旅館の方では、料理人の方々が仕込みを始めているみたいだ。飯を炊く匂いが漂ってくる。
『來畝』は、元は湯治に訪れる公家の別邸だったらしい。当時の建物は戦争や震災で失われてしまったが、門構えや庭園には、当時の面影が残されている。そんな『來畝』をぐるりと囲う塀の横を歩いていると、勝手口から、割烹着の男性が出て来るのが見えた。
見覚えがある。『來畝』で板長をしている宝田さんだ。
「板長さん! おはようございます!」
「ああ、おはようございます」
『來畝』に泊まっている客だと思ったのだろう。接客スマイルで挨拶を返した宝田さんだったが、その後で僕の事に気が付いたようだ。
「お!? 坊主、もしかして麻生先生のとこの坊ちゃんか?」
「はい。お久しぶりです。昨日はごちそうさまでした。刺身久々に食べたけど、めっちゃ美味かったです」
「いやいや。急だったんで良いネタが無くて悪かったよ。しかし、良い男になったなぁ。こりゃあ、みらいちゃんも張り切るわけだ」
「もう、揶揄わないでくださいよ。みらいは僕なんか相手にしませんて」
「そうか? 昔から仲良かったろ?」
「僕はただの子分ですよ」
「あはは!」
板長さんは昔からみらいの事を孫のように可愛がっていて、みらいに幸せになって欲しいという気持ちは人一倍強い。
正直これ以上話して、みらいとの関係について聞かれると面倒だと感じた僕は、話を切り上げて退散する事にした
「では、僕は学校行く準備あるからこれで」
「杜兎か?」
「ええ、まあ」
「ほうほう。こりゃあ、楽しみだ」
にまにました顔をしている宝田さんに曖昧な笑みを返して別れる。
宝田さんには悪いけど、みらいとの関係を期待されても困るのだ。
宮津家の前まで来て缶コーヒーを開けた。
熱いコーヒーを喉に流し込む。
ああ、美味い。
「おい。不審者。ひとんちの前で何をしている」
気が付くと背後にみらいがいた。
ジャージ姿で、わずかに汗ばみ、頬を火照らせている。
「おはよ。走ってたのか? 朝から元気だな」
「はよ。まあね。昨日の夜結構食べちゃったから。あやたは何してんの? 見た目めっちゃ不審者なんだけど? 普通に袢纏あっただろ? 日本の浴衣に南米合わせるな」
どうやら、日本のJKにアンデスファッションはまだ早すぎるらしい。
「コーヒーが飲みたくてさ。自販機まで行ってた」
「なんだ。ドリップ式のインスタントあったのに」
「勝手に使うのも悪いだろ? それに日本の缶コーヒーが美味くてさ」
「ふぅん」
「あ!?」
僕の手から飲みかけの缶コーヒーを奪うみらい。口をつけた瞬間、その顔がしかめっ面に変わる。
「苦っ! あやたよくこんなの飲めるな」
「だったら返せ。この美味さがわからんとはお子様め」
「なにおー! あやたのくせに!」
ムキになって、再び口をつけるみらいだけど、やっぱり苦いらしい。
「もう、無理するなって」
僕は缶を取り上げるとひと口含む。そして、ほっと一息。
「はあ、美味い……」
「あやた。なんかくたびれたサラリーマンみたいだぞ」
「それは光栄だな」
缶コーヒーは経済大国日本を支えてきたサラリーマンの相棒である。いずれは僕も、社会と家族の為に頑張って働く、缶コーヒーが似合う大人になりたいものだ。
「変な奴」
うるさいわい。
「そういえば、真崎さんは? 一緒じゃないの?」
「あの子はいつも遅くまで勉強してからね。いつもぎりぎりまで起きてこないよ。何? やっぱりあやたもなこが気になるの?」
「ニヤついた顔するな。これまでふたり一緒のところしか見てなかったから、今もどこかに潜んで、何か企んでるんじゃないかと思っただけだ」
「お前はあたしらをなんだと思ってるんだ」
小悪魔コンビですがなにか?
やたら距離近いし、スキンシップ激しいし、揶揄ってくるし、今だって平気で間接キスしてたよね?
通常、こうも積極的に迫られたら、何か含みがあると疑ってかかるべきだ。物を盗まれたり、弱みを握られて襲われたり、そういった事件に巻き込まれてからでは遅いのである。日本より治安の悪い海外にいた事もあって僕はその手の事に詳しかった。
美人局に結婚詐欺。実際色々来たからな。
みらいと真崎さんの行動に裏があるなんて思ってない。ただ単純に、天然で無防備なだけだから始末が悪い。もう少し自分の魅力を理解してくれないと、こっちの理性が持たない。
昨日なんて、僕じゃなかったらうっかり勘違いして、過ちのひとつやふたつ犯していてもおかしくなかったぞ?
「まあ、いいや。あたしはシャワー浴びるから、顔洗うなら洗面台先に使いなよ」
「え? 時間あるし後でもいいけど?」
「さては、あたしが上がったところを見計らって、うっかりを装って鉢合わせするつもりだな?」
「しないよ。でも一応ちゃんと鍵かけとけ」
まったく、どこのラブコメだよ。
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