36.氷解
「レアンドロ・オルビアン……! 貴様っ」
侵入してきたレアンドロに掴みかかろうとしたティボルトは、あっさりと氷の魔力で制圧されてしまった。
「ジュリエッタ!」
氷で手足を固定され猿轡をかまされたティボルトに目を向けることなく、レアンドロは手首の拘束を切ってジュリエッタを抱き締める。
「あなた……っ」
ジュリエッタもまた、震える手で夫を抱き締め返した。
「無事か? 怪我はないか?」
跪いたレアンドロは、ジュリエッタの頬にそっと手を伸ばして異常がないか目を走らせる。
「どうやってここに……」
「まあ、いろいろと助けを借りてな」
大人しく座っているクラウチや窓の外にチラリと目を向けたレアンドロは、落ち着かせるようにジュリエッタの手を取った。
「会いたかった」
愛する夫から恋しかった銀色の瞳を真っ直ぐに向けられて、ジュリエッタの目はあっという間に潤んだ。
「どうして……なぜいらしたの……。私はもう、あなたの役に立てる人間ではありませんのに……」
「君を愛しているからだ!」
恥も外聞もなく叫んだレアンドロは、戸惑いから身を引きそうになるジュリエッタの手をグッと引き寄せた。
「役に立てないなんて、そんなことを言わないでくれ。俺にとって君は、生きる意味そのものなのだから」
役立たずで無価値で生まれてきたのが間違いだとまで王太子に罵倒されてきたジュリエッタは、言い聞かせるようなレアンドロのこの言葉に涙を流す。
「……あ、愛しているですって? あなたが、私を……?」
ぽろぽろとこぼれ落ちるジュリエッタの涙を優しく拭いながら、レアンドロは静かに口を開いた。
「今まで……俺が不甲斐ないばかりに君を不安にさせてしまった。本当にすまない。これからは誤解させないようにちゃんと伝えていくから許してくれ。愛している。心の底から。君を失えば絶望に心臓が凍てついてしまうほど、君だけを愛してるんだ」
信じられない思いのジュリエッタはレアンドロの強い瞳を見ているうちに、彼の言葉が本心なのだと実感して声を震わせる。
「魔力のない、私でも……同じですの?」
「当然だ! 俺に必要なのは魔力なんかじゃない。君さえいれば他になにも要らない」
少しの迷いもなく声を上げたレアンドロにジュリエッタの涙が再び溢れ出た。
「…………胸に醜い傷跡があっても、構いませんの?」
自分の胸元を掴むジュリエッタの手に手を重ねて、レアンドロは強く言い切った。
「そんなもの気にするはずないだろう。……それにその傷は俺のためにできた傷なのだから、より一層君が愛おしくなるに決まっている」
いつも少しだけ冷たいレアンドロの手。
胸元をキツく握り締めていたジュリエッタの手を優しく解してくれるその手の冷たさがあまりにも愛おしくて、ジュリエッタは切なさに痺れる指先でレアンドロをかき抱いた。
「あなた……!」
レアンドロの頭を抱き締めて、ジュリエッタは涙ながらに謝罪する。
「ごめんなさい、あなたを信じられなくて。たくさん迷惑をかけてしまって……。私がどうかしていましたわ」
「いや、悪いのは俺だ。……気持ちをうまく伝えることができず、君を不安にさせてしまった。すまなかった」
やっと取り戻した妻のぬくもりに涙ぐみながら、レアンドロも謝罪を口にした。
そして内ポケットからなにかを取り出してジュリエッタに差し出す。
「これを君に……」
「…………っ!」
目の前に差し出された手紙を見て、ジュリエッタは声を詰まらせ震える手で封を開けた。
あの日執務机で見た『愛する君へ』ではじまる書きかけの手紙。
彼らしくない愛の言葉で溢れたその手紙は完成されていて、封筒には宛名が記されている。
そこに記された宛名は、間違いなくジュリエッタのものだった。
「ずっと、ずっと。君に手紙の返事を出したかった。十年もかかってしまったが……受け取ってくれるだろうか」
「これを、私のために……?」
「君がくれた手紙に比べたら、あまりにも陳腐で申し訳ないのだが」
照れ臭そうに耳を赤くするレアンドロが愛おしくて、ジュリエッタはこれまでのなにもかもが報われた気がした。
「あなたはこんなにも、私を愛してくれていたのですわね」
誤解が全て解け、手紙を手に胸を打ち震わせるジュリエッタは、最後に涙声で問いかける。
「私はあなたのもとに……オルビアン公爵家に、戻ってもよろしいの?」
「頼むから戻ってきてくれ。みんな君の帰りを待っている。俺と一緒に家に帰ろう」
力強いレアンドロの腕に抱き寄せられたジュリエッタは心の底から安堵し、誰よりも愛しい夫を力の限り抱き締め返した。
そのまま一生イチャイチャと抱き合っていそうな夫婦に横槍を入れるかの如く、馬車の中に咳払いが響く。
「オホン。感動の再会は素晴らしいのですが、そろそろ私とも話をしませんか?」
ジッと黙って座っていたクラウチから声をかけられたレアンドロは、ジュリエッタから手を離さずクラウチを睨みつけた。
「貴様。まだなにか企んでいるのか?」
妙な動きをすれば容赦しないとばかりに鋭い氷を向けるレアンドロだが、当のクラウチは涼しい顔で胡散臭い笑みを浮かべている。
「私は武力派ではありませんから当然降伏しますよ。ですが、せっかくなので取引を持ちかけたいです。こうなったら公爵様についたほうが良さそうなので」
「取引だと? ジュリエッタをこんな目に遭わせた貴様と俺が手を組むとでも?」
嫌悪感を滲ませるレアンドロへ、クラウチは口角を上げた。
