18.イレーネ・メトリル
「それが……その来客というのが北部のメトリル伯爵家のご令嬢、イレーネ様なのだそうです」
モランの言葉に舌打ちしたレアンドロは、顔を上げて執事を睨みつけた。
「チッ! だからどうした。そんな令嬢は知らん。連絡も寄越さず押しかけてくるとは何様だ?」
やはり覚えていなかったのか……と困った顔をしたモランは、おずおずと口を開く。
「連絡なら来ておりました。それも、ずいぶん前に……」
「なに?」
「そちらにお手紙がございます」
モランが指したのは、書類が山積みになった執務机の端に追いやられている一通の手紙だった。
手紙に書かれた差出人の名前はイレーネ・メトリル。
一月ほど前、王太子からの手紙と同時に送られてきたその手紙を開封もせず出征したのはレアンドロだ。
帰還後はジュリエッタのことで頭がいっぱいで、無我夢中で目の前の書類の山を片づけることに没頭していたレアンドロは、その手紙の存在を完全に忘れていた。
机の上にずっと放置されたままだった手紙の存在に今更気づき、レアンドロはバツが悪そうに鼻を掻く。
「…………仕方ない、通せ」
返事も返さないどころか開封さえしていなかった手紙を無視することもできず、レアンドロは苛立ちを隠さないまま客人を受け入れたのだった。
よく晴れた空のように透き通る青い髪に、はっきりとした目鼻立ちが美しいイレーネ・メトリルは、従者の少年を引き連れてレアンドロの執務室を訪れた。
「公爵様におかれましては、大変お忙しい中とは存じますがお時間をいただき感謝申し上げます」
令嬢らしい仕草で優雅に挨拶したかと思うと、愛想のかけらもないレアンドロの無表情に向かって唐突に嫌味を付け加える。
「あまりにもご多忙の公爵様にはお手紙の返事を書く時間もないようでしたので、こうしてわざわざ北部から王都まではるばると出て来てしまいましたわ」
おほほ、と笑う目は笑っていない。
自分に非があることが分かっているレアンドロは、今すぐ追い返してしまいたいのを我慢して本題に入った。
「それで、北部の令嬢がなんの用だ?」
素っ気ないレアンドロの態度に、イレーネは鼻を鳴らした。
「あら。お手紙にもお書きしましたのですけれど、まさか読んでもいらっしゃらないなんてことはありませんわよね? 天下のオルビアン公爵様ともあろうお方が北部を代表する家門、メトリル伯爵家から届いた手紙を無視するだなんてあり得ませんもの」
皮肉をたっぷり込めたイレーネの話しぶりに、レアンドロはうんざりしはじめていた。
どうして女という生き物はこうも嫌味ったらしいのだろうか。
そこまで考えて思い出すのは、愛する妻ジュリエッタのことだ。
感情表現が下手で誤解されやすいレアンドロを、ジュリエッタはいつも素直に受け止めてくれていた。
こんなふうに皮肉交じりの嫌味をジュリエッタの口から聞いたことはない。
気難しいと言われるレアンドロを対外的に支えてくれたのは、あのジュリエッタの柔和な性格だった。
思考がジュリエッタで埋まりそうなレアンドロは、小さく首を振って話を戻す。
「……用件を」
噂通りのレアンドロの冷徹ぶりに詰るのを諦めたイレーネは、背筋を正して令嬢らしい仕草で頭を下げた。
「公爵様の氷の魔力のお力をお借りしたいのです」
「俺の魔力を?」
この時点でピンときていないレアンドロを見て、やはり手紙を読んでくれていなかったのだと確信したイレーネは一から説明を始めた。
「私は領地に棲息する希少な氷狐の保護活動をしているのです」
「氷狐……北部にのみ棲息する銀狐の一種だったな」
「はい。我がメトリル領では古くから、氷狐との共生関係を築いてきました。寒い北部地帯を好んで棲息する氷狐と、彼らを保護するメトリル家。人を襲わず魔物を狩る氷狐は私達の重要なパートナーなのです。北部に魔物被害が少ないのは、間違いなくこの氷狐のおかげです」
心底どうでもいい……とレアンドロが投げやりな気持ちになったところで、その気持ちを察知したかのように手を叩いて大声で宣言するイレーネ。
「私はこの氷狐の素晴らしさを世界中に広めたいのですわ! ルカ、資料を!」
「はい、お嬢様!」
「!?」
イレーネの一声で鞄から大量の資料を取り出した従者は、礼儀などわきまえず氷狐に関する様々な文献や絵をレアンドロの前に遠慮なく突き出した。
「私の運営する保護施設には、数十匹の氷狐が暮らしております。しかし、近年の暖冬のせいで北部全体に棲息する氷狐の個体数が目に見えて減っているのです」
イレーネの言葉に合わせ、従者が資料のグラフを指してグイッと見せつけてくる。
「調査によると私の曽祖父の代には現在の三倍もの個体数が確認されておりましたのに、ここ数年の個体数は著しく減少傾向にあり非常に由々しき事態です」
レアンドロが口を挟む暇もなく、ものすごい勢いで話し続けるイレーネは止まらない。
