浮気は許しません、旦那様
「あっ……いい……。気持ちいい……」
夫婦の寝室に響く男の声。
聞き間違うはずもない。この館の主、フィネル子爵の声だ。
屋敷の主人が寝室で房事らしき行為をしている。それ自体は正常なことだろう。今が真っ昼間という事に目を瞑れば。
問題はその相手が妻であるこの私――ジャネット・フィネルではないことだ。
「ここが気持ちいいのですか、旦那様」
「ああ……レリア、やっぱり君が一番だ」
「ふふっ、嬉しいですわ」
部屋の前で呆然と佇む私の耳に、聞きたくもない睦言が届く。それも知らず、夫は気持ち良さそうに声を張り上げた。
***
「それで、荷物をまとめて実家へ戻ってきたというわけですか」
「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃない。貴方の大切な大切な姉の、一大事なのよ」
「ご自分でそれ言っちゃいます?」
目の前で額に皺を寄せてはあと溜め息をついたのは、弟のロベールだ。
美しく艶のあるシャドウグレーの髪に海のように深い青色の瞳、気品のある佇まい。容姿に恵まれているこの男は、夜会に出れば常にご夫人たちの注目の的だ。
だけど私から見れば、生意気な弟にしか過ぎない。
こいつはとにかく口が立つ上、無駄に頭が良い。弟に比べれば頭の回転が悪い私は、口喧嘩ともなるといつも言い負かされてきた。
頭に来た私が幼いロベールに教育的指導をしたので、それ以来、私には逆らわなくなったけどね。古今東西、弟は姉に従うものなのだ。
「真面目に相談に乗ってくれなきゃ、婚約者のカロリーヌに貴方が8歳までおねしょしていたって教えるわよ」
「後生ですからやめて下さい」
「じゃあ、毎晩貴方の枕元で子守唄を歌おうかしら」
「毎晩、姉上の死の唄声を……!?永眠してしまいますよ!」
そりゃあ歌は苦手だけれど、そこまで酷くはないと思う。多分。
「はあ、もう……。話を聞けばいいんでしょ、聞けば」
「分かればいいのよ」
「それにしても、我々の父上ならともかく、あの堅物の義兄上が浮気とは少々信じ難いですね」
私たちの父、クラヴリー子爵は正妻である母以外に愛人を何人も抱えている。そんな夫を愛していた母はいつも嘆いていた。
正妻が亡くなる前日まで愛人宅に居座っていた屑野郎と血が繋がっていると思うと、自分の身体から血を抜き取ってしまいたくなる。
母にしろ愛人たちにしろ、あんな屑のどこがいいのかさっぱり分からない。そりゃ顔はいいけれど。顔だけは。ちなみにその美貌はすべて弟が受け継いだ。
私はと言えば、不細工とは言わないけれど母に似て並の容姿だと思う。
そんな私が選んだアロイス・フィネル子爵も、これまた平凡な顔立ちの男性だった。資金力も子爵家としては中の下といったところ。この上なく私と釣り合いが取れていると思う。
それにフィネル子爵の両親は仲睦まじい夫婦で、彼もそのような夫婦になりたい、浮気は絶対にしないと言ってくれたのだ。
この人とならば心安らげる夫婦関係を築けそうだと思い、彼と結婚した。
実際、夫は私を大切に扱ってくれていたと思う。毎日愛してると囁き、何よりも私の意思を優先した。
だから何の問題もないと思っていたのだ。今日までは。
「私だって信じたくはないけれど……。この目で、じゃなくてこの耳で直に聞いたのだから間違いないわ」
「まあ姉上が言うのならそうなんでしょう。しかしこういっては何ですが、そのくらいで離縁は難しいんじゃないですか?」
弟の言うとおりだ。貴族ならば、正妻以外に愛人を持つなど珍しくもない。
だけどずっと母の嘆きを見てきた私にはどうしても許せなかった。浮気ダメ、絶対。
私はすぐさまメイドたちへ聞き込みを行った。いつからレイラとそのような関係だったのかを知るためだ。
