25.緑茶
王宮の晩餐会と見紛うほどに豪華な食事を提供されたジュリエッタは、終始恐縮しきりだった。
「あの……王太子殿下、手厚いおもてなしにはとても感謝いたしますが、私のような者にこのような豪華な席はもったいない気が……」
言いづらそうなジュリエッタに対し、王太子ティボルトはわざとらしく眉を下げる。
「そう遠慮しないでくれ。俺達の仲ではないか。もしかして、特別に作らせたこの料理が口に合わなかっただろうか?」
「いいえ、滅相もないことですわ。大変美味しゅうございます」
王太子から「特別に作らせた」と言われたジュリエッタは慌ててフォークを口に運び淑女の笑顔を見せるも、胃もたれしてしまいそうだった。
レアンドロと参加する夜会で挨拶を交わしたことこそあるものの、そこまで面識のない王太子から行き過ぎた厚意をもらうのは今のジュリエッタには負担でしかない。
ジュリエッタの隣で涼しい顔をしているクラウチは、当然のように豪華な食事を口に運んでいる。
「甘いものは好きだろう? デザートもたくさん用意させているから、遠慮なく食べてくれ」
「まあ……。ありがとうございます。ぜひいただきますわ」
その後も居心地の悪さを感じながらも、ジュリエッタは顔には出さず笑顔でティボルトの会話に応じた。
食事が終わったところで紅茶を飲みながら、ティボルトは深刻な顔でジュリエッタを見た。
「オルビアン公爵から酷い扱いを受け家を出たと聞いた。さぞやつらかったことだろう」
「あ……えっと、いいえ。悪いのは私の方で、彼はなにも悪くはないのです」
言葉を選びながら否定するジュリエッタだが、ティボルトは訳知り顔で首を横に振る。
「そう無理に庇わなくてもいい。公爵とはもう他人になるのだから、酷いことをされたのなら声を上げるべきだ」
「他人……」
レアンドロと他人になる、その言葉がジュリエッタの胸に突き刺さった。
初めて出会った時から十年以上、ジュリエッタとレアンドロは他人ではなかった。
実の親からゴミを見るような目で育てられたジュリエッタにとって、レアンドロとの出会いは祝福そのものだった。
ジュリエッタを惨めな生活から救い出してくれた天使のような氷の美少年。
役立たずと言われ続けたジュリエッタに大きな役割を与えてくれた運命の相手。
照れ屋で感情表現が下手で不器用だけれど、いつだってジュリエッタを大事にしてくれた優しい人。
婚約者となり、妻となって、レアンドロとの絆が与えてくれたオルビアン公爵家という場所はジュリエッタのかけがえのない家族で生涯を過ごすはずの我が家だった。
その場所から自分で逃げ出したというのに、赤の他人である王太子から改めて指摘されるとジュリエッタの心は悲しみと後悔で溢れる。
込み上げてくる感情を必死に押し殺し、王太子の前で涙は見せられないと気丈に呼吸を整えるジュリエッタ。
目にうっすらと涙を溜めるジュリエッタを見たティボルトは、憐れむようなため息を吐いた。
「……今はまだ混乱しているのだろう。可哀想に。よほどあの公爵に傷つけられたのだな」
慰めるような口ぶりのティボルトに手を重ねられ、ジュリエッタは咄嗟にその手を引っ込めてしまう。
いつも少しだけ冷たいレアンドロの手と違い、ティボルトの手は温かく熱が感じられて受け入れ難かったのだ。
ティボルトは一瞬だけ眉を歪ませたものの、すぐに優しい笑みを見せる。
「どうやらかなり疲れているようだ。部屋を用意させてあるから今日はもう休むといい。着替えも適当に準備してある」
「お気遣い、感謝いたします」
淑女らしく優雅に頭を下げたジュリエッタは、なるべく失礼にならないようゆっくりと席を立ち使用人の案内でその場をあとにした。
ジュリエッタの姿が見えなくなったところで、ナプキンで口元を拭いていたクラウチはティボルトに声をかける。
「さて、王太子殿下。ご命令通り、オルビアン公爵夫妻を引き離してジュリエッタ様を殿下のもとにお連れしました。約束の報酬をいただけますよね?」
口元こそいつもの胡散臭い笑みを浮かべているものの、クラウチの瞳には鋭い光が宿っていた。
対するティボルトはクラウチに目も向けずとぼけたように肩をすくめる。
「それなのだが。例のものは王宮にあってな。簡単に持ち出すことはできないのだ。約束の報酬は王宮に戻ったら授けてやろう」
「…………話が違いますねぇ」
クラウチの笑みが深くなり、低い声が食卓に落ちた。
冷え込む空気など気にも留めず、ティボルトは鼻を鳴らす。
「貴様こそ話が違うではないか。オルビアン公爵夫妻の離婚はまだ成立していない。報酬が欲しければ確実に別れさせるのが筋というものではないのか?」
紅茶に砂糖を入れてミルクを垂らし、くるくるとかき混ぜながらティボルトは汚らわしいものを見るかのようにクラウチへと目を向ける。
「なぜまだオルビアン公爵家から離婚届が出ていないんだ?」
「公爵が渋っているせいでしょう。しかし、いざとなったら奥の手があるのでご心配なく」
