16.経過観察
「体調はすっかり回復しましたね。傷の状態も悪くないです」
郊外の屋敷で療養暮らしを開始して数日、ジュリエッタを診察したクラウチは、術後の経過が良好な彼女を見て満足げに微笑んだ。
「先生のおかげですわ」
ベッドの上に起き上がり、クラウチへと微笑み返したジュリエッタが自らの胸を見下ろすと、魔核があった場所に皮膚同士を縫い合わせた醜い傷跡ができていた。
「時間が経てば少しは目立たなくなりますよ」
ジュリエッタの視線の先を追ったクラウチがあっけらかんと言う。
少しは目立たなくなる。それはつまり、この傷は完全には消えないということだ。
女性の胸部にできた傷が残ることを全く気にしていないらしいクラウチに、ジュリエッタはむしろ救われた気がした。
「そうですわね」
醜い傷を負ったジュリエッタは、今後二度と嫁にはいけないだろう。
それでもいいと思えるのは、ジュリエッタの心を占めるのがレアンドロだけだからだ。
彼以外に嫁ぐことなどあり得ない。ならば、彼への愛の証としてこの傷と一緒に生きていく方が幸せなのではないだろうか。
傷跡を優しくなぞったジュリエッタは、晴れ晴れとした顔を上げてクラウチに提案した。
「お茶でも飲みませんこと?」
「いいですね」
クラウチが急須でいれてくれた緑茶を受け取ったジュリエッタは、飲み慣れた紅茶よりも青臭く感じるそのお茶を一口飲むと困ったように眉を下げた。
「このお茶、あまり美味しいと感じませんの。前世ではよく飲んでいたはずですのに」
「そういうものですよ。魂が既に今の世界に染まっているのです。特に体はこの世界のものですから、お口に合わないのはある意味当然ですね」
普通のことだと笑うクラウチだが、代わりのお茶を用意する気配もない。
しばらく静かに緑茶と向き合ったあと、ジュリエッタは湯呑みを見下ろしながら呟いた。
「……先生。……彼は、レアンドロは健やかにしているのでしょうか」
「あなたはいつもそればかりですね」
日に何度もジュリエッタから聞かれる質問に、クラウチはやれやれと首を振る。
「何度もお伝えした通り、もともと定期的にジュリエッタ様の魔力を摂取していたこともあって、公爵様の経過は良好そのものです。ジュリエッタ様の魔核が馴染み、氷と熱の魔力両方を問題なく使用しているそうです」
何十回も説明された内容をまた聞いてしまったジュリエッタは、恥ずかしそうに身を捩らせた。
「何度も聞いてしまいすみません。ですが、気を抜くと彼のことばかり考えてしまうのです」
「重症ですねぇ。残念ながら恋の病を治す治療法はこの世にありませんよ」
クラウチなりの冗談のつもりだったのだが、ジュリエッタの反応は予想以上に重いものだった。
「重症……。確かに、この傷跡と同じように、この気持ちも一生治らないものなのでしょうね」
遠くを見ながらしみじみと呟くジュリエッタに、クラウチはむず痒くなり頭を掻く。
「あの、ジュリエッタ様。そんなに重く受け止められても困ります。ジュリエッタ様にはきっと、もっと相応しい殿方が現れますよ」
クラウチの慰めの言葉に頷くことはなく、ジュリエッタは王都の方角へ顔を向けた。
「……実は、夢を見るのです」
「前世の夢ですか?」
「いいえ。……彼が泣いている夢です」
シーツを握り締めたジュリエッタは、何度も夢に見たレアンドロの泣き顔を思い出し唇を噛み締める。
「彼が泣きながら私を呼んでいる夢を見るのです」
「…………」
黙り込んだクラウチは、興味深そうな目をジュリエッタに向けていた。
深呼吸をしたジュリエッタは夕陽色の瞳に涙を溜めてクラウチを見る。
「先生、私がしたことは、ちゃんと彼の未来のためになっているのですわよね?」
どうにもジュリエッタは、夢の中で嘆き続けるレアンドロのことを想うと不安で堪らないのだ。
今すぐそばに行って抱き締めて、慰めてあげたい。が、そうすることができないことが切なくてつらくて、胸が張り裂けてしまいそうになる。
一人で肩を震わせるレアンドロを見ていると、自分がなにかとんでもない間違いを犯した気分にさえなった。
その不安を掻き消してしまいたくて問うジュリエッタに、クラウチは顎に手を当てて考え込んだ。
細めた目でジュリエッタのことをジロジロ見ると、なにかを懐かしむかのように小声で呟いた。
「…………呆れるほど純粋で愛情深く、バカみたいにお人好し。まるで誰かさんを見てるみたいだ」
「はい?」
よく聞き取れなかったジュリエッタは首を傾げる。
「いえいえ、なんでもありません。私が個人的にジュリエッタ様に興味があるって話です」
開き直ったように笑うクラウチの言葉が理解できず、ジュリエッタが更に眉を寄せたところでクラウチは本題を思い出した。
「えぇっと、ジュリエッタ様の行いについてですね。結論から言うと、ジュリエッタ様のなさったことは間違ってはいないはずですよ。だってジュリエッタ様は公爵様の未来を変えたいと願われたんですよね?」
「それは、まあ……」
そう問われると頷くしかないジュリエッタは、曖昧に首を縦に振った。
「でしたらその願いは確実に叶っています。公爵様の未来は善かれ悪しかれ当初とはまったく違うものになりましたからね」
含みのある言い方だったが満足げなクラウチは自信満々で、ジュリエッタはその黒い瞳を見ているうちにそういうものなのかと納得してしまう。
「先生のおっしゃる通りですわ。これでレアンドロの運命は変わったのです。なにも間違ってなどいない。彼の夢を見るのはきっと……私の未練が故ですわね」
「……まあ、そういうことにしておきましょう」
小さなクラウチの呟きは聞こえなかったのか、ジュリエッタは再び不味い緑茶を啜った。
気を取り直して立ち上がったクラウチは、テキパキと急須をしまいながらジュリエッタに声をかける。
「さて。他になにか必要なものはありませんか?」
「あ、それでしたら新聞をいただけませんこと?」
カルメラが用意してくれた郊外の屋敷には、毎日新鮮な食料と物資が届けられる。
その中から目当てのものを見つけたクラウチがジュリエッタに新聞を手渡した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
受け取った新聞をパラパラとめくったジュリエッタだったが、その顔は次第に曇り出し、昨日も思ったことを知らず口に出していた。
「……やっぱりないわ」
「なにを探しているのです?」
ジュリエッタの様子を観察していたクラウチが問えば、独り言を呟いていたことに思い至ったジュリエッタが気まずそうに答えた。
「私達の離婚の記事です。オルビアン公爵家の離婚ですもの、当然大々的に取り上げられるはずでしょう?」
ここ数日、毎日新聞に目を通しているジュリエッタは自分の離婚の記事を探していたのだが、一向に記事が載る気配がない。
不思議そうなジュリエッタへと、クラウチはいつもの胡散臭い笑みを向けた。
「ああ、そのことでしたら…………公爵様が離婚を渋っているそうですよ」