先輩とクライミング
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ゴミ箱に投入された空き缶が立てた音は、これまでの沈黙を全力でもって粉砕するあたしの叫びによってかき消された。
パンストの網目から溢れ出た涙がおでこを伝ってだばだば流れ落ちる。
びちょびちょのパンストを被りたいと言ってはいたが、あたしが求めていたものはこれじゃない。自分の体液じゃ意味がない。
「なんでよ!? 告白って普通校舎とか体育館の裏でするもんなんじゃないの!?」
あたしは顎を引いて顔を上に向け、地上すれすれのローアングルから先輩に八つ当たりした。
「あそこも人気がないところだからな」
うちの学校では校舎裏も体育館裏も運動部のトレーニングの場となっているらしい。なので、今の時間、校内で最も人に出くわしにくい場所というのがあの踊り場というのは間違いではなかったかもしれない。
実際、彼女らは人には会っていない。妖怪に遭遇しただけだった。
「こんな格好見られたらあたしもうお嫁に行けない!!」
恥の感じ方は人それぞれなわけだけれど、あたしはこの姿と裸だったら僅差で裸の方がマシだったように思う。
「そんな大げさな。別にパンスト被ってひっくり返ってるだけじゃん」
先輩はまあ先輩どおりって感じなんだけど。
「そりゃ先輩は乗ってただけじゃないですか!! てか先輩上だったんだから何かできたんじゃないですか!?」
彼女はあたしのお腹の上で終始微動だにしなかった。
「そら私もこら最高にやべえことになったなって思ったよ。だから『うぇいうぇいうぇ~い』みたいなおちゃらけたノリでごまかしてやろうかとも思ったけど、さすがにあの空気じゃそれは無理だろ。マジであいつの顔凄かったしそんなん私後で絶対ぶっ殺されるだろ。だからあの場は私は動かないのが正解だと思ったんだよ」
確かにそうだけど。あたしが考えてたことと完全に一致してるんだけど。
だが納得いかぬ。
「そうですけどそれ以外にも絶対なんかあったでしょ! どっちにも面識ないあたしがいきなりなんか言い出すのも違うし一人は先輩の友達なんだから先輩が何か言うのがスジってもんでしょ。正直に『げっぷを出すためにいろいろ試してみてるんだけど全然出ないんすよ失敬失敬』とか!」
「いやお前それも無理だろ。あの場はもうなんか喋るどころじゃなくて音を立てること自体が死みたいな緊張感だったじゃん。あの空気じゃ何言ってもデッドエンドしかなかったぞ」
確かにそうだけども。ちょっとでも音を立てたら空気が鋭い氷の刃となって襲い掛かってきて全身切り刻まれそうな感じではあったけども。以心伝心一心同体ぶりに感動すら覚える。
だが納得いかぬ。
……とはいったものの、どうにも相手の方が正論っぽい。まだまだ全然文句言いたいけど次の言葉が出てこない。その空いてしまった時間に先輩がまた言葉を連ねてきた。
「てかお前こそなんであそこで止まったんだよ。あんな地獄見なかったことにしてそのまま全速力で突っ切るところだっただろ」
ぎゃふん。
「あ、あれはまあアレですよ! あそこは最初から休憩地点にしようみたいな感じで腕も足も限界だったし全力疾走してたしって感じで最初っからからあそこで一旦休もうと思ってたんで止まろうとしたらなんかいるぞみたいなものすごい予想外な感じだったんですよ!」
ここをほじくられたら勝ち目はない。だから、今度はあたしの方が先輩に声を発する隙を与えない。与えたら死ぬ。
「てかもう済んだことはもうしょうがないじゃないですか! 今さら言ったところでどうにもならないし! そんなしょうもないことで争うよりも今あたしたちが緊急で考えないといけないのはこれからのことですよ! 多分今戻ったらまたあの二人に鉢合わせちゃいますよ? かといってここで待ってても向こうから来そうですし、それだけは絶対に避けないといけない事態でしょ!?」
隙間を埋め尽くすためだけに思い付きの言葉をでたらめに羅列しただけだったんだけど、図らずもこれが的を射ていたらしい。
先輩の大雑把な性格も幸いし、向こうからの厳しい追求は無かったことにして、話をはぐらかすことにまんまと成功した。
「まあそうだな」
『よし!』と叫びたくなるのを堪え、さらに続きを聞く。
「だけどどうすんだよ。お前この状態で走り回っても傷を増やすだけだぞ?」
まだ明るいし暑いとはいえ今の季節は秋なのだ。日は短い。部活勢の帰宅ラッシュで校内が最後の盛り上がりを見せる時間は近い。そして、ここは多くの文化部勢の帰り道ど真ん中である。
またもやの危機、先ほどの地獄の試練によってしわしわにしぼんでしまっている脳みそだけど、再度火を入れざるを得なかった。
しかし、極限まですり減っているのは頭だけではなかった。裏返りの全力疾走によって体もオーバーヒート状態である。考えようにも集中できない。
誰にも遭わずに部屋まで帰る方法……。
あちぃ……。のど乾いた……。
もうすぐ下校時間……。
あぢぃ……死ぬ……。
なんか飲みたい……。
あづぃ……。
あぢぃ……。
……。
……!? ってそうだよ! あついだよ!
