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先輩とジョロウグモ

 あたしは背を床に仰向けになった。


 まずは己に喝を。


 絶叫を一発、天井に向けて放った。


 そうしてえいやっと気合で背中を持ち上げた。弓なりに体をしならせ、両手両足が床でお腹を頂点とするリバース四つん這いとなった。


 まあ分かってはいたがかなりキツい体勢だ。お腹も圧迫されているような気がする。でも、全身満遍なくキツい体勢なのでお腹も同様なのだと錯覚しているだけなのかもしれない。なぜそう思ったかというと、やはり出ないからだ。


 揺れてみたりくねってみたり吠えてみたりしたものの、出ない。


 ゆっくり歩いてみても、出ない。


 胃も顔面も十分に締め上げられているけど、げっぷを出すにはさらなる負荷が必要なのかもしれない。


 ちょうど手ごろな重しが隣でまだげらげら笑っているのでそれに声を掛けた。


「先輩、ちょっと乗ってみてください」


 よっこらせと、公園の馬とかパンダみたいな揺れるバネの遊具に跨るように、先輩がお腹にライドオン。


「うぐっ」


 あたしだってか弱い女子、そんな呻きも出る。体勢が体勢だけに同じ重さでもさっき膝に乗せた時とはわけが違う。だけど、非常に厳しいが支えきれないほどでもない。ちょうどぎりぎりいっぱいのいい塩梅の重しだ。


 げっぷ、出そうな気配を感じる。


 またちょっと三歩ばかり歩いてみた。


 お!


 苦しい。胃の様子は今までとは明らかに違う。


「これ出るかもです!!」


 俄然、二人の意気は燃え上がった。


 先輩もへらへら抜けきったツラを一変、鋭利な眼光を取り戻した。


 彼女も残りのオレンジ炭酸を一気に飲み干すと、あたしの赤白の空き缶も手に取り、それらを高らかに突き上げ、咆哮を轟かせた。


「缶捨てに行くぞオラ!!」


 その声が合図とばかりに、あたしは猛然と駆け出した。


 後方に向かって全力前進、スピードはスタートから最高速だ。


 腹の上には先輩が騎乗している。さらに視界もひっくり返っている上に黒い。


 だがそれがどうした!! 


 意外にもこの黒パンストという装備品はかなり良い。


 いい感じに顔面が締め付けられているせいか、心もきりりと引き締まる。先輩のパンストはあたしにとって伝説の防具だったのかしらというぐらい相性がいい。


 黒パンスト、これを装備したなら何だってできそうな万能感が腹の奥底から湧き上がってくる。


 今のあたしを止められるものなどこの世に存在せぬ!


 椅子も机もなんのその、ひらりひらりと華麗にかわし、あっという間にドアの前まで来た。


 あたしと先輩、さすが二人の仲というもので、上体が勢いよくすぱーんとドアを開けるや否や、下半身は阿吽の呼吸で速度を保ったままそこを難なく通過した。


 そうして次なるコースは廊下。


 この棟のこの階の部屋を使っているのうちの部だけ、あたしたちを遮るものは何一つない。はるか彼方まで続く気持ちの良い一直線に、溢れる高揚感は最高潮を突き抜けた。


 最高速からさらに加速してストレートを突き進む。怒涛の如くばく進するあたしたちはもはや一個の生物である。


 手足が八本ならアラクネや絡新婦といった蜘蛛の怪物。

 あるいは人馬一体でスレイプニルのケンタウロス。

 さらにパンストも加えて十本足とするならイカバージョンのクラーケン。


 身も心も完全に融合し一心同体となった我らの勇姿はそういった伝説上の存在にも比肩するほどのものであろう。


 よって、この途方もなく長いストレートも駆け抜けるのは一瞬だった。


 あたしはその終わりで必要最小限の減速をし、先輩も強大な遠心力で振り落とされないよう目一杯体を倒し、高速を保ったまま直角コーナーを左に曲がった。


 それから下り階段を慎重かつ大胆に前足と後足を互い違いに次々と繰り出して滑るように下っていった。


 なんかすごい昔のホラー映画でこういうのあったけど、あたしの方が断然強いよ。

 上の人がいてこのスピードだよ? 

