第八話(終)
その後、アリデットはランベールに見合った自分であろうと苦労して作り上げた“笑顔を絶やさぬ聖母のような王妃”という評判を捨てた。
以前のように明るく周囲の人々を和やかにさせる人物ではあったが、人前でわがままを言ったり素直に悲しむ姿を見せるようになった。王妃ではなくランベールを愛する妻としての自分を優先させるようになった。公人として、完璧たる王の妻としては望ましくない姿だ。
「なぜこんな女を王妃にしたのだ」
半年もするとそんな声も出始めたが、その頃になるとアリデットのお腹が膨らみはじめ、アリデットが宮殿から出ることはなくなった。
「ほら、ランベール様にそっくり」
「だぁー」
「……私はこんな不細工ではないが」
無邪気に笑い自分に手を伸ばす赤ん坊を見たランベールの第一声はそれだった。
かわいい我が子を不細工と言われてアリデットはひどくむくれたが、王妃を気遣わぬランベールの言葉を初めて聞いたヤヒーアは盛大に笑った。
その不細工と言われた王子、名をグリフと名づけられた。
グリフは年を追うごとに美しい少年へと成長する。その容姿はランベールの生き写しのようであり、才能までも引き継いでいた。師も教科書も必要としない天才だ。
しかし、ランベールとは決定的な違いがあった。グリフには笑顔がよく似合う。幼いからではなく、グリフは本心から世界を美しいと感じ、人生を楽しみ、他者に感謝できる少年だったからだろう。
それは「母親から受け継いだものだ」とランベールは言ったが、アリデットは「あなたの別の可能性よ」と否定した。
ランベールは珍しく驚いた顔になると「そうか」と一言だけ呟き静かに頷いた。息子の姿から何かを思い出しているようであった。
そんなグリフの成長を見て、アリデット以外の人間にもゆっくりと変化が訪れだす。
まず国王ランベールが笑顔を捨て無口になった。政務上はそれまで以上に優れた王となったが、他人の仕事にも多くを要求するようになり、いつも難しい顔をするようになっていく。
これもわがままな王妃の悪影響かと一部ではまた騒がれた。しかし、それでアリデットが責められることはなかった。
「兄上、義姉上、すまなかった」
ベルヌを筆頭に王弟達が国王と王妃に頭を下げたからだ。
「俺達は王族として俺達の理想すら超える兄上と比較されることを恐れていた……心の中で兄上を神格化させたり怪物にすることで兄上から逃げていたのだ。そして全てを義姉上に押しつけた……」
今のランベールは以前と比べて無愛想で近寄りづらい雰囲気を放っているものの、王弟達にとっては違った。幼き日のランベールはただ優しいだけでなく、厳しくも弟達を導く兄であった。
王弟達は「兄に諦められた」という自らの至らなさから惨めな気持ちを抱えていた。そして、ランベールも弟達に何かを期待することをやめ、完璧な笑顔で壁を作った。その壁がなくなったことで、これまで王族としての政務から逃げるように距離を取っていた王弟達がランベールを支えるようになった。
変化はヤヒーアにも訪れていた。
わがままな王妃になったアリデットと理想の王を捨てたランベール――彼女はこの二人を期待と、どこか疑いの混じった眼で見守っていた。彼らの第二子が生まれるまでは。
無事生まれた娘がランベールに抱かれる姿を確認すると、ヤヒーアはこの国に来てから最も優しい笑みを浮かべた。翌日、ランベールに長い暇を貰うとその足で旅へ出る。アリデットとの文通は生涯続いたが、ヤヒーアが国へ帰ってくることはなかった。
アリデットとランベールに近しい者は気づいていた。
ようやく全てがあるべき姿に戻った。
全てが正しく回り始めたのだと。
ランベールは自身も気づかぬ内に押し殺してしまった自分を少しずつ取り戻し、しばし幸福な時間が流れた。
しかし、人生は正しければ上手くというものでもない。
次に生じた問題もまた深刻だった。
国王ランベールと息子グリフの不仲だ。
グリフ自身は父親から譲り受けた類まれなる才能で、その全ての期待に応えてみせたが、誰にでも多くを求めすぎる父に反感を抱いていた。愛する母や妹、大好きな叔父達にも一切笑顔を見せない父親をただ冷たい人間だと思っていた。
「なぜ父上は母上にあの様に冷たくするのだ! 叔父上にも!」