「氷狐を診てくださったお医者様のお話ですと今年は特に例年よりも気温が高く、氷や雪を好む氷狐にとってとても過酷な状況だとか。あぁ、可哀想な氷狐達……」
「おいたわしゅうございます……」
息ぴったりな従者と共に大袈裟な身振りで嘆いたイレーネは、次の瞬間にはますます声のトーンを上げた。
「そこで公爵様にお力添えをいただきたいのです! 公爵様が保護施設でほんのちょっとでも氷の魔力を解放してくだされば、氷狐達はたちまち本来の元気を取り戻すことでしょう!」
令嬢の止まらぬお喋りに、紅茶を出そうとしていたモランも目を瞠るばかりだ。
「氷狐は魔物を狩りますから、魔物討伐に秀でた公爵様の手助けにもなりますわ。公爵様の名高い氷の魔力とも相性抜群! 私の構想では、公爵様と共に魔物討伐を行う氷狐隊というものなんかも考えておりますの」
高らかに演説するイレーネと、次から次へと資料やらなにやらを取り出してはテーブルの上に並べていくイレーネの従者。
「他にも色々な事業を考えておりましてよ。氷狐は見た目がとにかく可愛いですから、氷狐を目玉とした観光業にも力を入れ始めておりますの。あとは氷狐を模ったお菓子やら、氷狐の絵を描いた食器も試作中ですわ」
イレーネの勢いに呆気に取られ、もはや話の半分も聞いていなかったレアンドロだったが、あるものが目に入り動きが止まる。
目についた氷狐のデッサンを見たレアンドロは、真っ先に頭をよぎったことを呟いていた。
「……ジュリエッタが好きそうだな……」
「はい? なんですって?」
話の続きをしようとしていたイレーネは、声音がガラリと変わったレアンドロの呟きに首を傾げた。
「いや……すまない。私の妻が、こういった愛嬌のある小動物が好きなのだ」
先ほどまで微塵の関心も見せなかったレアンドロが、食い入るように氷狐の絵を見つめている。
好機と捉えたイレーネは、ここぞとばかりに氷狐のアピールをはじめた。
「確かに氷狐はモフモフでとても愛らしい見た目をしておりますもの。ご婦人方にはとても人気でしてよ。公爵様の奥様もきっとお気に召しますわ」
「…………」
〝奥様〟という単語にレアンドロが反応したことをめざとく見抜いたイレーネは、彼の弱点が妻であることを確信し次の手を打った。
「奥様は動物を飼った経験がおありになりまして?」
思った通り、〝奥様〟の話題に反応したレアンドロは別人のように口数が増えた。
「いや。愛情深い妻は最期を看取るのが可哀想だとこれまで動物を飼ってこなかった。……もしかしたら生き物を凍えさせてしまう俺に遠慮して飼おうとしなかっただけかもしれないが。いつだったか、モフモフな動物と一緒に昼寝するのが夢だと言っていた」
妻の姿を思い浮かべているのか、切なそうな表情で聞いていないことまで答えはじめたレアンドロにイレーネの目がキラリと光る。
イレーネが頭の中の算盤を弾いている間、レアンドロの目は氷狐に釘付けだった。
モフモフとした銀色の毛並みに覆われ、気品がありつつも穏やかそうな見た目の氷狐はとても愛らしい姿をしている。
一目見るだけでも、ジュリエッタはきっと喜ぶだろう。
『まあ! あなた、ご覧になって。なんて愛らしいんでしょう』
氷狐を見て感激したようにほころぶジュリエッタの笑顔がレアンドロの頭の中に咲き乱れた。
ジュリエッタのことで頭がいっぱいになったレアンドロは今や、前のめりで氷狐の絵を見つめている。
手を叩いたイレーネは、いいことを思いついたとばかりに提案をした。
「それでしたらこうするのはいかがです? ご助力いただけましたら、氷狐を一匹お譲りいたしますわ」
「なんだと?」
レアンドロの反応は素早かった。
話を聞く気もなかったのが嘘のように、顔を上げてイレーネの言葉の続きを待っている。
「氷狐の寿命は人と同じくらい長いですし、氷の魔力を持つ公爵様にはとても懐くはずです。むしろ、公爵様がそばにいれば王都でも飼育可能なほど元気に育つでしょう。ついでに公爵夫人のペットともなれば、王都の貴族に氷狐の愛らしさを広めるよい機会にもなりますわ」
「…………」
「公爵様にとっても、私にとってもいい取引だと思いませんこと?」
レアンドロは想像してみた。
帰ってきたジュリエッタが、氷狐を見て喜ぶ様を。
あの夕陽色の目を輝かせてあれこれと世話を焼き、氷狐のためにいろんなものを買い集める姿が目に浮かぶ。
そしてレアンドロの手を握り、『あなた、ありがとう。大好きです』と何度も言ってくれるのだ。
ドレスや宝石のような形ばかりのものではなく、ジュリエッタが心から喜ぶような贈りものができたら、少しはレアンドロのことを見直してくれるだろうか。
レアンドロの喉がゴクリと鳴る。
「いいだろう。提案に乗ろう」
視線だけで従者とハイタッチを交わしたイレーネは、口元のニヤつきを抑えきれていない澄ました顔で手を差し出した。
「ぜひよろしくお願いいたしますわ、公爵様! それでは今後の話し合いもありますし、しばらくはこちらに通わせていただきますわね!」