24.眠り
「ジュリエッタ! ここを開けてくれ!」
驚くべき速さで屋敷に着いたレアンドロは勢いよく何度も玄関を叩くが、いくら声を上げてもなかなか出迎えがなかった。
「……妙だな」
あまりにも静かな屋敷に首を傾げるレアンドロ。
周囲にいるはずの護衛の姿も見えない。
中にジュリエッタがいると思うと気持ちを抑えられないレアンドロは、嫌な予感がして蹴破るように扉を破って屋敷の中に押し入る。
「ジュリエッタ! 俺だ、君を迎えに来た。ここにいるのだろう? どうか出てきてくれ!」
しかし、どんなに呼びかけても最愛の妻の返事はない。
あちこち捜し回ったレアンドロは、奥の部屋でソファに倒れているユナを見つけて駆け寄った。
「ユナ! 大丈夫か?」
慌てて確認するも、眠っているだけで外傷のないユナに一先ず息を吐いたレアンドロがふと目をやると、そばのテーブルに一通の手紙が置かれていた。
見間違えるはずもない。
手紙に書かれた字は、レアンドロが求めてやまないジュリエッタのものだ。
宛先は母のカルメラであったが、気にしている余裕もなくその手紙を開けたレアンドロは、文面に目を通して愕然とした。
そこにはカルメラへの感謝と謝罪、そしてこの屋敷を離れる旨が書かれていた。
【これ以上お義母様にご迷惑はかけられません。幸いにも援助して下さる方が見つかったので、今後はそちらに厄介になるつもりです。不義理をどうかお許しください。お義母様とレアンドロの幸福をいつも願っています。 ジュリエッタ】
最後に結ばれていた言葉を何度も読み、〝ジュリエッタ〟と書かれた文字を切なそうに指先でなぞったレアンドロは叫び出したい気分だった。
せっかくここまで来たというのに。
またジュリエッタは、レアンドロの手が届かないところへ行ってしまったというのか。
「……援助だと? いったいどこのどいつだ」
今度はそいつがジュリエッタを隠しているのか。
そう思うと顔も分からぬその相手が憎らしくて仕方がなかった。
怒りと喪失感と虚無感、そしてなによりもジュリエッタへのはち切れそうな想いにレアンドロが呑み込まれてしまいそうな時だった。
「奥様……、いけません、奥様……、…………ハッ!」
うなされて飛び起きたユナが、レアンドロの姿を見つけて目を見開く。
「旦那様!?」
すかさずユナの前に座り込んだレアンドロは早口に問いかけた。
「ユナ、いったいなにがあった? ジュリエッタはどこにいる!?」
「奥様は…………」
ここがどこかも分からない様子のユナは、周囲を見回し徐々に思い出していく記憶に青ざめていった。
顔を強張らせて目の前のレアンドロの腕を掴み、目に涙を溜めて縋りつく。
「旦那様っ! 今すぐ奥様を捜してください!」
「落ち着け、ゆっくり話せ。ジュリエッタになにかあったのか?」
「奥様は、奥様は……っ」
尋常ではないユナの様子にレアンドロの胸には不安がよぎった。
もしジュリエッタの身になにかあれば、レアンドロはもう生きていけそうにないというのに。
震えるユナは意識を失う前の会話を必死に思い出す。
「奥様はこれ以上大奥様に迷惑はかけられないと、あの医者と遠くへお逃げになるつもりです! もう二度と公爵家と関わることがないように……!」
「あの医者と……?」
手紙を持つレアンドロの指先に力が入る。
「引き止めようと、私がなにを言っても旦那様のために離婚するとおっしゃって……。でも旦那様が不倫相手と幸せになる姿を見る勇気がないから遠くに逃げてしまいたいと……!」
「…………っ」
ユナの話を聞きながら、レアンドロはジュリエッタがどれほど傷ついたか想像するだけで胸が苦しくなった。
今すぐ全てが誤解だと弁解したいのに。
やっと会えると思ってここまで来たのに最愛の妻はあらぬ誤解を抱えたまま消えてしまった。
身を切られるように切ない想いのやり場がなくて歯を食いしばる。
顔を歪めるレアンドロの腕に、ユナがさらに掴みかかった。
