2.前世の夢
「寒い……」
翌日の朝、ジュリエッタはベッドで震えていた。
戦地から戻ったばかりの夫に食事をする間もなく日が昇るまで求められ、指一本動かせなくなっていたのだ。
服を着る気力もないジュリエッタは、胸部にある魔核を見下ろした。
「本当にすっからかんね」
魔力を持つ者の胸には必ずこの魔核がある。
宝石のような鱗のような、不思議な煌めきを放つそれは魔力を有していること、即ち貴族であることの証だ。
普段ジュリエッタの魔核はオレンジ色の光を宿しているが、今はその光がすっかり消えていた。
体力が尽きただけでなく、一晩中夫の体を温めるために熱の魔力を注ぎ、魔力が底をついたためだ。
そんな状態でも離れられず触れ合い続けていたことで、夫が持つ氷の魔力が逆流してきて体中が冷え切ってしまっていた。
「……レアンドロは大丈夫かしら」
寝返りも打てないジュリエッタは、すっかり温もりのなくなったベッドの隣を見ながら心配そうに呟く。
何も言わず朝早くに出て行った夫は一睡もしていないはずだが、無理をしていないだろうか。
レアンドロは幼少期、生まれ持った氷の魔力が強大すぎて放っておけば自らの心臓を凍てつかせ死に至らしめると言われていた。
成長するにつれて強大さを増す魔力に余命宣告までされた少年期のレアンドロと運命的に出会ったのが、ペルラー伯爵家の私生児として育ったジュリエッタだった。
この国の貴族は例外なく魔力を持って生まれる。
貴族の血筋はもれなく魔力を有しており、魔力を持つことこそが貴族の証でもあった。
平民の娘であるにもかかわらず魔核を持って生まれたジュリエッタは、すぐに貴族の私生児だと判明し実父であるペルラー伯爵に引き取られた。
魔力にはそれぞれ属性があり、属性ごとに使える魔法が異なる。
魔力の属性と血縁には因果関係がないとされる。
ジュリエッタが生まれ持った魔力は熱の魔力で前例が少ない稀な属性だが、火や水の魔力に比べるとこれといった使い道がなく、娘の魔力の属性を知った父は早々にジュリエッタを見限った。
魔力があるからと伯爵家に引き取られたものの、役立たずな属性故に厄介者扱いされていたジュリエッタは、レアンドロに出会って己の生まれた意味を知った。
使い道のない属性とされていた熱の魔力は、レアンドロの持つ氷の魔力を唯一抑えることのできる属性だったのだ。
ジュリエッタと出会うまで、レアンドロは火の魔力を持つ叔父の力でなんとか生きながらえていた。
しかし、火の魔力と氷の魔力は相性が良くなかった。
叔父が火の魔力でレアンドロを温めると、レアンドロの魔力でできた氷は溶けて水の性質になる。
水になった魔力は溶けたそばから火の魔力を打ち消し、レアンドロの体が完全に温まる前に叔父の火は消えてしまう。
レアンドロの魔力が強大すぎることも不運だった。
叔父がどんなに魔力を注ぎ込んでも、レアンドロの魔力の方が上回ってしまい、先に叔父の魔力が尽きてしまう。
複数の火の魔力持ち達が一斉に温めてみても、レアンドロの魔力が勝ってしまい結果は同じだった。
火の魔力ではレアンドロの体の中に蓄積した氷を溶かし切ることはできなかったのだ。
「すまない、レアンドロ。私ではお前を救ってやれない……」
涙ながらに謝る叔父に、オルビアン公爵家は幼い後継者の未来を諦めるしかないのだと絶望した。
それでもレアンドロがジュリエッタに巡り会うまで生きていられたのは、間違いなく力を尽くしてくれた叔父のおかげだった。
解氷が追いつかず、次第に指先から脚、腕……と、徐々に氷に覆われていくレアンドロはとうとう死を宣告された。
その氷が心臓に至るのが先か、魔力暴走により心臓が凍りつくのが先か、どちらにしろ死は時間の問題だという。
日に日に凍りついていくレアンドロは己の死期を悟り達観した少年期を過ごしていたが、ある日突然天啓は降ってくる。
「きれい……」
初めて会った時、ジュリエッタはレアンドロを見てそう呟いた。
療養のため温暖な南部に向かっていたレアンドロがたまたま立ち寄ったペルラー伯爵領で、両親と共に伯爵邸に招かれていた時のこと。
伯爵に挨拶中の父を待っている間、庭園で休んでいたレアンドロの前に、伯爵家の人間達から隠れていたジュリエッタが偶然通りかかったのだ。