そして分かったことは……夫が寝室へ連れ込んでいたのは、レイラ一人じゃないということだった。毎日とっかえひっかえ、複数のメイドを連れ込んでいたらしい。
そこで堪忍袋の緒がブッチブチに離散した私は、いや元々切れていたけれど、ともかく置き手紙を残して婚家を出てきたというわけだ。
「そんなに多くの女性と関係を?それはまたお盛んですね。人は見かけによらないものだ。で、どうするんです?離縁して戻ってくるとして、ずっと実家に居座る気ですか?」
「それなのよねえ。もう修道院にでもいこうかしら」
「修道院だって無料じゃないんですよ。分かってます?」
行くところの無い貴族女性が修道院へ行くというのはよく聞く話だが、ただ放り込んで済むわけではない。
寄付金という名の世話料に、生活費も要る。それらはたいてい、実家が支払う。
修道院だって運営費用が必要なのだ。寄付金の額次第で、修道女になってからの扱いも変わってくる。神の庭も金勘定。世知辛い世の中である。
「職を探したほうが良いかしらね。と言っても、私が出来ることなんて令嬢相手の家庭教師くらいしか……」
「そんなことより姉上。客が来たようですよ」
窓から見えたのは、爆速でこちらへ走ってくる馬車。スピードを出し過ぎたのか、我が家の前からオーバーランした馬車から転がり出てきたのは、夫のアロイスだった。
「ジャネット!急に実家へ帰るなんて、いったいどうしたんだ。何が起こったんだ?」
ぜえはあと息荒い夫が、弟への挨拶もそこそこに私へ詰め寄った。走ってきたせいで顔は真っ赤だ。
「旦那様。私、離縁致します」
「なっ!?いきなり何を……。先週飲み過ぎて朝帰りしたことを、まだ怒っているのか?それともあれか、カード賭博で負けまくったからか?」
「義兄が意外とヤンチャだった件……」
「違います。旦那様が約束をお破りになったことですわ」
「約束?」
「結婚するときに約束したじゃありませんか。お忘れになったんですの?浮気しないという約定を」
「忘れてないし、浮気なんてしてない!」
しらばっくれるつもりらしい。舐められたものだ。
「私、知っていますのよ。旦那様が私に隠れて、メイドを部屋へ連れ込んでいること。しかもとっかえひっかえ」
「……!」
赤かった夫の顔が青くなった。魚のようにぱくぱくと口を開け、その喉からはヒューヒューと息が漏れている。
「何か言い訳があるのなら、聞いて差し上げますわよ。聞くだけですけど」
「あ、あれは浮気じゃなくて……マッサージだ!!」
「……はい??」
そういえば、あの時聞こえてきたのは夫の喘ぎ声だけだったような……。
いえ、煙に巻こうったってそうはいきませんわ。
「誤魔化されませんわよ!世の中には、閨で女性が殿方を楽しませる技術というものがあるのでしょう?」
「いやそうじゃない……。というか、何で君がそんなことを知っているんだ」
「旦那様が書斎にお隠しになっていた、いかがわしい御本に書いてありましたわ」
「見たのか、あれを!?」
今度は蒼白になって叫ぶ夫。
不埒な格好をした女性が男性に色々なさっている絵が描かれていたけれど。恥ずかしい趣味なのかしら。よく分からないわ。
「性癖は人それぞれですよ、義兄上。そんなにお気になさらずとも」
「そういう問題じゃない……」
よろよろとするアロイスは、執事のセバスチャンがすかさず持ってきた椅子に腰を下ろした。セバスったら、相変わらず見事な手際ですわ。
「本当に、ただの腰……じゃなくて、凝りをほぐすマッサージだったんだ。信じてくれ」
「だったら何で私へ黙っていたんです?そんなに酷いのなら、お医者様を呼ぶことだって出来たでしょう」
「……あまり知られたくなくて……」