「どうしてですか、旦那様! あんなにも旦那様のことを愛しておられる奥様というものがありながらなぜ浮気なんて……!」
妻に忠誠を誓ったメイドから向けられる言葉と敵意が痛い。
「誤解だ! なにもかもが誤解だというのに……っ」
手紙を握りしめたレアンドロは頭を掻きむしると立ち上がり、燃えるような目で顔を上げた。
「とにかくジュリエッタを捜しに行く」
「屋敷を囲んでいた屈強な騎士達も、あっという間に眠りに落ちてしまいましたわね」
馬車に揺られるジュリエッタは、向かい合って座るクラウチに尊敬の眼差しを向けていた。
「おかげで誰にも気づかれずに屋敷を出ることができましたわ。先生はすごい術をお持ちですのね」
感心しきりのジュリエッタの瞳がキラキラと輝いて見えて、クラウチは面倒くさそうに頭を掻いた。
「大したことではありません。ただ魔力を使っただけですから」
「まあ……。魔力を? ということは、先生は貴族だったのですか?」
この国で魔力を持っていることは即ち貴族であることでもある。
驚きを隠せないジュリエッタへと、クラウチは苦笑を漏らした。
「いいえ。私は貴族ではありませんよ。…………この世界に転移してきた時、胸にこの魔核が宿り魔力を得たのです」
クラウチは白衣の下のシャツをはだけさせて、胸部にある魔核をジュリエッタに見せた。
ブラックオパールのように様々な色彩が浮かぶ不思議な色合いの魔核に、ジュリエッタの目が引き寄せられる。
「転移の時に……。とても不思議な色の魔核ですわ。いったいどんな魔力をお持ちですの?」
一瞬だけ黙り込んだクラウチはジッとジュリエッタの温かな夕陽色の瞳を眺めると、秘密を囁くように答えた。
「私が手にしたこの力は、〝夢〟の魔力です」
「夢……?」
聞いたことのない魔力に首を傾げるジュリエッタ。
シャツのボタンを留めながら、クラウチは淡々と説明した。
「夢とは眠りの中にある無意識、そして記憶と忘却。簡単に言えば私は他人の〝眠り〟を操ることができるのです」
完全に魔核を隠したクラウチが顔を上げると、ジュリエッタは納得したように頷いていた。
「それで……。ユナや騎士達を眠らせたり、手術の際に私やレアンドロを痛みさえ感じないほどの深い眠りに就かせることができたのは、その魔力の力なのですわね?」
「ええ、そういうことです。なので彼らの体に害はありませんからご安心を」
ホッと息を吐いたジュリエッタは、涼しい顔で景色を眺めるクラウチに向けて思ったままに呟いていた。
「それにしても貴族以外が魔核を持つだなんて。先生は転移者ですから、きっと特別なのですわね」
感心したようなジュリエッタの言葉には答えず、クラウチは慌てたふうを装って窓から目を離す。
「おっと、そろそろ到着するようです。馬車から出る前に、一つ約束していただきたいのですが。今から会うお方には魔力移植のことは伏せておいてください。普通はそんな話をすると驚かれてしまうので」
「ええ、分かりましたわ」
なんの疑問も持たずジュリエッタが頷いたのを確認し、クラウチは停止した馬車の扉を開けようと手を伸ばした。
すると、その手が届く前に外側から扉が開く。
扉から姿を現した人物を見て、ジュリエッタの夕陽色の瞳が驚きに見開かれた。
「まさか……あなたは」
息を呑むジュリエッタに、その相手は爽やかな笑みを見せた。
「ジュリエッタ、久しぶりだな」
優雅に差し出された手に反射的に手を重ねながら、ジュリエッタは思わず呟いていた。
「……王太子、殿下……?」
「ああ、こんなにやつれて……さぞつらい思いをしたのだろう」
重なったジュリエッタの手に口づけを落とした王太子ティボルトは、ほっそりとした白い手を何度も指でなぞるとジュリエッタを憐れむ。
「クラウチとは懇意にしていてね。君が困っていると聞いたから、こうして協力を申し出たんだ。しばらくはこの別荘で私と一緒に暮らそうじゃないか」
一方的にジュリエッタに向けられるティボルトの視線は妙に熱を帯びていた。