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先輩とパンスト

「いきなりぶん投げないでくださいよ」


 ぷっくり膨らんでしまった後頭部をさすりながら文句を言ったら、


「え? なんて?」


 と聞き返された。デス声は低音の咆哮より高音の絶叫のやつの方が殺傷力が高いのかもしれない。


 というわけで、げっぷを出そうとしたらなぜだか二人して瀕死のダメージを負ったという意味不明なことになった。


 だが出したい。


 げっぷ、己の意思で出してみたい。


 そして、炭酸はまだ半分残っている。


「どうしたもんかね。圧迫するのがいいのか逆に力を抜くのがいいのかどっちがいいんだろうな」

「なんか北風と太陽みたいですね。でも甘やかすのは今やってダメでしたよね」


 背中ぽんぽんはべたべたに甘々な雰囲気と全身のリラックス作用はたいへんによろしかったが、げっぷ出せない人にはまるっきり効果が無いようだった。


「じゃあ次は思いっきり締め上げてみるか?」

「ですね。といってもどうやって?」


 胃を締め上げるとは。腹筋をめちゃくちゃ鍛える、ぐらいしか思い付かないけど今すぐは無理である。なので、


「ブリッジとかどうですか?」

 今すぐできることで一番胃を圧迫できそうな体勢はこれなのかなと。でも、


「あーでもそれ髪が床につくよな」


 確かに。


 あたしの髪ならくくれば大丈夫そうだけど、先輩の量と長さだとそうしても難しそう。


「しょうがない。あたしだけでやってみます」


 というわけで、今回はあたしだけのチャレンジ。準備のためにバッグを漁った。が。


 ってあれ? あるはずのものがない。


「ヘアゴムないす」


 昨日、部屋の掃除のついでにバッグもひっくり返して砂や綿ぼこりを払ったんだけど、その時入れ忘れたっぽい。


「先輩ある?」

「うん」


 彼女も隣の机に置いていたバッグを自分の前に置き、ファスナーを開けた。


 ごそごそ。


 まず出てきたのは髪留めではなく、黒くて丸いロール状のもの。すると、


「あ! 私これ被ればいいじゃん!」

 先輩は目を輝かせた。


「なんこれ? ストッキングですか?」

「うん。今日朝ギリギリだったからとりあえず突っ込んどいて後で履こうと思ったんだけど、なんかえらい暑くなっちゃったからな」


「へー」

「じゃああとゴムっと」


 続いて先輩は本来の目的のものを再捜索し始めたんだけど、


「あたしがこれ被りますよ」

「ん?」


 先輩は手を止め、失笑気味にあたしを見た。


「あたしこれ被りたいっす」

「そうなんか。まあ私はいいけど……」


 そんなわけで先輩はコンパクトに巻かれたロールをあたしに差し出した。


 くるくるをほどくと、よれよれふにゃふにゃの長い二本となった。黒パンストである。


 しかしこれ、ちょっと不満がある。


「でも先輩のストッキングかあ……」

 そう漏らしたら、


「なんだよお前自分で言いだしといて。ちゃんと洗濯してあるし今日まだ履いてないぞ」


 今の言い方では無理もない気がするが、先輩はなにか勘違いしたようだ。片方の眉を微妙に上げたので、


「あ、いや、逆ですよ。逆」

 即座に否定した。


「逆?」

「はい。先輩のパンスト被るんだったらこんなまっさらなつまらないやつよりも一日ぴっちり密着して先輩の体からにじみ出たにおいやらエキスやらをたっぷり吸収してムレムレになったやつの方がいいじゃないですか」


 と、『ちょっとの不満』というものの正体がなんぞかを説明したら、


「お前も大概だな」


 先輩は呆れつつも満足げな顔をしたんだけど、


「じゃあ一回履いてやろうか?」

 と、瞳を妖しく光らせた。


 さすが先輩、数多の戦場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の強者である。あたしのちょっぴりだけ曲がった欲望の直撃を受けてもびくとも動じない。


「いやだからあたしはそんな上っ面だけの場当たり的なのは求めてないんですよ。午後の体育が持久走だった日とかの遊びじゃない本気なやつがいいんです」

「お前なあ、そんなに私のこと好きならキスの一つぐらいさせてくれてもいいだろ」


「いやいや、キスなんてそれこそ大ごとじゃないすか。外国は知らんけど日本ではかなり親密な恋人同士がするものだってなってるじゃないですか。あたしは遊びでそんなことするほど軽くはないんですよ」

「いやだったら恋人同士になったらいいじゃんか。親密度だって恋愛ゲームなら数値的には間違いなくクリアしてんだろ」


「いやいやいや、だからあたしはそんな軽いノリで付き合ったりするほどユルくはないんですってば」

「いやいやいやいや――」


 また話が大きく逸れてしまった。いずれ機会を見てパンスト交換会でもやろうじゃないかということで、ひとまずこの話は収まった。


 というわけで、ブリッジパンストげっぷチャレンジ。


「んじゃあ行かせていただきます」


 先ほどと同じく、んごんご、んごんご、からの


「かーーーーーーーっっっっっ!!!!」


 でも、缶を机に叩き付けたときの音は先ほどより明確に軽い。からっぽの音。


 そして、高伸縮性の黒い薄布を両手でもって、あたしの頭よりちょっと広くなるぐらいまでこじ開けた。


「じゃあ行きます」


 あたしはメイクなどしていないし、躊躇はない。それを一気に頭から通した。


 顔面が高摩擦で擦り付けられた後、親指を抜くと同時に高密着で締め付けられた。みちみちのむちむちで視界は悪い。顔を真っ赤にしてのけぞって大笑いする先輩の姿はいつもより六十デニール分黒い。


「ちょっと笑いすぎですよ」


 自分の顔は自分では見えない。この彼女がひいひい涙流すぐらいなんだから相当なもんなんだろう。


 でもまあ先輩の顔がこんなことにならなくてよかった。


 あたしがパンストを被った真の理由、それは先輩のブサイクな顔を見たくなかったから。


 あたしは先輩の顔だけは本当に心の底から好きである。それはもはや信仰の域に達している。その美しさを崇拝している。顔だけは。十劫ぐらいの時間なら何もせずただただ眺めていられる自信はある。顔だけは。それが醜く歪められるなど、原理主義的先輩之顔面信者を自負しているあたしにはちょっと許されない禁忌なのだ。


 あたしもこんなの被るのは恥ずかしいけど、彼女のへちゃむくれた顔見るよりは何倍もいい。


 だからあたしが身代わりになったというわけ。


 が、うるさい。ちょっと笑いすぎ。さすがに失礼なんじゃないの。いい加減こいつ膝蹴りで顔面凹ませてやろうか。と、


「こら!」


 撮影禁止に決まってるだろうが! 先輩のスマホのレンズ部分を手で遮った。


 こんな姿を撮られてはたまらない。あたしの頑強な抵抗により、彼女の無邪気な犯罪行為は阻止された。


 しかし、それはそれ、彼女の狂乱は一向に収まらない。落ち着いたかなと思っても、彼女の視線があたしの顔を捕捉した瞬間、またけたたましく騒ぎ散らす笑い袋に戻るということを繰り返している。


 よろしい。こいつはもうダメだ。ほっとこう。我々の本来の目的はげっぷを出すこと。


 今はそれを遂行する。


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