 そんなんちょっとやそっとの雑魚モンスターなんかじゃ無理でしょ。


 今のあたしを倒すことなんて神でも魔王でもできはせぬ!


 そしてついにあたしたちは今コース最大の難所を迎えた。


 踊り場!!


 四階から三階のちょうど真ん中に位置し、急な下りで乗った速度を完全に殺して百八十度真逆に方向転換した直後、またすぐ階段が待ち構えているという超絶テクニカルなゾーンだ!


「ゔ〝ぉ〝え〝え〝え〝え〝え〝え〝え〝え〝え〝え〝え〝え」

「で〝ゃ〝ぁ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ」


 あたしたちは白目を剥いて絶叫を上げながら力と技で勢いをねじ伏せ急旋回!!


 よし!! 最高のタイミングでコーナーをクリア! 残りの半分も気合入れていくぞ!!


 女子が二人いた。


 長身の女子と、小柄な女子。


 いかなる状況か、一目で立ち止まってしまうぐらいに分かりやすかった。


 長身の人はバスケ部のユニフォーム姿でその手にはかわいらしい薄ピンクの封筒、小柄な子は夏服で赤い目と赤い鼻。


 これは小柄な方の子の瑞々しい想いがあえなく淡い夢へと変じることになってしまったその直後ということでほぼ間違いない、という答えをあたしの脳は瞬時にはじき出した。


 どえらいところにどえらい姿で飛び込んでしまった。


 片や切なく可憐な甘酸っぱい恋の物語。


 片や妖怪絵巻。


 この温度差たるや。


 心臓におびただしい数の毛根がびっしりひしめいていて、長い黒髪は全てそこから伸びてきているに違いないというほど図太さには定評のある腹の上のこの先輩をもってして、空き缶を持った両手を下げることもできないままただ固まっていることしかできない、未だかつてこんなにも動揺した彼女を見たことがないというぐらい未曾有の大惨事である。


 いやもうなんで立ち止まってしまったんだあたし! 


 こんな場違い極まる場所むしろ加速して全力で突っ切るべきだったのに。そしたら被害は最小限で済んでたのに。


 一瞬の判断ミスでちょっとした地獄がものすごい地獄になってしまった。


 ほんとなんでこんな最悪なことになってしまった!?


 そう悔いても後の祭り。


 相手方二人の、世界が終了した後の景色を眺めているかのような一切の色が失われた虚無の視線はまるでメデューサの呪いのよう。あたしの体も先輩と同様に石にされてしまっていた。


 小柄な子の方はところどころのえんじ色から一年であることは分かるが、それ以外のことは分からないというという、そのことはあたしにとってまだ救いだった。


 しかし、バスケ姿の長身女子というのがあの先輩であるという、その事実が絶望的であった。


 あの先輩とは、腹の上の先輩の友達であるバスケ部のあの先輩であるのだ。


 これほどのかっこいい美人、是非お近づきになりたいと思うのは当然なわけで、彼女との接点を持てるよう何らかの計らいをしてくれとかねてより先輩にお願いしていたのだが、それがまさかこんな形で相対することになるとはちょっと思ってもみなかった。


 ものすごい美人とまあまあかわいい子というのが向こう側。


 一方で奇跡なんてありきたりな言葉程度じゃ軽すぎて箔にならないぐらいの美人とまあまあかわいい子というのがこっち側。


 あたしは勉強も運動もまあ至って普通なんだけど、実は見た目については微妙にかわいい方の女子ではあるのだ。


 先輩があまりにも人外な存在であるので、それと並べられるとその他の有象無象の一芥に過ぎない程度であるとはいえ、絶対評価でなら一応中の上の下か、中の中の上ぐらいには位置しているという自身の認識は決して思い上がりではない。客観的評価を踏まえた上での冷静な自己分析である。


 なので、戦力としてはうちの超弩級美人一人の圧倒的な実力のおかげで引き分け以上ではあるはずなのだが、この目を覆うほどの惨敗っぷりは一体どういうわけなのか。


 まあ、その理由は単純なんだけど。

 

