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6.亀裂



 外部の医者に会いに行ったという妻が心配なレアンドロは、無意識のうちに公爵家の紋章が入ったハンカチを握りしめていた。


 昨年の狩猟祭でジュリエッタからもらったものだ。


 見事な刺繍は一目で心が込められていると分かるほどで、このハンカチをもらってやる気を出したレアンドロは王太子を差しおいて狩猟祭で優勝してしまった。


『まあ……こんなにたくさん、どうしましょう』


 レアンドロの狩りの成果を全て捧げられたジュリエッタが困惑していたのも本当に愛らしかった。


『要らないなら捨ててしまおう』


『いいえ! あなたが私のためにくださったものですもの。全部大切にいたしますわ』


 ジュリエッタに贈りものをすることはレアンドロの喜びの一つだが、ついつい贈りものの数で愛を表現してしまうレアンドロを優しいジュリエッタはいつも受け止めてくれる。


 そんな妻に何かあったのではと気が気ではないレアンドロは、仕事も手につかず報告を待ち続けた。


 数時間後、ジュリエッタが屋敷に戻ったと聞いたレアンドロはソワソワしながら妻の訪れを待っていた。


 常であれば外出のあとは決まってレアンドロのもとに顔を出し、愛情のこもった手紙を渡してくれる妻。


 しかし、普段なら真っ先にレアンドロのもとを訪れるジュリエッタがやってくる気配はなく、気落ちする主人を見かねたモランは仕方なくユナを呼びつけた。


「奥様のご様子は? そもそも奥様はなぜ外部の医者のところに?」


 モランから問われたユナは、先ほどのジュリエッタの様子を思い返しながら眉を寄せる。


「それが……奥様はなにやら思い詰めていらっしゃるようでした。奥様のご要望で私は席を外したので、あの医者となにを話したのかは分かりません」


 ユナの言葉を聞いたレアンドロは、居ても立っても居られずモランに先んじて口を挟んだ。


「やはりどこか具合が悪いのではないか?」


 いつも冷静な主人の取り乱しように目を瞬かせながらも、ユナは丁寧に言葉を選んだ。


「いいえ。まだ旦那様の魔力が残っていたのか厚着でお出かけされましたが、体調が悪そうには見えませんでした」


「ではなぜ……」


「お話の内容は分かりませんが、どうしてもあの医者に聞きたいことがあるとおっしゃっておりました」


 眉間に皺を寄せたレアンドロは、鋭い瞳を執事に向けた。


「モラン」


「はっ」


「ジュリエッタが会いに行った医者とは何者だ?」


 主人からの問いに、モランは眼鏡を上げて答えた。


「……変わり者と呼ばれる町医者です。腕は確かなようですが、奇妙な治療法を用いるため気味悪がる者が多いとか。最近では不可解な言動を繰り返す患者を積極的に診ているそうです」


