13.悪夢の目覚め
「ジュリエッタ……?」
どれだけ眠っていたのだろうか。
今までにないほど深い深い眠りから目覚めたレアンドロは、妻の魔力をすぐ近くに感じて手を伸ばした。
しかし、彼が横たわるベッドの隣はひんやりと冷たく、妻の温もりは感じられない。
レアンドロは気怠い体で起き上がり、目を擦りながら妻の姿を捜した。
「ジュリエッタ? どこにいるんだ? ……ジュリエッタ?」
目覚めたばかりの光に慣れない目で室内を見回してみても、妻の姿はない。
氷の魔力のせいで妻に触れていなければ冷え込んでしまうはずのレアンドロの体が、今はちょうどよく芯から温まっている。
まるで妻を抱いているときのように体が楽だ。
この状況を訝しみながらも妻を捜そうとベッドから出たレアンドロは、胸部に小さな違和感を覚えた。
しかし、ほんの小さな痛みだったこともあり、妻を捜す方が先だと周囲を見回した。
そして、机の上にあった手紙と書類に気づく。
「これはなんだ?」
手に取り見下ろした書類の文言を見たレアンドロの瞳が驚愕に見開かれる。
「離婚……届っ?」
その文言を読み上げた瞬間、レアンドロの心臓は文字通り凍りついた。
氷の魔力が暴走し心臓を凍てつかせたのだ。
「うっ!」
胸を押さえて倒れ込むレアンドロ。
だが不思議なことに、心臓を凍らせた氷はすぐに溶けてしまった。
愛する妻のものと全く同じ熱の魔力が、レアンドロの体の中から湧き上がり氷の魔力を溶かしていく。
「いったいどういうことだ……?」
自分の体に起こった変化が信じられず、レアンドロは周囲を見渡した。
「ジュリエッタ? 君か? 君が助けてくれたのか?」
呼びかけに答える声はなく、レアンドロは不吉な予感がして慌てて先程の手紙を手に取った。
その手紙には衝撃の事実が綴られていた。
【愛するあなたへ
どうか手紙で別れを告げるご無礼をお許しください。
あなたの未来のために、私は身を引きます。
ですからあなたの人生に影を落とす私のことは綺麗さっぱり忘れてくださいね。
あなたが必要とする私の魔力だけはあなたに残していきますので、どうぞ安心なさってください。
いつもあなたの幸せを祈っております。
天高き秋の日に ジュリエッタ】
「魔力を俺に……?」
震えるレアンドロは、生まれつき持っている強大な氷の魔力以外の力を身の内に感じて震え出す。
何よりも愛する妻が持っていたはずの熱の魔力が、自分の中にある。
信じられない思いで胸元を押さえたレアンドロは、そこにある感触に違和感を覚えて自らの胸を見下ろし驚愕した。
魔力所有者であれば必ずある魔核。
宝石のような美しい煌めきを放つその魔核が、見慣れた銀色のものの他にもう一つある。
いつもジュリエッタの胸で煌めいては自分を誘惑してきた美しいオレンジ色の魔核。
それがなぜか、自分の胸にあるのだ。
世界がひっくり返るほどの衝撃を受けたレアンドロは、眠りに落ちる前のことを必死に思い出そうとした。
しかし、どんなに思い出そうとしても記憶が曖昧だった。
「遠征から帰還して……、いつものようにジュリエッタが出迎えてくれて……っ」
そこからの記憶がなにもない。
「…………くそッ!」
部屋を飛び出したレアンドロは、そばにいたメイドを捕まえて怒鳴りつけた。
「ジュリエッタはどこにいる!?」
「お、おやめ下さい! 奥様は……もうここにはいません!」
「なんだと!?」
怒りに取り乱すレアンドロからメイドを守るように、護衛の騎士が二人の間に割り込んだ。
「旦那様、どうか落ち着いて下さい」
一歩引いたレアンドロが冷静になろうと息を吐くと、周囲の冷たい視線がレアンドロに突き刺さる。
集まってきた使用人達が、眉を顰めてレアンドロを見ているのだ。
まるでこの家の主であるレアンドロを軽蔑しているようなその視線。
戸惑うレアンドロが更に一歩後ずさったところで、背後から鋭い声が上がる。
「何を騒いでいるのですか!」
「母上……」
威厳を滲ませるレアンドロの母カルメラが、目を吊り上げて歩いて来た。
「レアンドロ、目が覚めたのですね。医者からは問題ないと聞いていますが、体に異常はありませんか?」
「はい。母上、そんなことよりもジュリエッタは……」
「ジュリエッタ、ですって? お前がその名を気安く口にするなんて!」
母の気迫にレアンドロは目を見開いた。
そして続く言葉に再び心臓が凍りそうになる。
「私はお前が情けなくて仕方ないわ! あんなにお前を想ってくれる妻がいながら不貞を働くだなんて!」
「ふ、不貞!? なんのことですか!?」
身に覚えのなさすぎる単語に飛び上がったレアンドロは、事態が呑み込めないまま叫んだ。
「俺が愛しているのはジュリエッタだけです!」
「言い訳は結構! そんな子に育てた覚えはなかったというのに、どこで間違えたのかしら。それでもジュリエッタの気持ちを汲んで、後妻を迎えることは許可してあげます」
「後妻? 何を訳の分からないことを! 俺にはジュリエッタが……」
「お前なんかにジュリエッタはもったいない! あの子がお前のためにどれほど献身的だったことか! 魔力を失うのも厭わずその力をお前に残していったのよ! あの綺麗な肌に醜い傷跡まで作って……。お前のような恩知らず、今後一切ジュリエッタに近づくことを禁じます!」
魔力を失う、醜い傷跡、近づくことを禁じる……。
母の言葉一つ一つに鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けよろけながら、レアンドロは必死に混乱する頭を働かせた。
「母上、誤解です。何がどうしてこんなことになったのか分かりませんが、全て誤解です! 説明するのでジュリエッタに会わせて下さい!」
縋り付く息子の手を、母は無慈悲に振り払う。
「お前のような不孝者に、ジュリエッタの居場所は絶対に教えません!」
「母上……!」
叫びも虚しく、母は背を向けて行ってしまった。
失意のレアンドロは、ふらふらと覚束ない足取りでジュリエッタの部屋に向かった。
扉を開けた瞬間、レアンドロは息を呑んだ。
ジュリエッタの部屋は何も変わっていなかった。
レースのカーテンから入り込む温かな陽射しも、設えた調度品の位置も、どこか落ち着く甘やかな香りも、全てがそのままなのに、いつも扉を開くと笑顔で出迎えてくれたジュリエッタだけがいない。
ドレスルームを開けると、レアンドロがジュリエッタのために選んで贈ったドレスや宝石類も全て残されたままだった。
前回の遠征から帰還した際に渡したマンダリンガーネットのネックレスも、主人を失くして虚しく輝いている。
レアンドロの愛する妻は何も持たずに出て行ってしまったのだ。
全てがそのままの部屋を見て打ちのめされるレアンドロは、その場に膝を突き両手で顔を覆った。
「なぜだ……どうしてだ、ジュリエッタ。俺はこんなにも君を愛しているというのに」
身の内で暴れる氷の魔力に凍りついてしまいそうな心臓は、すぐに熱の魔力で温められ正常に動き続ける。
その事実がレアンドロを地獄に突き落とすかのようだった。
いっそのこと凍え死んでしまえたらいいのに。
涙が頰を伝っていく。
「こんな魔力だけ残していっても……君がいなければ生きている意味がないじゃないか」
絶望するレアンドロの声が、ジュリエッタだけがいない彼女の部屋に響き渡った。