3.悪妻ジュリエッタ
それは、とても生々しい夢だった。
夢の中でジュリエッタは、ここではない別の世界で別の人間として毎日を退屈に過ごしていた。
家族どころか親しい友人もおらず、結婚もせず働きに出る毎日。
そんな彼女の唯一の楽しみは、大好きな小説を読むことだった。
お気に入りの小説を読む夢の中のジュリエッタは、そこに書かれた登場人物の名前を見てハッとする。
【レアンドロ・オルビアンは、幼少期より命の危険に晒されながら育った。】
『レアンドロ……?』
何度覗き込んでみても、愛する夫の名前が書かれている。
小説を読み進めると、その生い立ちや魔力の属性、容姿の特徴、全てがジュリエッタの夫であるレアンドロと合致する。
『この小説の主人公はレアンドロなのね』
興味が湧いたジュリエッタは、その小説を読み進めた。
小説の内容はとても刺激的で、そしてジュリエッタにとっては信じがたいものだった。
『これは……まさか、そんなっ』
序盤のレアンドロの生い立ちについては、ジュリエッタもよく知るものと全く同じだったが、中盤以降の展開にジュリエッタは声を震わせる。
現実と同じように氷の魔力を抑える目的で熱の魔力を持つジュリエッタと政略結婚したレアンドロは、小説の中でつらい日々を過ごしていた。
というのも、小説の中のジュリエッタは公爵家の財産が目当ての悪女だったのだ。
それがレアンドロと体を重ねてからは彼にも固執するようになり、熱の魔力を引き合いに出して脅迫を繰り返しては、レアンドロを支配しようと無理矢理な関係を押しつけていた。
好きでもない女との結婚生活、魔力を得るための望まぬ接触はレアンドロにとって苦痛でしかなかった。
執拗に自分を求める妻への嫌悪、大嫌いな妻に頼らねば生きられぬ自分の魔力を恨み、世の中の何もかもを憎悪しては人生に絶望する地獄の日々。
そんな中でレアンドロが唯一の希望を持ったのが、小説のヒロインとの出会いだった。
運命的な出会いからの一目惚れ、徐々に親しくなる距離。
ヒロインの明るさに癒され、絶望から立ち上がるレアンドロは彼女に惹かれていく。
しかし、レアンドロに固執する彼の妻……悪女ジュリエッタが、ヒロインの存在に気づいてしまう。
惹かれ合いながらも想いを断ち切ろうとしていたレアンドロとヒロインだったが、悪妻ジュリエッタはそんな夫を糾弾した。
躾と称して魔力供給を拒みレアンドロを苦しめては、レアンドロの魔力が暴走する直前に自分勝手に彼を求めて生かし続ける。
精神的にも肉体的にも追い詰められていくレアンドロの描写は生々しく、読んでいるほうは不快でしかない。
小説の最後は悪妻の支配にウンザリしていたレアンドロが命を捨てる覚悟で逃げ出し、真のヒロインと結ばれ束の間の幸せを手にするが、最期は魔力の暴走によりヒロインと共に死んでしまうバッドエンド。
夢の中で小説を読み切ったジュリエッタは、吐き気を催しながら涙を流していた。
『私は悪役で……彼を苦しめて死に追いやってしまうの……?』
「ハッ!」
冷や汗をかいて飛び起きたジュリエッタは、とても夢とは思えぬ夢の内容を鮮明に覚えていた。
「今のは……なに?」
うるさい動悸が止まらない。
夢だったのならば、それでいい。
しかし、ジュリエッタの手には実際に小説のページを捲った感触までもが残っている。
別の世界を生きた不思議な記憶も。
そして、夢の中の小説の内容がどんなに振り払おうとしても鮮明に頭をよぎっていく。
震えるジュリエッタは、メイドが用意してくれたであろう新聞がサイドテーブルに置かれているのを見た。
少し前のことだ。
レアンドロが遠征に出たばかりの頃、ジュリエッタは新聞で不思議な記事を読んだ。
ここ最近、王都内で『〝前世の記憶〟を思い出した』と吹聴する輩が増えているという。
そういった者達はおかしな言動を繰り返し、酷い者は家族を傷つけて投獄されたらしいと。
中には気が狂い失踪した貴族もいるという。