 その情報を聞いたレアンドロは、普通であればジュリエッタが関わるはずのないその医者のことが気に障った。


「その医者の腕が確かだという根拠は?」


「治療を受けた多くの者が怪我や病気の症状が改善されたと言っているようです。まだ若いのに大したものだと」


 モランの言葉に引っかかりを覚えたレアンドロは、さらに声を低くした。


「……若い医者なのか?」


「え? は、はい。まだ三十代前半だと聞いております」


 主人からの妙な問いにモランが答えると、レアンドロは眉間の皺を濃くして再び短い質問を投げかける。


「……独身か?」


 そこでようやく主人の質問の意図を理解したモランは、少しだけ緊張を緩めて答えた。


「あ、そういうことでしたらご安心ください。その医者は女性だそうです」


 見知らぬ医者への嫉妬を募らせていたレアンドロは、眉間の皺をほんの少しだけ薄くして足を組み直した。


「別になにかを心配したわけではない。念のため確認しただけだ」


 見るからに落ち着きを取り戻したレアンドロに気づいたモランとユナは、小さく目配せをし肩をすくめる。


「とにかく、理由は分からないがジュリエッタはその医者の話を聞きに行っただけなのだな。大きく体調を崩したわけではないのだな?」


「はい」


 念を押されたユナが頷くのを見て、息を吐いたレアンドロは彼女を下がらせた。


「旦那様。念のため奥様の動向を探らせましょうか?」


 モランの言葉に一瞬頷きかけたレアンドロだったが、すぐに首を横に振った。


「……いや。ジュリエッタにも自由は必要だ。非常に気になるが、無理に詮索するのはやめてくれ」


 なによりもレアンドロは、愛する妻のことを信じているのだ。




 しかし、ジュリエッタの異変はそれだけではなかった。


「ジュリエッタはどうした?」


 夕食時、向かいの席がいつまで待っても空席なことに気を揉んだレアンドロが問いかけると、メイドから話を聞いたモランがそっと告げる。


「……食欲がないそうです」


 それを聞いたレアンドロは、途端に取り乱した。


 ガチャン、とレアンドロの拳がテーブルに落ちる。


「食欲が、ないだと?」


 いつだってジュリエッタは食べることが好きで、特にレアンドロの前ではなにを食べても美味しそうにしていた。


『あなたと食べる食事は格別に美味しく感じるの』


 そう言って笑っていたのが昨日のことのようなのに。


「やはり具合が悪いのではないか? 医者は呼んだのか!?」


 珍しく声を荒げる主人に戸惑う使用人達。


「それが……奥様は診察を拒否されて部屋に閉じこもっておいでなのです」


「なんだと……!?」


 立ち上がったレアンドロは、そのままの勢いで妻の部屋に向けて駆け出した。


 しかし、すぐに行く手をユナに遮られてしまう。


「旦那様……奥様はしばらくお一人になりたいとのことです」


 ユナ自身も戸惑っているのがよく分かるその声音に、レアンドロは血の気が引いていくようだった。


「それはまさか、ジュリエッタが俺に会いたくないと言ったのか?」


 朝目が覚めてから、陽が沈もうとしているこの時まで、レアンドロはジュリエッタの顔を見ていない。


 毎日のようにもらう手紙も、今日は届いていなかった。


 レアンドロの周囲が文字通り凍りつく。


 ピキピキと音を立てて大理石の床が凍り、その場の温度は急降下していった。


「ジュリエッタに嫌われたら……俺は生きていけない」


「旦那様! どうか落ち着いてください!」


 レアンドロの氷の魔力が暴走する気配に、モランが慌てて叫ぶ。


 揺さぶられて我に帰ったレアンドロは、凍った指先を見て心を落ち着かせようと努力した。


 幸いにも昨夜たっぷりと妻の熱の魔力を吸収していたレアンドロは、すぐに周囲の氷を溶かして魔力の暴走を阻止することができた。


「今は……ジュリエッタの要望通り一人にさせてやろう」


 冷静になったレアンドロは魂の抜けたような声でそう言うと、食事も摂らず執務室に戻ったのだった。






 就寝の時間になり、レアンドロは再び思い悩んでいた。


 一人になりたいという妻の寝室に行くべきではないのだろうが、どうしても愛する妻の顔を見たい。


 悩みに悩んだすえ、様子を見るだけと言い訳をしてジュリエッタの部屋に向かうレアンドロ。


 しかしジュリエッタの部屋に着く前に、レアンドロはコソコソと隠れる影を見つける。


「ジュリエッタ……?」


「…………っ!」


 ピクリと反応した影は、今にも公爵邸の長い廊下を駆けていってしまいそうだ。


「待ってくれ!」


 レアンドロの呼びかけに、ジュリエッタは足を止めてくれた。


 会いたかった妻の姿を見てつい呼び止めてしまったが、去ろうとした彼女の後ろ姿に気が動転して思うように言葉が出てこない。


 何度か呼吸を繰り返したレアンドロは、自分の言葉を待ってくれている妻に向けて口を開いた。


「ジュリエッタ、今日は……」


 手紙をくれないのか、と喉元まで出てきた言葉をレアンドロは呑み込んだ。


 これではまるで手紙を催促しているようではないか。


 ジュリエッタからもらう手紙は決して軽々しいものではない。


 いつだってジュリエッタの想いが込められた特別なものだ。


 それを当たり前のように欲しがるだなんて、どうかしている。


 自分は一通も返事を返せていないくせに、いつもと様子が違う妻に向けて言う言葉ではなかった。


 言い淀んだすえに、レアンドロは小さく咳払いをして話を続けた。


「いや。その……今日はゆっくり休んでくれ。昨日は俺のせいで無理をさせてしまってすまない」


レアンドロの言葉に顔を上げたジュリエッタの目には、涙が浮かんでいた。


「そんな、私の方こそ……いつもあなたに迷惑をかけてごめんなさい」


 ギョッとするレアンドロ。


「迷惑? なにを言っているんだ。そんなものは少しも……」


 言い募ろうとするレアンドロを遮って背を向けたジュリエッタは、そのまま顔も見せずに小さな声を出す。


「ごめんなさい、あなた。今日は疲れたので別の部屋で休ませてください」


「ジュリエッタ……ッ」


 駆け出していく妻を、レアンドロは必死で呼び止めるがジュリエッタが再び足を止めることはなかった。



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