「あの人はあれでいいのよグリフ。やっと偽りの笑顔を捨てられたのだから」
「母上はどうしてあんな態度を取られて許せるのですか! 母上は愛されてもいないのに、父に依存しているだけだ!」
アリデットは、厳しさこそがランベールにとっての気遣いであり本気で人と向き合っている証拠なのだと言い聞かせるが、グリフは頑なに聞く耳を持たない。時には、他者の能力を見極められない父は無能であり王である資格はないと罵ることもある。次第にアリデットも弱い女性だと思うようになり、両親から離れていった。
歳が三十を超えると、グリフは早々に王位を渡すようランベールへ迫る。ランベールは息子の要求をあっさりと受け、アリデットと共に国政から退き隠居した。
権力に溺れた傲慢な王だと思っていた父の反応に肩透かしを喰らったグリフは、人生最大の混乱に陥りながらも王位を引き継ぐ。
グリフは言わば、戦争のない時代に生まれて悪擦れしなかったランベールだ。その後は順調に国を発展させ、自身の家族とは仲睦まじくやっていた。
彼にとって唯一の失敗は父親と最後まで距離があったことか。王位を退いたランベールは、どういうわけか自分が守りたかった母や叔父達と仲良く過ごしていると報告が入っていた。その話がグリフを意固地にさせ、直接様子を見に行こうとする足を遠のかせた。
「お兄様、最後くらい笑顔で見送ってあげましょう?」
「……お前は父を恨んでないのか」
「たぶん今でもお父様を悪く言ってる親族はお兄様だけだと思うわ。ちゃんと義姉様達と仲良くやれてる? たまにお兄様は色々と押しつけがましいって話も聞くけど」
先王ランベールの葬儀で、他国へ嫁いだ妹から文句と心配事を言われる。
アリデットは六十歳を迎える前に流行り病で亡くなった。多くの人間が四十より若くして死ぬ世界だ。十分に長く生きただろう。最後には少しだが言葉を交わすこともできた。グリフも母親の笑顔に負けないように明るく見送れた。
そして、不老不死を疑いたくなる程、いつまでも強壮で意気軒高であると思われたランベールもまた、後を追うように亡くなった。典医は老衰だと診断した。
無事葬儀を終えた後、グリフはひとり椅子に座って両親の遺品を眺めていた。
父と母の遺品は、大国の王と妃の物とは思えないほど粗末な物や意味の分からない物で溢れている。だがどれも温かみがあり見覚えがあった。母の手作り、そして母が父を驚かそうとして無駄遣いした異国の民芸品などだ。
「私は何かを間違えたのだろうか……」
「ねぇおとうさまっ、このたからばこもらってもいい?」
いつの間にか末の娘が部屋に入ってきていた。両手には重たそうに煌びやかな箱を抱えている。アリデットの宝石箱だろう。
「宝箱ではなくて宝石箱だな」
「んん~? カラカラしないよ?」
娘が耳を当てながら宝石箱を振って不思議そうにする。しかし、普通は宝石が転がって傷がつかないように柔らかい緩衝材で固定されている。
「おとうさまっ、あけてあけてっ」
「よいが、母上はこんな宝石箱など持っていたかな」
宝石箱に鍵がつけられていることに気づいた娘がねだってくる。グリフは宝石箱を受け取ると奇妙な感覚に襲われる。宝石箱を持った感触と違う。重さか、何かが動いている感覚があったせいか、とりあえず中身が宝石でないのは明白だった。
娘と共に部屋を探し宝石箱の鍵を見つける。中から現れたのは一冊の本だ。絵もタイトルもない表紙をめくってみると筆跡でランベールの物だと分かった。
「なんのごほんー?」
「日付は飛び飛びだが……父の日記だ。こんな習慣があったなんて知らなかった」
「おじいさまのにっき? おとうさまよんで!」
「いや……しかし、これは故人の……」
亡き先王の日記など読むものではない。こうしたものには、大体触れてはならない国家の闇や厄災が眠っている。しかし、膝の上で瞳を輝かせる娘と自身の好奇心に負けてグリフは日記を開いた。
最初の日付は、ランベールの下にアリデットが嫁いでくる少し前のものだった。
ランベールは最初からベルヌ達の企みに気づいていた。
ただしベルヌ達の望みは、兄より劣るという卑屈な気持ちからランベールの次の王位は継ぎたくないという思惑が見え透いている。だから初めは潰してやろうと考えていた。自分に“もしも”があれば、誰かにこの重荷を譲らなければならないのだから、そこまで甘えた事は言わせておけない。