「窓です! 窓から入りましょう! 今日暑いんであたし窓開けてたじゃないですか!」
人に遭わないルート。壁の外側で通りすがりの通行人とばったり出くわすなんて確率は限りなく低いはずだ。
うちには登山部やボルダリング部みたいな壁にへばりついてなんかする系の部活はない。
それにいくら外壁は人が少ないからといっても、まさかそんなところにまた告白の場が開設されているということもないだろう。
これしかない! くわっと目をひん剥いて下から吠えた。
「そうだな! 四階だしちょっときついかもしれんが今の私たちなら行ける!」
先輩も再度目に闘志を燃やした。
「じゃあ先輩! まず景気づけにコーラ買ってください! お金はあとで払います!」
「いやここは私が奢ってやる! 私は今度はぶどうだ!」
「あざす!」
とあたしは黒パンストの縁に指を引っ掛けて口の上まで下ろすと、フタを開けたところまで用意された赤白の中身を一気に飲み干した。
「かーーーーーーーっっっっっ!!!!」
二人してまた喉の痛みを叫びに変えた。
そうしてすぐさま、缶がゴミ箱の中で立てたであろう音も聞く前に、あたしはまた猛然と走り出した。
疲れているとはいえ、こんだけ走り回ったおかげでこの体勢にも慣れた。水分も補給して体力も多少は回復している。後ろ向き裏返り四足爆走で部屋の真下まではあっという間だった。
はるか高くそびえ立つくすんだベージュの四階建ての校舎。
その威圧感はまるで魔王城の如しだった。
とはいえ、怯むわけにはいかない。
今あたしたちは成功か失敗か紙一重のギリギリの勝負をしているのだ。せっかくのスピードをわずかでも殺すなんてことはできない。
全速力で疾走中のあたしはをここぞとみるや全身をバネにして地面を力いっぱい蹴り飛ばし、壁に向かって跳躍した。
そして、先輩もまた絶妙のタイミングで一階のひさしに手を掛けて、そこを支点とした振り子の軌道で勢いをそのままに、二人で一つの体を水平移動から垂直移動の方向へ転換させた。
それにより、これまでずっと地面に近いところにあったあたしの頭は久々に本来あるべき位置へ戻ることとなった。
重力によって押し留められていた血液が一気に首から下に流れ落ちるのを感じた。
鬱血で泥団子みたいに重くなっていた頭は台風一過の空のようにすっきり爽やかに晴れ上がり、体は逆に長い日照りの後ついに降り注いだ雨水をたっぷり染み渡らせた大地のように瑞々しく潤った。
勝った!!
まだ最初も最初の一階部分でしかないものの、精神も体力も超回復したあたしは勝利を確信した。
四階をよじ登るなんてこと普通の人間には無理なのではとの不安は完全に払拭された。
むしろ、今のあたしの体勢なら地面を歩くよりも壁を登ることの方がたやすいはず。二足歩行する人類の頭はやはり体の一番上にあるべきなのだ。今の状態の軽快さといったらさっきとは比べ物にならない。全身が意のままに動かせる。表裏はひっくり返ったままではあるけど、そんなのは取るに足らない些細なこと。その気力十分なあたしに先輩という物の怪の力が加わるんだもん、こんなん絶対負けようがないし余裕でいけるっしょ。これは勝ったよ。大勝利。
八本の手足を次々繰り出して窓枠を掴み、壁の段差を蹴り、ひさしに飛び、縦に横に斜めに、重力などまるでないかのようにひらりひらりと壁を走った。
そうしてあたしの後ろ足が三階の何らかのでっぱりに最後の一蹴りをカマして大ジャンプ、先輩の手かあたしの前足か、ついに辿り着いた四階のこの部屋のこの開かれた窓の枠に指のどれか一本でも掛かればというところだったんだけど。
まさかのタイミングであたしのお腹が異変を訴えた。
さっき出撃前の景気づけとして飲んだコーラのせいだ。一缶フルの一気飲みはさすがに効果てきめんだったようだ。
そしてさすがの一心同体、全く同じタイミングで上半身にも変調が生じた。
あたしのお腹から、先輩のどこかから、突如込み上げてきたそれが喉を通って口から鼻から吐き出された。
「ひっく」「ちゅん」
冷たいジュースの一気飲みで横隔膜がびっくらこいたあたしはしゃっくり、体が冷えた先輩はくしゃみ。
どっちの手もスカって体はもろともに落下、あたしと先輩死亡。