陽射しに透ける白金色の髪、涼しげな銀色の瞳に眉目秀麗な顔立ちの美少年だったレアンドロは、達観した雰囲気も相まって子供とは思えぬ色香すら漂わせていた。
対するジュリエッタはサイズの合わないお下がりのドレスに身を包み、髪も適当に梳いただけの飾り気もない姿だったが、赤茶色の髪に夕陽色の瞳が温かみを感じさせてレアンドロとは対照的だった。
「こんにちは」
屈託なく差し出された手、輝く瞳に見つめられて顔を背けるレアンドロ。
「触るな!」
思ったよりも冷たい声が出た気がしたレアンドロは、呟くように付け加えた。
「……君も凍ってしまうから」
すっかり凍りついて動かなくなった指先を少女から避けるように引っ込めたレアンドロだったが、ジュリエッタの行動は早かった。
「この手、どうしたの? こんなに冷たくなってかわいそう……痛くない?」
問答無用のジュリエッタは、レアンドロの手を取るとぎゅうっと握り締めた。
驚いたレアンドロが手を引っ込めようとしたその時、信じられないことが起こる。
「嘘だ……」
叔父の魔力でも溶けなかった氷が、少女に触れたところから溶け出していくではないか。
あっという間にレアンドロの手から溶け落ちた氷は一瞬で蒸発し、動かなかった指先で少女の手を握り返すことができている。
「まあ、なんてこと!」
物陰からレアンドロを見守っていた公爵夫人カルメラが飛び出してきて息子の手を何度も確認すると、その目はすぐさま少女に向けられた。
「お嬢さん、珍しい魔力をお持ちのようだけれど、あなたはペルラー伯爵のご令嬢なのかしら?」
「えっと……私は……」
言い淀みながらも頷いた少女を見て、レアンドロの母は悲鳴のような声を上げた。
「今すぐ伯爵にお目にかからないと! ああ、神様……憐れな息子に救いの手をありがとうございます!」
それからの展開は早かった。
どんな手を使ってでも幼い後継者の命を救いたいオルビアン公爵家と、役立たずな属性の魔力しか持たない私生児を厄介払いしたいペルラー伯爵家。
手を取り合った両家の合意により、政略結婚が成立するまで時間はかからなかった。
「あの、よろしくね。レアンドロ」
ぎこちない笑顔で手を差し出す幼いジュリエッタ。
「…………うん」
対するレアンドロは目を逸らしながら気恥ずかしそうに頷くだけだったが、素っ気ないながらも握手に応じてくれた彼をジュリエッタは心から愛そうと誓った。
周囲より少し早い十代半ばで結婚して以来、夫婦としてそれなりに仲良くやってきたと自負しているジュリエッタは、ベッドの上で冷え込む体を縮こませた。
「うぅ……寒い。彼はいつもこんな寒さを経験しているのね」
ジュリエッタと結婚し命の危機を脱してからというもの、レアンドロはその強大な氷の魔力を利用し騎士として目覚ましい活躍を見せていた。
成人後早々に爵位も継承し、国王からの信頼も厚く、魔物が頻出する地域の討伐には必ずと言っていいほど駆り出されては成果を上げてくる。
今回の遠征でも活躍したと聞いているが、ジュリエッタと離れている間のレアンドロは不安定な状態だ。
毎回出征前にはたっぷりとジュリエッタの魔力を注ぎ、緊急時用に魔力を込めた魔力石も渡しているので一月ほどは問題ないのだが、それ以上の長期となると体に支障が出てしまう。
そのため必ず短期間で任務を片付けてはジュリエッタの元に戻ってくるレアンドロは、凱旋のたびにジュリエッタを求めた。
他にも方法はあるが、身体的接触が最も効率的に魔力を供給できるからだ。
昨晩もいつもの魔力補給だと思っていたが、それにしてもまさか魔力が底をつくほど求められるとは。
「また氷の魔力が強くなったのかしら。……なんだか年々触れ合う時間が長くなっている気がするわ。昨夜だって一晩中……」
自分の独り言に頰を染めたジュリエッタは、冷え切った体でドキドキと胸を高鳴らせた。
「どうして私の夫はあんなに素敵なのかしら。でも、無理だけはしてほしくないわ……。早く回復してまた温めてあげなくちゃ」
夫を心配するジュリエッタはいつの間にかそのまま眠りに落ちていた。
そして、前世の夢を見てしまった。