5.Dr.クラウチ
「ジュリエッタが外部の医者に会いに行っただと!?」
報告を聞いたレアンドロは、普段の冷静な姿からは想像もできないほど取り乱していた。
「そんなに具合が悪いのか? なぜ公爵家の医者を呼ばない? まさか、もう公爵家とは関わりたくないほど俺に嫌気がさしたのか?」
ジュリエッタを一晩中抱き尽くした上に氷の魔力で凍えさせてしまった負い目のあるレアンドロは、彼女の体を心配すると同時に嫌われてしまったのではないかと肝を冷やした。
「落ち着いて下さい、旦那様。メイド達の話ですと、奥様はそこまで体調が悪そうではなかったといいます。普段より厚着をしていらっしゃったようですが、足取りは確かだったと」
「だったらなぜ……」
不安でたまらないレアンドロは、落ち着きなく部屋を行ったり来たりする。
「戻り次第、いつものように奥様は旦那様のもとを訪れるはずです。ですのでどうか冷静になさってください」
オルビアン公爵といえば何事にも動じぬ冷静さと圧倒的な氷の魔力で魔物を討伐する、泣く子も黙る最強の騎士。
戦場では一切の慈悲を見せず、国王の前でも物怖じせず意見を述べるほどの胆力は貴族達からも一目置かれ、類い稀な美貌は国民の憧れの的だ。
そんな彼が取り乱すのは、愛妻ジュリエッタに関することのみ。
座るという選択肢がないかのように部屋を行ったり来たりするレアンドロを追いかけながら、モランは深い深いため息を吐いた。
「前世の記憶について聞いてくるということは、奥様にも思い当たる節がおありなのですね?」
足を組んだクラウチは、深刻そうな顔をしたジュリエッタに向けて質問を投げかける。
「……えぇ。実は、夢を見たのです」
「ほう」
頷いたクラウチは持ち手のないカップに注がれた緑色の茶をずるずる啜ると、饒舌に話し始めた。
「私が診察した〝前世の記憶持ち〟達は、みんな一様に別世界のある国の名前を出しておりました。誰もがその国の出身で、その国で生きた記憶があると」
「まあ! あの……そ、その国の名前はなんですの?」
自分の見た夢と一致しそうなクラウチの話に、ジュリエッタは身を乗り出す。
再び茶を啜って間を置いたクラウチは、秘密を打ち明けるように声を落として告げた。
「〝ニホン〟という国です」
「…………っ!」
目を見開いたジュリエッタは、息を呑んで口に手を当てる。
その様子を観察していたクラウチは、目と口を三日月のように細めて囁いた。
「奥様。拝察するに、奥様もその者達と同じものを見たのではありませんか?」
ハッと顔を上げたジュリエッタは迷った末に小さく頷く。
「……そうです。私も、〝ニホン〟という国で生きた記憶を夢で見ました」
「ふむ。それでは奥様も前世の記憶を持つ〝転生者〟なのでしょう」
訳知り顔で頷くクラウチの言葉を、ジュリエッタは蒼白になりながら繰り返した。
「転生者?」
「前世の記憶を保持したまま、魂が別の世界に転生した者のことです。近頃国内で奥様と似たような経験を訴える者が非常に多い。私はこれが、この国に天変地異が降りかかる前触れではないかと予想しております」
「そんな……!」
あまりにも大きな話に驚くジュリエッタを前に、クラウチはすかさず真剣な顔をした。
「ですので私は〝ニホン〟からきた転生者達の話を聞き、なにが起こっているのかを把握しようとしているのです。奥様にもぜひご協力いただきたい」
「それはもう、私にできることでしたら……」
ジュリエッタがコクコクと頷くと、クラウチはさっそく質問を投げかける。
「では伺いますが、奥様の見た記憶の中で、この世界はどういう位置づけでしたか?」
「……小説の中の世界でした」
掠れたジュリエッタの声を正確に聞き取ったクラウチは、パチンと指を鳴らした。