「ふん。貴様のような素性の知れぬ者を信用などできるか。公爵との離婚が成立し、ジュリエッタを王太子妃として王宮に連れ帰ったその時に報酬をやる。それまではこれまで通り俺の命令に従ってせいぜい役に立つんだな」
弄ぶようにかき回したカップには口をつけず、傲慢な目でクラウチを見下ろすティボルト。
「…………今度こそ、約束ですよ」
無表情で呟き立ち上がったクラウチは、ジュリエッタのもとへと向かった。
部屋に来たのがクラウチと分かるなり、ジュリエッタは焦ったようにクラウチの手を引っ張って室内に引き入れた。
「クラウチ先生。王太子殿下に用意していただいたドレスなのですけれど、少々問題が……」
「どうしました?」
困ったように眉を下げるジュリエッタに、心の奥に苛立ちを募らせていたクラウチも素で聞き返してしまう。
「こちらをご覧になってください」
ジュリエッタは部屋の中に用意されていたドレスの数々をクラウチに見せた。
どのドレスも胸元が大きく開いたデザインで、体の線を強調するようなものばかり。
「……若い未婚の令嬢達の間で魔核を強調する胸元の開いたドレスが流行しているのは知っておりましたが、流石にここまで大きく開いていると、胸の傷が丸見えになってしまいますわ……」
「配慮のかけらもないドレスですね」
ズバリ言い切ったクラウチは、見え見えの王太子の下心に心底嫌気が差した。
「私に任せてください。全て取り替えさせますから」
すぐに使用人を呼んで対応してくれた頼もしいクラウチにホッとするジュリエッタ。
見知らぬ場所で思いも寄らぬ王太子の歓迎を受けて疲れ切っていたこともあり、安心した途端に涙腺が緩んでしまう。
「ジュリエッタ様? どうされました? そんなにあのドレスが嫌だったんですか?」
突然泣き出したジュリエッタを気遣い、クラウチがそっと背中を支える。
「クラウチ先生。私の望みを叶えてくださった先生にこんなことを言うのは気が引けるのですけれど……」
「お気になさらず、なんでもおっしゃってください」
クラウチの言葉にさらに涙を流したジュリエッタは震える声で本音を吐露した。
「……先ほど、王太子殿下にレアンドロと他人になるのだと言われて……私は身勝手にも自分の行いを後悔してしまったのです」
「………………」
「全て自分で決めたことですのに。離婚なんてせず、彼の妻でいたかったと……。あのまま公爵家で生涯を過ごしたかったと……。私はなんて自分勝手で浅ましい人間なのでしょう」
温かな夕陽色の瞳から流れる涙は止めどなく、華奢な肩を震わせて泣くジュリエッタの姿はあまりにも痛ましかった。
「……私には、あなたのどこが自分勝手で浅ましいのか分かりません」
慰めるようにジュリエッタの背中をさすりながら、クラウチは眼鏡の奥の瞳をジュリエッタに向けた。
「ジュリエッタ様。私は夢を通して相手の深層心理を見ることができます。申し訳ありませんが、手術の際にジュリエッタ様の心の奥底を垣間見てしまいました」
涙で濡れた目を瞬かせ、ジュリエッタはクラウチを見上げた。
「あなたは心から公爵様や公爵家の人々を愛する、純粋で心の優しいお人ですよ。あなたが傷つき後悔されているのは、それほどまでに公爵様を愛しているからです。あなたは一つも悪くありません」
(本当に悪いのは、そんなあなたの純粋さと愛を利用した私なんだから…………)
心の中で呟いたクラウチは、ジュリエッタが泣き止むまでその背中を撫で続けた。
「先生にはお恥ずかしいところをお見せしてばかりですわね」
泣き腫らした痛々しい目で照れくさそうに笑うジュリエッタは、閃いたとばかりに手を叩いた。
「あ、そうだわ! お詫びにお茶を飲みませんこと? 私が緑茶をお淹れしますわ」
「緑茶を?」
「茶葉はお持ちですわよね?」
いつも緑茶を好んで飲むクラウチに問いかけるジュリエッタの瞳はすっかり輝いていた。
「それは……ありますが」
確かジュリエッタは緑茶の味が苦手だったはずでは、と疑問に思いながら頷くクラウチ。
「私、思い出しましたのよ。緑茶は熱湯で淹れると渋くなってしまうのですわよね? 少し冷ましたお湯で淹れると渋みや苦みが抑えられて美味しくなるはずですわ」
「え…………?」
ジュリエッタの言葉を聞いたクラウチは呆然とした。
「あら、先生はご存じありませんでしたの?」
珍しいクラウチの様子を目にしてジュリエッタが首を傾げると、クラウチは呆然としたまま答える。
「…………緑茶に熱湯がダメなんて、初めて知りました」
「まあ! 博識な先生でも知らないことがございますのね」
嬉しそうに笑うジュリエッタは微笑みながら、早速お湯を沸かそうと準備を始める。
クラウチが茶葉と急須を渡すと、ジュリエッタは慣れた手つきで緑茶を淹れはじめた。
「…………その記憶も、前世の夢で見たのですか?」
ジュリエッタの行動を観察するようにジッと見つめるクラウチが問うと、ジュリエッタは不思議そうに手を止めた。
「え? ……あら。どうでしたかしら。でも多分、そうだと思いますわ」
そこまで気にした様子もなく作業に戻るジュリエッタの背中を、クラウチは穴が開くほど見続けていた。