第一話
「悪いがこの婚約、破棄させてもらうッ!」
ノックもなく開け放たれた扉、そして突然告げられた怒声に、誰もが間抜けな顔をして時を止めていた。だがその反応も当然だった。婚約破棄――貴族同士の関係を木っ端微塵に壊しかねないその暴言を、誰であろう今回の話を持ち掛けた張本人ブラン伯爵が言ったのだから。
「すまなかったアリデット。お前がこんなボンクラと結婚する必要はなくなった。さあ、我が家へ帰ろう」
「え、え、お父様、それはどういうこと?」
ブランはソファーに座っていた娘に謝罪の言葉を述べて手を取る。事態を呑み込めず右往左往する娘を強引に立たせた。
「訳は帰りの道すがら話す。いいから急ぎなさい」
「ブラン伯爵! 何を血迷ったか!」
しかし、そのような暴挙を止めるのが娘婿の父親の役目である。
今回の婚約は、ブラン伯爵家とルモア子爵家を結ぶ物だ。家格という意味では伯爵の位を持つブラン家の方が遥かに上だが、その領地は長く続いた水害によって飢饉に陥っていた。ブランは娘のアリデットを差し出すことで、下位貴族でも金満であるルモアから支援の約束を取りつけたのだ。しかもすでに結婚式を明日へ控えている。荷物は子爵の屋敷に運び込まれ、輿入れの半分以上は終わっている状況。ブランの行動は暴挙にすぎる。
「……埋め合わせはする、許せ」
「許せ? 許せだと!? それで済むと思っているのか貴様!」
激昂した子爵は格上であるブランの胸倉を掴む。しかし、ブランが耳元で一言二言つぶやくと、力なくその手を離した。
「そんなバカな、陛下が……?」
「どうしたのパパ! そんな家柄だけの貧乏貴族やっちゃってよ!」
「フンッ、なにがパパだ。男なら自分でかかってこんか」
ブランは娘親の威厳を以ってルモアのドラ息子を睨みつける。そして情けなく項垂れる姿を見て満足げに頷くとアリデットを馬車へ押し込んだ。
強い者には媚びへつらい、弱い者はとことんいじめ抜くと悪名高いドラ息子との結婚が破談になったことは、アリデットにとっても僥倖だった――が、そもそも簡単に娘を売ろうとした父親の今回の行動には、いろいろと疑惑が尽きなかった。
「何を考えているのですか、領民のためを思えば覚悟も決めてましたのに」
「ふっ……ふふふ、ふははははははっ」
アリデットの疑問に対する答えは、盛大な笑い声だった。
愛娘が不満そうに顔をむくれさせているにも関わらず、ブランは子爵の屋敷が見えなくなるまで、愉快さをこらえられずにただただ腹を抱えて笑い続けていた。