「なるほど。最も多いパターンですね。前世で読んだ物語の中に転生した。そう訴える者が大半なのです。ちなみに奥様の見たその物語の主人公は誰です?」
「私の夫……レアンドロ・オルビアン公爵でした」
「ほう。ご夫君が。ということは、当然奥様もその物語の中に登場するのでしょうね」
的を射たクラウチの質問にドキリとしながら、ジュリエッタはここまでくれば隠す必要などないと素直に答える。
「はい。私は……彼を苦しめ不幸な死に追いやる悪妻でした」
自分で言って悲しくなったジュリエッタの夕陽色の瞳から、ぽたりと涙がこぼれ落ちる。
夢の内容がただの夢ではなかったのだと、恐ろしい事実に直面して打ちのめされるジュリエッタにハンカチを差し出しながら、クラウチは優しく彼女を慰めた。
「奥様。そう気を落とさずに。実は、物語の中の悪役に転生するというのは珍しいことではないのです」
「そうなのですか?」
受け取ったハンカチで涙を拭きながら、ジュリエッタは顔を上げる。
涙に濡れたジュリエッタの顔を覗き込みながら、クラウチは黒い瞳を真っ直ぐに彼女へ向けた。
「はい。これはむしろ運命を変えるチャンスです」
「チャンス……?」
意味が分からず狼狽えるジュリエッタに対し、クラウチは淡々と説明する。
「先日私が診察した患者は、物語の未来を変えるために実父の横領を告発しました。横領に加担していた本人も罪を問われ連行されて家門は破滅しましたが、彼の母が実父に殺される運命を回避し物語の結末を変えたのです」
普段のジュリエッタであれば、その事件が王国中に衝撃を与えたイルビリア侯爵家断絶の事件だと分かったはずだ。
この裁判で見事な采配を見せた王太子の評判がすこぶる上がったことも大きな話題となり記憶に新しいはずだが、今のジュリエッタにはその話が希望の光のように思えて詳細など考える余裕もなかった。
「それでは……前世で読んだ物語の結末は変えることができるのですね」
なにかに魅入られたかのように呆然と呟いたジュリエッタは、クラウチの手を取り強く握り締めた。
「クラウチ先生。お願いです。私は夫の運命を変えたいのです。愛する彼には幸せになってもらいたい。どうかお力を貸していただけませんか」
ジュリエッタの熱のこもった瞳を真正面から受け止めたクラウチは、その手を握り返して大きく頷いた。
「もちろんです。私は奥様のような、前世の記憶に捉われて思い悩む方々の手助けをするためここにいるのですから」
言葉を切り白衣の襟を正したクラウチは、ジュリエッタを安心させるように微笑んで告げた。
「改めて自己紹介を。私の名前はナオミ・クラウチ。転生者達の救世主となるべく、〝ニホン〟からこの世界に転移してきた医者なのです」
ジュリエッタが帰ったあと、クラウチは怪しげな器具が並ぶ自室の中で緑色に光る水晶玉を手に取った。
『計画は上手くいっているのか?』
通信具となっているその水晶玉から聞こえた声に、クラウチは口角を吊り上げる。
「はい。なにもかも計画通りです。オルビアン公爵夫人は例の夢を見たようです。実験の成果が出ましたね」
楽しげに報告するクラウチの言葉を聞いた水晶玉の向こう側の相手は、興奮気味に息を吐いた。
『では……!』
「ええ。公爵夫人は私の話を信じ切っています。あなた様の望み通り、もうすぐオルビアン公爵夫妻は離婚するでしょう」
水晶玉をくるくると回したクラウチは、ニンマリと笑いながら付け加えた。
「公爵夫人を信じ込ませるために関係ない他の人間に前世の記憶を植えつけるのは骨が折れましたよ。公爵夫妻が離婚した暁には、約束通り報酬として例のものを私にくださいね。…………王太子殿下」