「あ、もしかして。義兄上、腰痛です?毎晩頑張りすぎているとか?」
「……」
「図星のようですよ、姉上」
夫はまた真っ赤になり黙ってしまった。
確かに結婚してからと言うもの、三日と開けずに営みがあるのは事実だ。しかも一晩に二、三回ということも多い。
「それって普通のことじゃないの?」
「姉夫婦の閨事情……この世で一番聞きたくなかった情報だ……」
遠い目で呟いているロベールは放っておいて、私は夫へ向き直った。
「そんなに無理なさる必要はないでしょう?お身体に触るくらいなら、少し控えて下されば」
「だって、君の父上もロベールも、大層な美形じゃないか。それに比べて俺は容姿も良くないし、君に贅沢をさせてあげる財力もない。このままでは愛想を尽かされるんじゃないかと思って……だから夜だけでも満足させなきゃと」
「努力の方向性が間違ってます、義兄上」
だから私には言えず、メイドたちに頼んでこっそりマッサージしてもらっていたらしい。男性使用人に頼んだこともあるけど、力任せに揉むだけであまり気持ち良くなかったそうだ。
何で複数のメイドに頼んだかというと、「それぞれ揉み方が違うんだ。アリエルは腰だけじゃなくて肩や足のマッサージもうまいし、フラヴィは頭のマッサージが良くて。あとレイラのぐりぐり腰揉みはすごく効くんだ」ということらしい。
「おかしいと思ってましたよ。姉上ひとすじの義兄上が浮気するなんて。結婚して二年も経つというのに、いつも姉上べったりで目のやり場に困るくらいなんですから」
「そうだったかしら?」
「こないだの夜会なんて、姉上に話し掛けたベナール子爵令息を射殺しそうな目で睨んでいましたよ。見てるこっちが冷や冷やしました」
「だってあの男、ジャネットに『今日の装いは美しいですね』なんて色目を使いやがったから」
「単なる社交辞令でしょう」
「そんなことはない!あの青いドレスはジャネットに良く似合っていて、とても綺麗だった!」
今度は私の顔が赤くなってしまった。
「もう、アロイスったら……。私は父が散々母を泣かしてきたのを見てきたから、殿方の容姿には一切興味がないわ。いえ、あなたの見た目がどうでもいいという訳ではないのよ。好ましいと思っているし、何より私だけを大切にしてくれるあなたがいいのよ」
「ジャネット……!」
半泣きだった夫がぱぁぁぁと笑顔になる。なんて可愛らしい生き物かしら。
「俺も、君がいい。他の女性になんて興味ない。君がそばにいてくれれば」
「アロイス……私も……」
「ジャネット、愛している」
「二人とも、俺がいることを忘れてませんか」
夫と手を握り合って見つめ合っていたところに、ロベールが横槍を入れた。
「そういえばロベールがいたんだったわ」
「最初からいましたよ。はあ、アホらしい……」
うんざり顔のロベールから「仲直りしたのなら、さっさと帰って下さい」と言われ、私は夫の乗ってきた馬車で帰ることに。文句を言いつつも、弟は見送りに来てくれた。
「迷惑をかけたわね、ロベール」
「本当ですよ。俺も暇じゃないんですから」
「……ロベール、カロリーヌを大切にしてね。貴方なら大丈夫だと思うけど」
「言われなくてもそうしますよ。俺だって母上の子なんだから」
ふっと笑顔になった弟に手を振って、私は馬車へ乗り込んだ。
***
「あ~。そこ、いい……」
「ここですの?」
「そこそこ~!」
私の日課には夫のマッサージが追加された。レイラに教えて貰ったやり方でぐりぐり腰を揉むと、アロイスは気持ち良さそうに声を上げる。
夫が喘ぐ姿を見るのも、最近の楽しみのひとつだ。誰にも任せるつもりはない。
貴方の腰は私の物よ。あ、変な意味じゃないですからね。そこは誤解のなきよう。