10.義母カルメラ
「な、な、な、なんですって……!?」
目を極限まで見開いたカルメラの絶叫は、屋敷中に響き渡るほど大きかった。
「ああ、ジュリエッタ!! 離婚だなんてっ! いったいなにがあったというの……!?」
ジュリエッタの肩を掴み、カルメラは取り乱しながら問い質した。
対するジュリエッタは目に涙を溜めながら深々と頭を下げる。
「どうか不義理をお許しください。私は、レアンドロに幸せになってほしいのです」
「レアンドロに? どういうこと? ねぇ、ジュリエッタ、話してちょうだい。あなたとレアンドロはこれまで、とても仲良くやってきたじゃない。母親の私から見ても微笑ましい夫婦だったのに、どうして突然……」
興奮してジュリエッタの肩を揺さぶるカルメラは、ジュリエッタの瞳から涙があふれ出るのを見て動きを止めた。
「……私では……私ではダメなのです」
それはいつも明るいジュリエッタからは想像もできないような、か弱く暗い声だった。
華奢な体を震わせて涙ながらにジュリエッタは語る。
「私は彼の幸せを邪魔する悪妻でしかないのです。彼の幸せのために、私は身を引かなくてはならないのです。どうか、どうかお許しください」
「ジュリエッタ……」
なにがなんだか分からないながらも、カルメラは尋常ではないことが息子夫婦の間に起こっているのだと察知して呆然とした。
いずれにしろ詳しく話を聞かなくては、とジュリエッタの肩を優しくさすったカルメラは真剣な面持ちで問いかける。
「あなたではダメだなんて、レアンドロがそんなことを言ったの?」
ジュリエッタは鼻をすすり涙を拭きながら静かに首を振った。
「いいえ。優しい彼のことですもの。思っていても、面と向かってはおっしゃらないのです。ですが、きっと何年も何年も私への嫌悪を耐え続けていたのですわ」
しゃくり上げるジュリエッタにかける言葉が見つからず、カルメラはオロオロと嫁の肩をさすり続けた。
その間にもジュリエッタの口からは信じられないような言葉が次から次へと飛び出していく。
「彼には私なんかよりもずっとずっと相応しい、運命の相手が別にいるのです。なのにその気持ちを押し殺して、ずっと私のような女を妻として尊重してくれていたのですわ。彼にとっては生き地獄のような日々でしたでしょうに……。私はもうこれ以上、彼を苦しめたくありませんっ」
ジュリエッタの泣きじゃくる姿は痛々しく、その口から語られる内容はカルメラにとって衝撃的なものだった。
額を押さえたカルメラは恐る恐る口を開く。
「ちょっと待ってちょうだいね。私も混乱しているのよ。あなたの言葉はまるで……レアンドロにあなた以外の女性がいると言っているように聞こえるわ」
「………………」
ピタリと動きを止めたジュリエッタに、カルメラは絶句した。
「まさか、なにかの間違いではなくて? 私が見る限り、あの子はあなたに首ったけなはずよ」
顔を青くしながらカルメラが問うと、ジュリエッタは静かに話しはじめた。
「私が毎日のように彼に手紙を送っていたのはご存じですよね? ですが、彼は私には一度も手紙の返事をくれたことがありませんでした。なのに……とある女性とは、熱烈な手紙のやり取りをしていたのです」
先ほどレアンドロの執務室で見た書きかけの手紙を思い出し、ジュリエッタは唇を噛み締める。
「それは……本当なの?」
声を低くしたカルメラはジュリエッタの沈黙が答えであると悟ると、息子に対する怒りと情けなさで頭が沸騰しそうだった。
その怒りを感じ取ってか、ジュリエッタが慌てて弁明する。
「わ、私が悪いのです。彼を必要以上に愛して、執着して、振り回して、毎日送る手紙だって、きっと煩わしかったに違いありません。彼にとって心から安らげる相手は……私ではないのです」
レアンドロを庇うジュリエッタの夕陽色の目からは、ポタポタと大粒の涙が溢れ続けている。
こんなにも純粋な嫁を裏切って不貞を働くとは。我が息子ながらどうしてくれようかと心の中で怒りに燃えるカルメラは、いじらしいジュリエッタをなんとか宥めようとした。
「でも、離婚だなんて。考え直してちょうだい。公爵家にもあの子にも、あなたは必要な存在なの。それに、あなたはその……ご実家と疎遠でしょう? もし離婚したとなったら、あなたには帰る場所がないのではなくて?」
ジュリエッタの手を握り優しく撫でながら、カルメラは必死に嫁を説得する。
しかし、ジュリエッタは想像以上に手強かった。
「確かに、ペルラー家は出戻りなど許さないでしょう。ここを出たら私に行く当てはありません。ですが、私のことはどうなっても構わないのです。私はレアンドロが幸せならそれだけで……」
これまで何年もレアンドロに尽くしてくれたジュリエッタは、なおもレアンドロを想い身を引こうとしている。
カルメラはやるせない気持ちで眉を寄せて考え込んだ。そして沈んだ声で再度口を開いた。
「……レアンドロの体はどうするの? あなたがいなければ、あの子は氷の魔力に呑み込まれて死んでしまうわ。あの子を見捨てる気なの?」
カルメラの言葉を聞いたジュリエッタは、涙を拭って顔を上げた。
「方法がありますわ。レアンドロに必要なのは私ではなくて、私の魔力だけですもの。魔力だけを彼に残していく方法があるのです」
「魔力だけを……?」
訝しげなカルメラへと強い眼差しを向け、ジュリエッタは大きく頷く。
「はい。私の魔力を作り出すこの魔核を取って、レアンドロの体に移植するのです。そうすれば、レアンドロは二度と氷の魔力に苦しめられることがなくなります」
ジュリエッタの口から語られた衝撃的な方法に、カルメラは口を開けたまま固まった。
「……魔核を、どうするですって? そんなことが本当に可能なの? いいえ、そもそもそんなことをしたら、あなたの魔力はどうなるというの?」
「私は魔力を失うことになります。それでも構いません」
体から魔核を取るというだけでも卒倒ものの話だというのに、それをレアンドロに差し出すというジュリエッタをカルメラは信じられない思いで見つめた。
「魔力を失えば……あなたは貴族の資格を失うことになるのよ?」
声を震わせるカルメラに、ジュリエッタは美しく微笑んだ。
「私はレアンドロに幸せになってほしいのです。私のような悪女に縛られることなく、本当に好きな人と人生を全うしてほしい。彼のためなら全てを捧げられますわ」
「ああ、ジュリエッタ。あなたはそこまでレアンドロのことを……」
「お義母様?」
急に泣き出したカルメラを心配し、優しくハンカチを差し出すジュリエッタ。
彼女の優しさを痛いほど知るカルメラは、ここまで尽くしてくれる嫁を裏切った息子に改めて怒りを抱いた。
あんな息子に、ジュリエッタはもったいない。
ジュリエッタには息子よりももっといい人を見つけて幸せにしてあげなければ。
「分かったわ。あの子には思うところがたくさんあるけれど、あなたに免じてその件については後日話し合うとして、あなたの願いが叶うよう私が手助けしてあげます」
力強くジュリエッタの手を取ったカルメラの顔は本気だった。
義母の協力を得られると分かりホッとしたジュリエッタは、満面の笑みを浮かべてその手を握り返す。
「お義母様! ありがとうございます……!」
少女のようにはしゃぐジュリエッタは夢見るように目を細めると、カルメラには聞こえない声で小さく呟いた。
「……これでレアンドロは幸せになれるのだわ」