先輩とパンデミック
「よをこめだ……とりしそらねぷ……はかるぶぅん……
ずもあふさかし……せきぷゆるさも…………」
古語なら大丈夫なのではないかとの一縷の望みは断たれた。
国語先生のただでさえ厳しい目と細い眉が、一句進むごとにきりきりと吊り上がっていった。
「せ……先生!! この子っ! 今日は凄く体調が悪いってさっき言ってました!!」
右斜め前から料理部ちゃんが助け舟を出してくれたおかげで辛うじて一命はとりとめた。彼女は始業前に会話を交わしていたのであたしの事情を知っていた。
今やあたしの第一言語は異世界弁。完全に口と喉を乗っ取られてしまっている。
授業終了後、料理部ちゃんに、
「ありがと! ほんと助かったよ!」
と心からの感謝を言うと、
「びっくりしたよ! さっきは冗談だと思ってたけどあの先生相手に本当に行っちゃうんだもん!」
とまるい目をさらに丸くした。
「そうなんだよ! うちの先輩にやられたやつだからね! 本当にわけわかんないだろうけどほんとなんだよ!」
あたしがそう答えたはずの後、彼女は眉間にしわを寄せてむっと考え、
「『そうなんだよ。うちの先輩にやられたやつだしね。本当にわけわかんないだろうけどもほんとなんだよ』って言ってるってことで合ってる?」
と確認してきた。
今のあたしはどうやっても異世界弁しか喋れない。
だから不運にも今の授業で当てられてしまって危うく死にかけたというわけ。
自分の言葉が信用できないので、「うん」と言いながら念のため首も縦に大袈裟に振ると、
「あ~、あのお姫ちゃん先輩ね。凄いかわいいのにりんごとくるみ素手で握り潰しちゃう人だもんね。そんな人なら有り得るかもねえ」
彼女はうんうんと納得した。
さらにあたしの様子を心配しにきてくれたのか、からかいにきたのか、集まってきた人の中にバスケ部ちゃんもいて、「あの人ならある」と、サッカー部ちゃんに至っては、「いや絶対ある! 有りえすぎる! あの人なら何が起こっても不思議じゃない!」との力強い筆跡のお墨付きをくれた。
そんなこんなでひとまずは落ち着いた。
でもその頃、二年一組はえらいことになっていた。
昨日は先輩は三日ぶりに登校してきたんだけど、来たのは午後からだし異世界疲れもあって、部活に来るまでは本調子ではなく、その時点での感染者は数名とそれほど大きな問題とはなってはいなかった。
でも今日は当然朝からの登校で、さらに一晩経って元気いっぱい。清楚で奥ゆかしい見た目とは裏腹の多弁な彼女は、始業前のほんのわずかの間に二の一全員をもれなく異世界弁話者にさせてしまっていた。
当然、授業でやって来た教師はそんなこと知るはずもない。始めはわけのわからない言葉を喋る生徒たちにからかわれているように感じて激怒するんだけど、先輩がなだめすかしている間に違和感も消え、授業が再開されるということになっていた。
その異世界弁に感染した先生が、三時間目の地理の授業でにうちのクラスにやってきた。
あたしは聞き取りにまったく問題なくて気付かなかったんだけど、なんかみんなざわざわしてるし様子が変だなと思ってたら、
「ねえ……もしかして……」
と授業後に料理部ちゃんがあたしと先生が同じ言葉を話しているみたいだと言ってきたことで、
『ああこれは』と事情を察することができた。
細菌かウイルスか魔法か原因は分からないけど、得体の知れない何かを撒き散らして異世界弁を感染させることができるのは、どうやら先輩だけらしい。今日あたしと結構喋っている料理部ちゃんも健康そのものでぴんぴんしてるし、今の授業を聞いていた生徒たちも、最後まで先生の訛りに違和感を持ったままなようで、二次感染は起こらないみたいだった。
でもそれはそれでまずい。これがいつ治るのか分からないし、もしかしたら一生このままかもしれない。
二の一は先輩が先生を患者にすることでどうにかなるけど、あたしは普通の一般人だしそんな技使えない。やばい。
いっそのこと感染爆発でもしてくれて生徒も先生も全員罹っちゃえば……!
(――そうだ!!)
とりあえず四時間目の授業は指されないことをひたすら祈りながらやりすごした。
授業が終わるやいなや、あたしは教室を飛び出し、二年一組に向かった。
お弁当の包みをほどこうとしている先輩を担ぎ上げ、今度は放送室に向かった。
ノックもなしにその部屋に乱入すると、驚く放送部員さんのマイクを奪い取り、
「はい。お昼しおなじみグッドランチタイムなんちゃらかんちゃら、ぐべ最初し曲ぷ理科部部長による校歌ぶぅん。はい!」
とまたマイクを先輩の前に突き出した。
さすが先輩。数多の修羅場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の異世界帰り。こんな状況でもびくともしない。
「く~もぷたか~くそ~らにゅまい~ ま~なびやむかいにょわ~れごめす~♪」
内野女子高等学校校歌 Isekai Ben Ver.を先輩は朗々と歌い始めた。
先輩のことなので二番以降は覚えてないだろうと、生徒手帳の校歌のページを広げて見せた。
二番、三番、口内でたちまちに溶けて消えてしまう極上の砂糖菓子みたいなソプラノのエンジェルボイスが校内に響き渡る。
「――ぢゅ~ぢゅ~う~ち~のじょしこ~と~が~っこ~~~~~♪♪」
そうして先輩は四番まで歌い上げた。
「失礼しました」
と唖然とする放送部員さんにあたしはマイクを返すと、また先輩を抱えて二の一に戻り、彼女を投げ捨て、自分の教室に戻った。
「どうかな?」
料理部員ちゃんに聞いてみると、
「ふしぎ~! 訛りがなくなってる!」
事なきを得た。
なくなってないけど。