馬鹿らしいと嘲笑されていたあの記事が、妙にジュリエッタの心を刺激する。
「……これはまさか、〝前世の記憶〟?」
頭に浮かんだ考えに、血の気が引いていく。
今見た夢が本当に前世の記憶だとしたら、ここは物語の中の世界で、登場人物である自分は──
「──私はレアンドロを苦しめて死に追いやる〝悪妻ジュリエッタ〟なの……?」
途端にジュリエッタの瞳からポタポタと涙がこぼれ落ちた。
結婚してからずっと、仲睦まじい夫婦になれていると思っていた。
彼の横にいることが幸せで、同じベッドで一緒に眠ることが当然で、生涯を共にするのだと信じて疑っていなかった。
その考えがどれほど傲慢だったことか。
思い返してみれば、政略結婚だと分かっているのにジュリエッタはレアンドロを心から愛してしまっていた。
毎日彼の無事を祈り、太陽を見ても月を見ても星を見ても彼の帰りだけを待ち侘びていた。
だから一緒にいられる時間が嬉しくて、昨晩だって本当は彼よりも自分の方が愛を求めてしまっていた。
「そうよ、私は彼を愛している。こんなにも執着してる。小説の中の〝悪妻ジュリエッタ〟と同じ、はしたない悪女……」
彼の妻が他でもない自分であることが嬉しくて、自分の魔力が彼の役に立てるのが何よりも誇らしくて仕方ないと思っていた。
それがただの驕りだと今さら気づくなんて。
彼のことが好きすぎるあまり、夫婦なのに毎日のようにラブレターを送りつけ、顔を合わせるたびに笑顔を向けて距離を詰める自分はレアンドロからしたら煩わしい執着女だったに違いない。
その証拠にラブレターの返事をもらったことは一度もない。
今だって、一ヶ月ぶりに夜を共にしたにもかかわらず、目覚めたジュリエッタの隣にレアンドロはおらず寝室に一人置き去りにされていた。
それだけでなく普段からことあるごとに彼からプレゼントを受け取り、遠征がない時は週に一度必ずデートに連れ出してもらっていた。
プレゼントもデートも、貴族なら妻に対して行う当たり前の礼儀だ。
きっと彼は煩わしいと思いながらも夫としての義務を全うしてくれていたのだろう。
さらに思い出すのは出征前に参加した夜会でのことだ。
『ねぇ、あなた。今日のドレスはあなたの瞳の色に合わせて用意してくれたのでしょう? 似合っているかしら?』
見せつけるように問うジュリエッタに対し、レアンドロは目を逸らして声を詰まらせていた。
『あ、あぁ……。その、……とても綺麗だ』
照れ隠しだと思っていたが、あれは心にもないことをジュリエッタが言わせてしまったに違いない。
思い返してみればレアンドロは、いつだってジュリエッタから目を逸らしていたではないか。
気まずげに顔を背けるあの仕草は照れ隠しだと思っていたが、単純にジュリエッタの顔を見たくなかっただけだとしたら……。
レアンドロの行動の数々を妻に対する最低限の礼儀だとも思い至らず舞い上がっていた身勝手な自分は、本当に彼の人生を台無しにしてしまうところだった。
レアンドロから貰った贈り物がぎっしりと詰め込まれたドレスルームを開けて、ジュリエッタはしゃくり上げた。
「当たり前のようにこんなにたくさんのプレゼントを受け取っていたなんて。これじゃあどう考えても悪妻じゃない」
ドレスルームに入りきらないほどの、キラキラと輝くドレスや宝石類には、いったいどれだけ費用がかかっているのだろうか。
そのどれもがジュリエッタには宝物だったが、これは全て公爵家の財産で決して私物化していいものではないのだ。
「小説の通りだわ。……公爵家の財産を狙い彼の妻の座に固執する悪妻ジュリエッタ」
自分のことを客観視した呟きが耳にこびりつく。
「なんて恐ろしい女なの」
ジュリエッタは目の前の事実に耐え切れず、ぐらりと倒れ込んだ。
「…………私はこの先、どうしたらいいの」
これまで夫のためにせっせと魔力供給をして尽くしてきたつもりでいたジュリエッタは、自分が小説の中の邪魔者悪役妻だったと知り絶望した。