しかし、相手がアリデットだと知り僅かに心が揺れる。
幾度かパーティーで見かけただけの若い娘。伯爵家の娘だというが、気品よりも華やかな笑顔が目立つ。大きな声で笑う姿はどこぞの村娘のようにも見える。
なのに彼女を眺めているだけで気が抜ける。それは不思議と悪い気分ではなかった。悪辣で底意地の悪い貴族共までが楽しそうに笑っている。あの奇妙な光景は彼女の純粋さから生まれるものだろうか。彼女と一度話をしてみたい――
「あの人が他人に興味を示すなんて……これは本当に父の日記なのか」
「そうだよ、おじいさまはおばあさまはとってもなかよしなの」
「なに、父に会ったことがあるのか? 一体どこで」
「おたんじょうびにね、おばあさまとこっそりプレゼントをもってきてくれるの」
答えてから娘は「あっ、ひみつだったんだ!」と慌てて口を塞いだ。
末の娘が生まれた時には、両親とは完全に疎遠になっていた。まさか人目を忍んで会いに来ていたとは。冷酷な人間だと思っていた父の輪郭がぼやけて分からなくなる。
グリフは気まずそうに見上げる娘の頭を撫でてから、没頭するように日記の続きを読む。
アリデットと結ばれた夜はランベールの後悔が綴られていた。
『意味もなく嘘をついてしまった』
『自分は安い好奇心で誰かに興味を抱いてはいけない人間だ』
『弟達は自分が近くにいるだけで顔を下に背ける。私が弟達の才能を奪ってしまったような罪悪感に駆られる』
『ヤヒーアは自分と会ってしまったばかりに共鳴してしまった。彼女は自分といることで暗い安らぎを見つけてしまったのだ』
『あの時はただ、一度も話す前に、子爵の息子に彼女が飼い殺されるのは好ましくないと感じただけだったのだが……やはり行動してからでないと答えの出ないこともある』
その後もランベールの懺悔は続く。
軽い気持ちでも未知のモノにはどうしても一度手を伸ばしてしまう。アリデットはすでに巻き込んでしまった。ならばどうする。アリデットを愛でるべきか。はたまた彼女なら自分の苦悩を笑い飛ばしてくれるのか。しかし、凡才であるアリデットに自分を理解できるのか。自分の異常性を知ったアリデットはどう思うのか。今更だが夫婦として取るべき距離が分からない。
その後悔と迷いは二年近く綴られていた。ところがある日付で一言、「私は変われるかもしれない」と書かれて一度日記は止まる。ページをめくると次は三十年近く日付が飛んでいた。
一体なぜランベールがそれだけ長い間、日記をつけるのをやめたのかは分からない。しかし、新しい日付、それはグリフが退位を求めた日だとすぐに分かった。
『今日、王位を譲れと言われた。グリフはまだ未熟だ。しかし、気づけば二つ返事で王位を譲っていた』
『息子は私のことが理解できないようだ。それでも過去の私よりは正しく育ってくれた。私は息子の育て方を教わらなかった。君のおかげだ、ありがとう』
『ただ気になるのは、アイツが昔の私に似ていることだ。君は大丈夫だと笑うが、本当にグリフは家族と上手くやれているだろうか』
『私には君がいてくれたが、アイツには君がいない』
『だが信じよう。アイツは私の息子ではあるが、君の息子でもあるのだから』
最後のページをめくった時、日記は涙で濡れてよれよれになっていた。
再開された後のそれは日記というよりも、まるで長編の恋文だった。
日記は父と息子の思い出。息子への心配から始まる。時には息子の噂話を笑いの種にしていることもあった――だが最後には、いつも最愛の妻アリデットへの言葉に繋がっていた。三十年の間に起きた父親の変化が、両親の過ごしてきた時間が目に浮かぶようだった。
「そうか……ああ見えて支え合っていたのだな」
「おとうさま、かなしいの?」
「いや、嬉しいんだ…………だけどすまない、この宝箱はお前にはあげられない」
「いいよっ、おとうさまにゆずってあげる!」
小さな娘は父親にハンカチを差し出すと、また次の宝箱を探しに行った。
そしてグリフは、無口な父から贈られた最高の教科書を再び最初から読み始める。両親の思い出の詰まった部屋には、日が暮れて黒いインクが見えなくなるまでページをめくる音が静かに鳴っていた。