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21.逃避行





『直美、そんなに悲しまなくても大丈夫よ』



 優しい声と同じくらい優しい手が、ゆっくりと頭を撫でていく。



『私が絶対あなたの心臓を治してみせるから』



 大好きだった懐かしい感触に涙が止まらない。



『だからお願い、もう泣かないで』



 違う。



 私が泣いているのは、病気のせいじゃなくて……。



 離れていく手を繋ぎ止めたくて必死に手を伸ばした。









「……お姉ちゃん……っ」


 ハッと飛び起きたクラウチは、息を切らしながら無意識に目の前の手を掴んでいた。


「クラウチ先生? 大丈夫ですか?」


「あ……。ジュリエッタ様」


 クラウチが掴んだ手をしっかりと握り返すジュリエッタは、ハンカチで優しくクラウチの額を拭う。


「ひどくうなされてましたわ。汗もすごいです。……どうかあまりご無理をなさらないでくださいね」


 なにも聞かずうなされていたクラウチを介抱するジュリエッタは、その間も縋るように掴んでいたクラウチの手を握ってくれていた。


「…………お見苦しいところを見せてしまいましたね」


 バツが悪いクラウチは、目を逸らしてサッと手を離す。


「夢見が悪かっただけですのでご心配なく」


 乱れた髪を整えて姿勢を正し、眼鏡をかけたクラウチは気を取り直していつもの胡散臭い作り笑いを浮かべていた。


「それよりも……こんな夜更けに私の部屋へいらっしゃったのは、なにかご用があるからでしょうか?」


 問われたジュリエッタは覚悟を決めた顔でクラウチを見返す。


「勝手に入ってごめんなさい。ユナには知られずにお話をしたかったものですから……。実は先生に、折り入ってお願いがございますの」


「お願い?」


「クラウチ先生。どうか私を連れて、逃げてくださらないかしら」


 ジュリエッタからの申し出に、クラウチは目を瞬かせた。


 胸に手を当てたジュリエッタは暗い顔で事情を説明しはじめる。


「ユナ宛にお義母様から言伝があったのを聞いてしまったのです。私の体調が良くなれば、すぐにでも別の場所に移るようにと。どうやらレアンドロの再婚が近いようなのですわ……」


「ああ…………」


 なんとなく成り行きを悟ったクラウチは、計画が成功しイレーネとレアンドロの仲をカルメラが誤解したのだと思い至った。


「体調も良くなった今、これ以上お義母様にご迷惑をおかけするわけにはまいりません。レアンドロが新しい家庭を持つならなおのこと、もう私はオルビアン公爵家と関わるべきではないのです」


 ギュッと拳を握りしめたジュリエッタは真剣そのものだった。


「…………」


 クラウチが返す言葉を探していると、不意にジュリエッタの瞳が揺らぐ。

 

「なによりも……。望んでいたはずなのに、あの人が愛する人と幸せになる姿をこの目で見る勇気がないのです。少しでも遠い所に逃げ出してしまいたいのですわ」


 今にも溢れ出しそうな涙を瞳に溜めたジュリエッタは両手で顔を覆った。


 震える華奢な肩に手を伸ばすクラウチ。


「……ジュリエッタ様のお気持ちはよく分かりました。しかし、なぜ私に頼ってくださるのですか?」


 クラウチの問いに顔を上げたジュリエッタは、イタズラが見つかった子供のように眉を下げて笑った。


「なにもかも先生に頼りきりでお恥ずかしいのですけれど、先生でしたら私を連れ出していただく術があるのではないかと思ったのです」


 ジュリエッタの答えを聞いたクラウチは思わず苦笑を漏らしてしまう。


「まったくあなたは……見る目があるんだか、ないんだか」


 ちょうどジュリエッタを連れ出す算段を立てていたクラウチにとって、彼女の行動はまさしく飛んで火に入る夏の虫。


 願ったり叶ったりな申し出だが、どうにも気乗りしないのはなぜだろうか。


 目覚めの悪い懐かしい夢を見てしまったからか。


 はたまた身勝手で憎たらしい王太子の思い通りに動くことに抵抗があるからか。


 いずれにしろこの機を逃す手はない。


 一瞬だけ目を閉じたクラウチは、邪念を払うように小さく首を振るといつもの笑みを浮かべた。


「いいでしょう。ジュリエッタ様、私があなた様を連れ出して差し上げます」


 クラウチが差し出した手に、ジュリエッタが手を重ねようとした時だった。


「いけません、奥様!」


 部屋の中に突入してきたユナがクラウチから庇うようにジュリエッタの前に立つ。


「ユナ、どうして……」


「奥様のお姿が見えなかったのでお捜ししていたのです。……奥様。大奥様からも逃げるだなんて、そんなの絶対にダメです!」


 ジュリエッタに向き直り涙ながらに叫ぶユナ。


「私はどうしても納得いきません! ただでさえ旦那様の裏切りでつらい思いをされた奥様が、これ以上苦しむだなんて! 大奥様もジュリエッタ様が逃げようとしていることを知ったら絶対にお許しにならないはずです!」