「いいんですか? 私はそこにいる王太子が国民を利用して私利私欲を満たそうとした証拠を握っています。王太子の魔力に懐疑的だったイルビリア侯爵家断絶事件についても、裏で彼が手を回していた証拠まで完璧に揃ってます。私を味方につければ王太子を好きなだけ断罪できますよ」
「…………」
「このまま下手をすれば、公爵様は王太子を一方的に攻撃した反逆者と捉えられかねません。王太子の不正の証拠があるに越したことはないのでは?」
少しだけ考え込んだレアンドロは、余裕の表情のクラウチを見下ろした。
「…………お前が犯した罪についてはどうする気だ?」
「そんなものはいくらでも償いましょう。私の目的が達成された後でね」
「つまり、協力する見返りにお前の目的とやらを手助けしろと?」
「さすが公爵様。話がお早い」
手を叩いたクラウチは、指を二本立ててレアンドロに向けた。
「私が望むものは二つだけです。王室が持つ魔核保有者のリストと、その中にある憐れな少女の救済。他になにも望みません」
「…………」
黙り込むレアンドロに、クラウチは眼鏡の下の目を細めて畳みかける。
「それらが達成された後でしたら、私の首を刎ねようがどうしようが、どうぞ公爵様のご勝手にしてください」
悩んだ末にレアンドロはクラウチの提案を受け入れた。
「な、な、なんて愛らしいのかしら……!」
馬車から降りたジュリエッタは、馬車の周りを取り囲んでいた王太子の護衛を制圧している生き物を見て思わず声を上げていた。
レアンドロの氷で拘束された護衛達を囲んでいたのは人間の騎士ではなく、なんとも愛らしい見た目の氷狐達だった。
「ご苦労だったな」
「キュイキュイ〜!」
レアンドロが声をかけると嬉しそうにフサフサの尻尾を振るアルファ。
「あなた、この子達はなんなのです?」
腕を掴み目を輝かせて見上げてくるジュリエッタが愛しくて目尻が下がりまくりのレアンドロは、思った通りのジュリエッタの反応に満足しながら説明する。
「氷狐だ。縁があって協力してもらった。……一刻も早く君を助け出したくて、他の騎士が来るのを待っていられなかったものでな。彼らがいてくれたから本当に助かった。気に入ったか?」
「ええ。まさかあんなに愛らしいのに、あなたが褒めるほど頼りになるなんて! 素晴らしい生き物なのですわね」
氷狐の愛らしさにはしゃぐジュリエッタを見たレアンドロは、約束通り貰い受けた氷狐をジュリエッタに贈る時が待ち遠しくて仕方ない。
絶対に喜んでレアンドロに惚れ直してくれるはずだ。
サプライズにするため今はまだ黙っていようとニヤける口元を引き結ぶレアンドロは、氷狐の愛らしさに声を弾ませるジュリエッタを見つめ続けた。
レアンドロと氷狐のスピードについて来られなかったオルビアン公爵家の騎士達が遅れて到着し、王太子の一派を搬送する手筈が整う。
その過程でクラウチもまた拘束されることになった時だった。
「あの、クラウチ先生……」
抵抗もしようとしないクラウチへと、ジュリエッタが声をかける。
「一つだけ、もう一度お聞きしてもよろしいですか?」
「…………公爵様がよろしければ」
静かに答えたクラウチに、レアンドロはジュリエッタの様子を気にしながら頷いた。
レアンドロの合図で騎士達が下がると、三人だけになった空間でジュリエッタはクラウチに問いかける。
「私が夢で見た〝前世の記憶〟は、本当に先生が作られたものでしたの?」
「はあ。なにかと思えば……。お伝えしたように、ジュリエッタ様が見た夢は私が作って植え付けたものです」
「……ですけれど、どういうわけかあの夢が日増しに鮮明になる気がしていたのです。私にはどうしても……夢の全てが作られたものであるとは思えなくて」
夢に翻弄され混乱しているのであろうジュリエッタを憐れに思いながら、クラウチは投げやりに答えた。
「どうしても疑うのであれば、前世の名前を思い出してみてください」
「名前?」
「私が作れるのは夢の空間だけです。その者の根深い情を作り変えることができないように、その者の本質……〝名前〟を勝手に作り変えることはできないのです。ですからあなた様が見た夢の中に前世のあなた様の名前は登場していないはずです」
淡々と説明したクラウチは、これでジュリエッタの懸念も消えるだろうと思った。
しかし、ジュリエッタの反応は予想外のものだった。
「な、まえ……?」
「ジュリエッタ? どうした?」
様子のおかしいジュリエッタにレアンドロが心配そうに呼びかけると、同じく気づいたクラウチも目を見開く。
「ジュリエッタ様……?」
二人の心配をよそに、ジュリエッタは苦しそうに頭を押さえた。
「名前……。あ、……あぁっ!」
「ジュリエッタ、しっかりしろ!」
頭が痛むのか、顔を青くするジュリエッタの肩を抱えて心配するレアンドロ。
レアンドロに抱えられたジュリエッタは、やがてポツリと呟いた。
「ゆり、え……?」
「え?」
ジュリエッタの口から出た言葉に、クラウチの動きが止まる。
頭の痛みが消えたのか、顔色の戻ったジュリエッタはレアンドロに支えられながらクラウチを見て言う。
「思い出しましたわ……私の前世の名前は、ゆりえ。……倉内優里恵、それが私の名前です」
クラウチを見るジュリエッタの瞳には、慈愛と懐かしさが浮かんでいた。
「……そんな、まさか……」
晴れ晴れとしたジュリエッタとは対照的に、膝を突いたクラウチの瞳が驚きと絶望に揺れる。
「お、姉ちゃん……?」