 今のあたしが顔面黒パンスト裏返り女だからなんだけど。

 呪いの装備のペナルティでパラメータが地の下にめり込んでるからなんだけど。

 しかもなんかさらに腹から人が生えてる上位種に進化してるんだけど。

 いくらその上の人がとんでもなく強いっつってもこんなのカバーするのは無理なんだけど。

 てかそもそもの話そんなおかしい奴に乗ってる奴もおかしくないわけがないんだけど。

 で、結果がこれなんだけど。


 いやてかマジなんでこうなった。

 意味分かんないんですけど。


 と、ここに立ち止まってしまってから数秒が経過した。


 しかし、その間体は動かせない代わりに脳みそだけは打開策を見つけ出すため世界最強のスパコンをも凌駕する処理速度で回転していたので、実際の時間はたったの数秒でもそれが千年に等しく感じられた。


 よって、それほどの年月をひたすら考え続けていたとなればなにかしらは閃くわけで、


 パンスト!!


 そうだよ! 黒パンストだよ! 

 もしかしたらこれ大丈夫かもしれない! 

 今のあたしパンスト被ってるんだから誰だか分からないんじゃないの!? 

 そうだよ! 先輩があんだけ笑ってたんだもん、今のあたしの顔は人の原形をとどめてないはず!

 しかも黒だし! 

 それに一年の子は知らない子だし、バスケ先輩も間近で会ったの一回だけで会話したこともないしあたしの顔なんか覚えてないって!

 だから絶対あたしだって分かってないはずだって!


 所詮凡人がいくら考えても無駄なこと。


 あたしが思い付いたのは解決策ではなかった。


 体感千年もの時間をかけて出てきたものは、あわよくば逃げられたらいいなという策でも何でもない、ただ自分に都合のいい浅はかな希望的観測であった。


 とはいっても、これ以上ここに留まっているわけにもいかない。


 この場はもはや人間が活動できる場所ではない。


 雰囲気は重いだの苦しいだの、人の視点で計られる範疇をとうに超え、天文学的規模にまで増大した圧力によって固体化してしまっている。


 体も心も窒息寸前、恐らくあと三秒もすればこの内の誰かが絶命することになるだろう。

 思い付きの甘い望みだろうとそれに賭けるしかない。

 一刻も早くとか緊急にとかじゃもう手遅れ、即断以外の選択肢はない。


 ちゃんと事情を聞いたわけではなく、あたしの憶測でしかないからまだ決まったわけじゃないんだけど、恐らく振った振られたで心がすり減らされた直後であろう向こうの二人は動けない。


 そして、あたしと同じことを考えているであろう上の人も動けない。というか、今この人が動いたらさらに状況を悪化させるようなことをしでかしてくれそうなので、むしろ困る。


 だから、やれるのはあたししかいない。


 決意するなんて無駄なことに割ける時間はない。呪いで動けないとか言ってる場合じゃない。


 生命の危機によって反射的にあたしの右の前足がのっそりと踏み出された。


 瞬間、押し固められていた緊張は爆散し、その爆風は四者の脳内を襲った。


 凄まじい混沌の嵐が吹き荒れ、あらゆる全てが薙ぎ払われた。


 しかし、場といったらしんと静まり返ったままである。


 そのような激しい動乱も心の内側だけの話、重圧は多少減ったとはいえ依然限界を超えたままである。そのため、誰も顔色を変えることはできないし、声を発することもできない。


 唯一できること、それはあたしが歩を進めることだけ。


 なので、また無意識のまま、あたしの左の前足と右の後足がゆっくりと持ち上げられた。


 そして、その二歩目はついに場の空気も変質させることに成功した。


 ほんの少しだけれど、あたし以外の人も体の自由が利くようになった。


 小柄な子は赤い目をすっと向こうに背けた。


 バスケ先輩も長身の一番てっぺんからこちらを見下ろしていた顔をすうっと上に向けた。


 上の石は動かない。


 二人の視線が逸れたことで、あたしの心の方の重圧は大幅に軽減されることになった。


 いつか二人の未来におけるちょっぴり酸っぱいけどとっても素敵な思い出になるはずだったであろう青春の美しい一場面だったのに、その超絶感動見開きページの左半分が何の手違いかこんなザマになってしまって本当に申し訳ない。


 そう心の中で詫びながら、右の前足と左の後足を動かして三歩目を歩み出した。


 続く四歩目の左前足は後半の階段の一歩目となった。


 それから、五歩目、六歩目。


 そうやって同じ速度でもって、妖怪はぺたぺたと階段を三階の方へ下って行った。


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