「……私はもうここにはいられないわ。あなたのいう通り私が逃げようとしていることがお義母様に知られたら、公爵家に連れ戻されてしまう可能性だってあるもの」


 ジュリエッタの瞳には強い決意があった。


「それでいいではありませんか、奥様! 今ならまだ離婚が成立していません! 悪いのは全て旦那様なのですから、心を改めるべきは旦那様ですっ! 離婚なんてせず早く公爵家に戻りましょう!」


 必死に叫ぶユナを見れば見るほど、ジュリエッタは冷や水をかけられるように冷静になっていった。


「離婚ができなくなったらあの人は……レアンドロはどうなるの?」


「そんなの奥様を今まで以上に大事にするに決まってます! 公爵家のみんなは奥様の味方です! 旦那様が二度と奥様を裏切らないようにみんなで目を光らせます!」


 興奮状態のユナは顔を真っ赤にして言い募った。


 対するジュリエッタは静かな眼差しで呟く。


「ダメよ。私はもう、レアンドロのもとに戻ってはいけないの……」


「いいえ! 奥様はオルビアン公爵家に必要なお方です! 奥様がなんと言おうと、私は大奥様と旦那様に直談判しま……っ」


「ユナ!?」


 言葉の途中で急に倒れ込んだユナに驚いたジュリエッタが手を伸ばすも、先回りしたクラウチが小柄なユナを受け止めた。


 不安そうなジュリエッタへ向けられたクラウチの顔には呆れが滲んでいた。


「あまりにもうるさかったので私の術で眠らせただけです。それで、ジュリエッタ様はどうしたいのですか?」


 穏やかに寝息を立てはじめたユナを見て安心したジュリエッタは、ひと呼吸置くと真剣な目をした。


「先生、今すぐ私と一緒に逃げてくださらない? 誰も知らない土地で、静かに暮らしたいのですわ」


 ジュリエッタの言葉に頷いたクラウチは片方の口角を上げて微笑んだ。


「ええ、どこまでもお供いたしますよ。私にアテがあります。カルメラ様に代わり私達を支援してくださるようなお人が。その方を頼りましょう」


 予想外のクラウチの返答にジュリエッタは戸惑う。


「え、でも……ご迷惑になりませんこと?」


「問題ありません。実はこんなこともあろうかと、前々から協力を願い出ていたのです。先方も快く了承してくれていますから、一刻も早くこの屋敷を出ましょう」


 クラウチの言葉を聞いて少しだけ迷ったジュリエッタは、やがて意を決して頷いた。





 カルメラ宛の手紙を書き、ソファの上で眠り続けるユナに目をやったジュリエッタはもう一度クラウチに確認する。


「ユナは本当に大丈夫なのですわよね……?」


「丸一日は眠り続けるでしょうね。起きたあともしばらくは意識が朦朧とするはずです。このまま我々が逃げることをカルメラ様に知られたくないならば口封じした方がいいと思いますが、私が処理いたしましょうか?」


 医療用の刃物を手に袖をまくったクラウチの言葉は冗談に聞こえず、ジュリエッタの顔が青くなる。


「……いいえ! どうかユナに手荒なことはしないでください。ユナが目覚めてお義母様に連絡する前に、できるだけ遠くへ逃げましょう」


「分かりました」


 つまらなさそうに頷いたクラウチは、改めてジュリエッタに向き直った。


「では行きますか。まずは我々を支援してくださるお方のところへ。既に連絡は入れているので心配はいりませんよ。忘れものはありませんね?」


 部屋の中を見回したジュリエッタは横たわるユナから王都の方角に目をやり、クラウチに視線を戻して頷いた。


「はい。なにもありません。もともと私自身はなにも持っていないのですから」


 青白い顔で力強く笑うジュリエッタを見つめるクラウチは、いつもの胡散臭い笑みを引っ込めてジュリエッタに手を差し出した。


 今度こそその手を取ったジュリエッタは、暖かな屋敷を飛び出したのだった。









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― 新着の感想 ―
いかにほうれん草が大事かわかる話
ンアーッ!拙いですよクォレワ
DT臭い諸悪の根源王太子がとうとう…!
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